スポーツとは何か?

 

私は、スポーツが嫌いである。

正確に言えば、人と人が競争するスポーツが嫌いである。

サッカーなどは、近年たいそうな人気であり、テレビで中継される時は、思わず大声を出し興奮している自分に気づく。これは平穏と平静を愛する自分としてはひどく心外なことであり、スポーツが、普段隠されている自分の中の負の部分を引き出していることは間違いない。

 

そもそも、人はなぜスポーツに関わるのであろうか。さらにさかのぼって、そもそもスポーツとは何か?

連日のオリンピックの報道を見つつ考えてみたくなった。

 

あらゆるスポーツは競争に関わっている。競争と無縁なスポーツは存在しない。

これが、競争の嫌いな自分としては潜在的なスポーツ嫌いとなるゆえんであろう。

どのように競争と無縁に見えるものでも、競争に関連づけることも人間の好きなことである。

それも下品な、人間の品性をおとしめるような方向で競争を行うことが美徳とされているのはいかがなものか。

サッカーでは、ボールを人から奪い、とられぬよう細工することの上手な者が珍重される。バレーボールではわざわざ人のいないところにボールを打ち込んで喜んでいる。テニス、卓球もしかり。バスケットバールなど、わざわざ人が持っているボールを払いのけて自分のものにしたとたん、走って逃げる卑怯さ加減である。やるほうもやるほうだが、それをみて大喜びする方も恥ずかしいかぎりである。我々は、幼少のころから人のものを横取りするのはドロボーであると教育されてきた。欲しいのならば欲しいとはっきり言えば与えようものを力ずくで、時にはうっかりしているひとからかすめ取るような行為を全世界が中継するということは誠に嘆かわしい次第である。競争の果てに何があるか?競争は競争を産み続けるだけであり、決して安定した社会は到来しない。スポーツは不安定の連続であり、私の好むところではない。

スポーツ選手たちにお願いしたい。早く自分の行為の過ちに気づき真人間になって欲しい。

 

多くの人間が入り乱れて競争するスポーツ以外にも、一見個人の営みであるが結局競争になるスポーツもある。砲丸投げ、やり投げ、走り幅跳び、高飛びなどである。これも競争さえしなければ和やかなほほえましい行為なのに、競争しだしたとたん眼はつり上がり、息は乱れ怒号は飛び交うあさましい行為となりはてる。砲丸投げなどは一人で勝手に砲丸を投げておれば好感が持てるものであるが、大勢で少しでも遠くに飛ばそうとしだした瞬間下品な行為となる。おそらくは、このスポーツは昔の狩猟に起源を発するものであろう。そうであれば、少しでも遠くの獣を獲物にできるようにするという合目的的な意味合いのある行為であったのが、近代になりスポーツになったとたん無目的的な行為となったわけである。そういう意味で、あらゆるスポーツは、運動の無目的化であると言い換えることができる。この不景気な時代に、よくもまあ多くの金とエネルギーをつぎ込んで無目的化に邁進するものだとあきれてしまう。しかし、彼らを弁護すれば、それをみて楽しむ人がいる限り、何らかの役に立つと言えなくはない。

 

そもそも何の合目的的な意味もない行為なのだから和やかにやればよいのにと思うのは私だけであろうか。それとも人間はあのような行為に興奮するようプログラムされているのであろうか。たとえば、まばたきを1秒間に何回できるかとか、耳を動かせるかとか、牛乳を飲んで鼻から出すなどを競うことなどでは同じレベルの興奮を得られないのであろうか?それはなぜか?私には、どれも目的がない行為であるという意味では全く同じとしか思えないのである。いつの日か、4年に一度まばたきの回数を国家の威信を懸けて競う大会が開かれることになれば、人類の将来も明るいと思われよう。

 

