「教育」は嫌いな言葉である。責任、反省、努力、空腹、二日酔いなども嫌いな言葉である。

なぜ「教育」がきらいなのか?聞いただけで、いやーな気持ちになる。

教育されるのもするのも苦手だからであろう。ここで、教育に対する悪口を思いっきり書き連ね、日ごろ、いやなことを強制される仕返しを試みると同時に、教育の意味を考察したい。文字を書きながら出ないと考えられない変態的思考回路なのだ。

教育される場合を考えてみる。中年となった今も教育を受けているのかもしれないが、特に教育を受ける機会が多かったのは、小学校〜高校であろう。何をどう教育されたのか定かではない。

朝起きる、学校へ行く、帰る、の繰り返しであった。それでも、記憶に残る先生はいる。いつも雑談ばかりの先生、どうして教師になれたのか、発音がむちゃくちゃな英語の先生など。どうも、変な先生ばかり覚えている。しかし、自分の教える教科が好きで好きでたまらないことが伝わる人もいた。その人の授業を受けるのは、授業というよりも、コンサートか講演会を聴きに行く感じがした。また、ぼやき漫才のように、いつも世の中のことを教壇からぼやいてばかりの愚痴先生もいたが、この人は好きだった。

このように考えてみると、学生の記憶に残る教師とは、変人であると良いようであるが変人であれば何も教師でなくても記憶には残る。たぶん生徒の記憶に残るのは、教える内容が心から好きな教師、生徒をぼやきの対象とするほど等身大でいる教師であろう。

ひるがえって、教育する身としては、いや、教育することをおしつけられている身としてはどうであろうか。

私も仕事柄、教育者と世間的には考えられているらしい。教育ということばが嫌いな身としては、身の毛がよだつ。教育するつもりはまったくない。自分の子供もろくに育っていないのに、他人の子供をどうせよというのか。どうせ、学生だって教育されようとは思っていない。役に立つことを教えてもらえればラッキー、何にもならないのが普通としか思っていない。

お互い、そんな風だから、授業も冷淡である。いくら汗水たらしても、大声張り上げても、学生の皆様はピクリとも反応しない。こちらはデビューしたてのお笑い芸人の気持ちである。それでも、吉本を見に来る客と授業を受けに来る(出席をとりに来る)学生との差は歴然としている。客は金を払って笑うことを目的としているが、学生は金は払っているかもしれないが、年に1回の前払いであり、なにより笑うことを目的としていないのだった。こちらは、いつのまにか、人前に立つと笑わせることが目的と自然に思い込む癖がついている根っからの芸人であるのが不幸である。

学生が笑わないのは当然として、では、彼らは教育されているのか?ノートをとっている学生もいるが、教育されてはいるのか?

後年、私の授業を一番前の席で受けたという人間と話す機会があったが、私の印象は、「しけたおやじが、自信なげにぼそぼそと、教科書にかいてあることをしゃべっておった」というものであった。この学生が極端に厳しい人間であることを考慮しても、私はこの学生を非難できない。そのときの私の授業は、急に留学した他の教師の穴埋めで、私の専門外であり、教科書に書いてあることをぼそぼそしゃべっていたのだ。

しかし、いつもそんなふうではない。時には大うけすることもある。満場のどよめきを誘うこともある。授業中に地震があったときは、私は教壇にしがみつき、学生たちは皆、いっせいに笑いのどよめきを発したものである。

授業は、大勢の学生を相手にするばかりではない。時には、45人の学生を相手に、23時間の高座をつとめることもある。もとより知識はない。人格、気品はさらになく、いきおい内容は、ぐちになる。べらべらとあたまから流れ出すことをしゃべっていると、なぜか愚痴をしゃべっている。相手は、先生だからと遠慮して、大勢なら居眠りするところだが、45人だから寝るわけにはいかず、いちおうおとなしく、ときどきはうなずいたりしている。この態度は、我が家の住人とは異なり、好ましいものに思える。

普段、家族に、愚痴はおろか口もきいてもらえないおじさんとしては、学生に話しているのか、スナックの女の子を相手にしているのか区別が難しいところである。違いはこちらが金を払うかそうでないかである。おじさんは学生に、「どうしてこの学部を選んだの?」などと興味本位の質問をする始末である。ここらあたりは、スナックで「どうしてココで働いてるの?」と聞くのに似ている。

