前回までのあらすじ

43歳男性。いろんな意味で先細りの人生を感じていたが、ある日、後悔を残さぬよう、3年間懸案となっていた冒険を決行するのであった。

 

第2回:いよいよ突入

店の前へ歩いていきつつ、やはり目は看板へ吸い寄せられる。間違いなく、ひっくり返っている。ああ、やっと気になっていた店へ入れるのだ。もし、テーブルもさかさまだったらどうすればよいであろうか。店には逆立ちして入るべきであろうか、など思いは乱れつつ、入り口に向かった。すると、店に近づくにつれて、なにやら音楽が聞こえるではないか。それも、なぜかモダンジャズ、たしかあれはソニーロリンズ。ジャズ喫茶に対抗しているのか。すると、この店で働いている人は、ジャズ麺とよぶのか?(笑)

やや、意表をつかれつつ、店のドアを開ける。すると、店の外に響いていたジャズが、店内にも響いている。やはり、ただものではない。いままで数々のラーメン屋に入ったが、ジャズはなかった。無音、演歌またはJPOPだった。これで、またひとついい経験ができた。生きてて良かった。次はぜひ、クラシックの流れるラーメン屋を探そうと心に誓うのであった。

店に入ると、バンダナに黒いエプロン、黒いパンツ姿の粋な女性が一人かどうかを訪ねた。一人なのでカウンターに座る。4−5人がけのテーブルが、ひっくり返らずに、5つほど店内にあった。客の入りは、昼時なので9割くらいか。店員は、物静かで、決して「らっしゃーいっ!」と声を張り上げることはない。目の前の壁には、学会のポスター風の2メートル四方の大きなメニューが張ってある。メニューはさほど多くはなくシンプルである。写真入で、老眼の私にも良くわかる大きなつくりであることに好感を持つ。その写真を見ていて驚いた。なんと、写真のラーメンのどんぶりのふちに、「いっぷくラーメン」と印字されてあるのであるが、この「ラーメン」も上下反転しているのだ。ここにきて、看板文字反転現象は、単なる偶然ではなく意図的なものであると確信に至った。どじな看板屋に関する私の妄想はどうしてくれる。中年の純情はどうなる。勝手な妄想だといわれようが、仮にも3年間妄想をたくましくしてきたのは、ひとえにあの看板のせいである。それが意図的なものであったとは。軽い怒りと、中等度の失望と、大きな諦念が程よくブレンドされた感情をこめ、「チャーシューめん・・」と告げたが、店員にはこの気持ちは伝わらなかったであろう。

注文してから、どんぶりが届くまでの時間は、手持ち無沙汰である。早すぎては間が悪い。といって、長すぎるといらいらする。ちょうどいい時間は、3分くらいであろう。突然であるが、この待ち時間は、回転寿司には存在しない。回転寿司には逆に、待ち時間がない分、すべてが客しだいである。客が急げば急ぐほど、短時間に食事を済ませられる。私はせっかちなので、回転寿司に入ると、常にせかされている気がして、10分で8皿たべて出てきてしまう。座るや否や、右手で小皿、左手に湯のみを持ち着席、すぐに右手に醤油をもち小皿に注ぎつつ、左手で湯飲みにお茶の葉を投入、すぐに湯を注ぐ。この間、目の前を通過する寿司たちに油断なく目を走らせる。正確には、今後数秒以内に通り過ぎようとする皿たちを監視すべく、斜めに視線を走らせる。視線は当然左右に動き、眼振を起こしそうになる。食べたい皿がゆっくりこちらにめぐってくるとき、自分の上流の客が取らないかどうかを危惧するあまり、心拍数と血圧が上昇するのも問題である。私の経験では、しかし、上流の客と競合したことはないし、喧嘩になったこともない。フジギである。そんなに意地汚いのであれば、最上流に座ればいいのであるが、そこまでの勇気はない。この辺が、中年の微妙な心理なのだ。

このように、回転寿司は好きなのだが、精神的健全さを保つ上では不適である。ラーメン屋では、品1対客1関係であるが、回転寿司では品多対客多関係であることがこの原因であろう。不思議なのは、回転寿司でもやたら注文をとって回る店があることで、これでは、なんのために寿司が回転しているのか不明である。(ちなみに、すし市場、新町店がそうである)などど、妄想をたくましくしていると、ついに目の前にチャーシュー麺が届いたのであった。

 

第3回へつづく