さらにたちの悪いのが、競争に危険を加味したスポーツである。たとえば、スキー大回転、スケルトン、スケート、スキージャンプ、体操などがこれにあたる。スキーは、雪の中で車が立ち往生したときなど役立つかもしれぬが、鉄棒や鞍馬でくるくる回ったり、ただでさえ滑りやすいスケートリンクの上で何回もくるくる回りながらジャンプするなど狂気の沙汰である。そのくせ3回転ジャンプで失敗すると皆ため息をつくが、そんなもの、すべって当然ではないか。あれは、落下を期待している大衆の前で綱渡りをするサーカスの芸人と全く同じ図式である。ジャンプに至っては、何のためかもわからぬが、なにより危険である。最近では、ジャンプの最中に足を開いたり、万歳をしたり、腰をひねって見せたりする競技もあると聞く。ますます意味不明である。これらのスポーツはスポーツというよりもサーカスである。常に怪我や事故の可能性があり、それを競わせるとすれば、趣味が悪いといわれても仕方がない。とすれば、逆にサーカスもスポーツの一種である。

 

このように考えてくると、スポーツを楽しむという行為は、まことに下品であると言える。上品であるためにはスポーツから遠ざかることが賢明であろう。しかし、幼稚園から大学に至るまでスポーツが教育の一環として取り入れられているのは驚きである。私としては、スポーツニュース、スポーツ新聞は18歳以下は視聴、購入禁止すべきものであると考えたい。その意味でいかがわしい記事を掲載している新聞がスポーツ新聞と呼ばれているのは正しい認識である。

 

私が、スポーツの中でも比較的罪が軽いと認めるのは、格闘技である。これは人間同士でどちらが強いかを直接証明するもので、単純、明快である。自分はしようとは毛頭思わないが、人が正面切って喧嘩するのを酒など飲みながら傍観するのは気分の良いものである。しかも彼らはそれでお金を稼ぐわけで、見る方も金をかけていれば儲かるわけである。

と、ここまで考えて、スポーツのうさんくささに金がまつわることに気がついた。特にオリンピックで行われる競争は、国家間の思惑が最重要視されるわけで、お金は、少なくとも表面的には2の次である。一般大衆が選手にお金をかけて配当を得られるようにしてはどうだろうか。そうすれば、意味のない行為もお金のためという立派な意味が付加されることになる。

 

もちろん、どんなスポーツ選手も一流になるためには並外れた努力をし、その努力に対し人は尊敬の念を払うという図式は理解できる。その努力がたとえ無意味な行為に向けられていたとしても。その意味で、まばたきを短時間に一回でも多くしようと日々努力する人がいれば、その人にも同じ尊敬の念が向けられてしかるべきであろう。ただ、まばたきが上手になってもオリンピックにもでられないし、当然表彰台にたつこともないが。では、もし、オリンピックというものが存在しなくなったら、選手たちは同じように努力するだろうか。同じ努力が続けられるとしたら、そのときはいっそう尊敬するつもりである。

そう、ひょっとしたら、スポーツに感じられるうさんくささの重要なようその一つは目立ちたがり精神なのかもしれない。同じ努力するなら、目立つ分野で努力して目立ちたいという人がいてもおかしくはない。

格闘技は目立つことは前提条件である。ゆえに、胡散臭さはない。目立ちたいから、強さを顕示したいからということはやる方も見る方も当然と思っている。そこがさわやかである。

 

事は、スポーツにとどまらなくなったようだ。スポーツにまつわる要素として、1:目的性、2:競争性、3:金、4:自己顕示欲があることがわかった。これらは、実は人が社会で生きていくうえで、通常連日問題となっている項目である。どのように生きていくかを考えるとき、これらは常について回る。少なくとも私はスポーツ選手のように生きてはこなかったし、これからもそうであろう。すなわち、無目的なことを一生懸命努力し、名誉を大切にしつつも目立とうとするのが選手たちだとすれば。といって私のいきる方向も大したものではないであろう。目的はなく、競争はせずに、お金はそこそこにもらえて、ひっそり生きていたいと願うものである。