学生から聞きだす話はためになる。おじさんは逆に教育を受けているのである。ということは、逆に、生身の自分でお話しするのが教育なのか?ナルホド。

芸人風教師としてのおじさんは気づいた。それでも、いや、そのほうが学生の受けがいい。芸人としてはうけてなんぼのものであり、うけなきゃ意味がない。とうぜん、受けに走る。若手芸人にありがちな安易な方向性である。これでは、すぐにあきられる。芸人失格であり、芸では食えず、営業の毎日、気づけば生きるためにバイトの日々となるはずであるが、教師の利点は、ここで現れる。客、じゃなかった学生は、毎年変わる。ぼやき漫才のような教師も、学生がいかにあきれようとも客は毎年リセットされるのである。馬鹿にされる相手が、次学年の生徒になるだけである。毎年生徒が変わるという意味では、予備校の教師も同じであるが、彼らはより芸人に近い。いや、芸人よりも厳しいかもしれない。何人受かってナンボの世界である。

最近、授業評価のシステムが全学的に導入された。われわれの部署では、それを先取りしてかなり前からこれを導入している。授業のあと、出席と同時にアンケートを回収し恐る恐るこれを見るのが楽しみである。某先生(私ではないが)の授業のアンケートは、むちゃくちゃである。学生に遠慮はないのかといいたい。アンケート用紙が匿名であることが問題であると思う。きちんと氏名を明記してアンケートに答えてもらいたい。できれば、商品券などをいれる封筒もつけたいところである。

聞くところによると、その先生は、そのひどいアンケートに反省するかと思いきや、アンケートの結果を数量化、統計処理を施し、次回の授業で公表し、ひどいことを書いた学生は、いかに中央値からはずれた例外であるかをグラフに示して力説したそうである。まことに統計の効果的な使用法であるといえる。このことは、同時に、この先生には授業アンケートは何にもならないことを示している。

さて、教育という意味を考えたときに、このだめなおじさんは何にもなっていないのであろうか。たぶんそうであろう。何か意味があるとすれば、こんなにだめな人間が生きていることを示し、世の中捨てたものじゃないと思わせる意味はあろう。どうせ、若者は、自分のことは自分で取捨選択し、目の前にないものは自分で探していくのである。             

では、教育は必要ないのか?それはまったく不明である。

教育とは、いつ、どこで、だれが、何を目的として作り出したものであろうか。これは推測だが、おそらく、規格化、画一化が最初の目的ではなかったか。江戸時代の寺子屋は、知識を伝授する場であったが、これは教育の場であったのか?そこで推測される教育とは、なにか堅苦しいものである。人間は自由に生きるのが一番望ましい。しかし、それでは生活が成り立ちにくい。その折り合いをつければよいとするのなら、画一的な「教育」など不要ではないか。折り合いのつけ方の一助になる程度でよかろう。

教育者は教育したつもりかもしれないが、それが本当に有益かどうかはだれにも不明である。だから、教育などという言葉は廃止してもらいたい。できれば、「愛」、「幸福」などと同義の実体のないものとして処理してほしい。このようなものを教師の義務にしないでほしい。

教育というあいまいな言葉で語られるものには、たぶん、知識の伝授、態度の画一化(おしつけ?)の2つが含まれていよう。前者は、様々な改革、改善が可能である。システムの問題だからである。後者は学校では不要である。人生に対する態度は、生まれつき備わっているし、家庭で初期設定されるものである。学校で築かれるはずもなく、自分で修正すべきものである。教育者というものは存在しないと考えるべきである。知識伝授者または、学識伝達士などと言い換えてもらいたい。

教育者という言葉には、この国では人格、品格に関する幻想がついてまわる。だから、教師の不祥事が大問題にされる。教師を知識伝授者として理解すればこの幻滅はクリア可能である。職種によっては、社会人になった後も教育がついて回る。新人教育、上司としての部下の教育などもう大変。困ったものです。

さて、このように考えてきて、自分には、知識の伝授もできず、人生への誇るべき態度もないことに改めて気づき、教育に完全不適格であることを知った。今回は教育不適格の巻き。まだまだ続くぞ不適格シリーズ。