11.上徳次郎宿・大沢宿から  11日目 平成22年11月11日 (木)   晴

朝6時15分に家を出て、横浜駅で娘と待ち合わせです。
娘とは春に権現堂の桜の季節に一緒して以来。今回は紅葉狩りに同行する、良いとこ取りの参加者です。


日光線はブラウンがコーポレートカラーで、東照宮をはじめとする日光の社寺へ向かう電車として、落ち着いた色合いでなかなかオシャレです。

今市駅前からはうっすらと雪化粧した男体山などの山並みが青空に映えています。


今市宿


今市駅前を9時5分に出て、日光街道と例弊使(壬生)道の追分(左)に9時11分に着きます。




付近をうろつき回って、9時18分に日光に向けた最終日のスタートです。


今市宿は真っ直ぐに延びた商店街(右)
戊辰戦争の戦火により、宿場に古い時代の建物は全く残っていません。



左手に報徳二宮神社(左)があります。
ここ今市で亡くなった、法名誠明院功誉報徳中正居士、二宮尊徳の墓が本殿の裏手にあります。





報徳神社の少し先が如来寺(右)です。
将軍日光社参の折の宿泊所として御殿が設けられ、焼失後も日光社参の都度の小休所とされていました。
門前の桜は化け桜と呼ばれ、幹の中に神の使いである白蛇が住んでいると伝えられています。



街道に戻ると女性陣はすぐに和菓子屋さんに入ってしまいました。
数量限定に弱いのよね、と言いながらもう栗蒸し羊羹を手にしています。


左手の角においしい、いまいちの水(左)が流れ出ています。
美味しいのか、いまいちなのか?。茶化しながら飲んで見るとこれが美味い。今市の水は谷川や、湧水などと同じで、適量の自然成分を含んでいるので美味しいのです。



春日町(交)には日光たまり漬の大きな店があります。すぐ右手が今市宿市緑の広場で、当時この付近に本陣があり、旅籠が軒を並べていたようです。
今は当時を偲ぶ建物は何もありませんが、広場の一角に建つ明治天皇小休所跡碑(右)だけがこの付近が宿場の中心だったことを証明しています。



浄泉寺(左)は二宮尊徳の子弥太郎などの関係する、二宮家縁の寺です。
蕎麦喰い稲荷とも呼ばれ、蕎麦を奉納して二宮家の娘の病が治ったと言われ、このことから今市の蕎麦が全国的に知られるようにもなったようです。




左手に今市宿の総鎮守滝尾神社(右)があります。




神社の手前を右に入ると、報徳役所跡があるはずです。
今市小学校付近をウロウロして場所が分からず、校庭掃除中の先生に聞きます。先生はさすがだ、すぐに教えてくれました。と言うか学校のすぐ左が役所跡なんです。


二宮尊徳は文政4(1,821)年、小田原藩主大久保多忠真の命により下野国桜町領の復興の為後半生を下野で過ごしました。

桜町領復興の実績から日光神領89ヶ村の復興を幕府から命ぜられ、嘉永6(1,853)年に報徳役所(左)を設置し日光神領の復興に全力を注ぎます。
しかし、事業半ばの安政3(1,856)年、70歳で亡くなりました。尊徳の死を惜しむ葬儀の列は、葬儀が営まれた如来寺からこの報徳役所迄続いたそうです。

この跡地には下野当時の、つまり老境に達した尊徳像が建っています。



滝尾神社前に戻ります。
先は再び杉並木になります。杉並木の右手は杉並木公園で、見事に色付いたモミジの脇に二重連水車がゆっくりと回っています。ずっと奥には特大の水車もあります。

今市は日光から流れる水路に多くの水車が掛かっていたそうです。この水車を利用して、これまた豊富にある杉の葉を粉にしての、線香が重要な地場産業になっています。
そう言えば、テレビの笑点でお馴染みのお線香「青雲」の大きな文字が今市駅から見えましたよ。





杉並木街道に戻ると高龗(たかお)神社(左)があります。神護景雲元年(767)創建とあるが詳しからず、とかなりの古社ではあります。


瀬川一里塚(右)は江戸から34里の一里塚で、ここから100m程で杉並木は途切れます。


杉並木の途切れる左手が杉並木公園のもう一方の入口で、入るとすぐに享保年間(1,720年頃)に建てられた江連家が復元され、管理棟として土産物なども扱っています。

その奥が目当ての「蕎麦処報徳庵」、開店の11時に10分程早すぎました。しばし待たされ、開店と同時に入ったつもりが二組目。更にどこに居たのか次々と5組もの客が押し寄せました。
寒いからと女性軍はあったかい蕎麦を頼みます。しかし折角の信州そばの味は、やはりもりじゃなければ分からないでしょうに。
ギボウシの町瀬川の大日堂入口を過ぎて杉並木に入ります。入口から10本目くらいの大杉の根方に馬頭観音(下・左)があります。
馬頭観音から、600~700mあっただろうか右手に砲弾打込み杉(中)があります。
杉の木のへこんだ跡が、慶応4(1,868)年の戊辰戦争の時、幕府軍を追い詰めた官軍の砲弾が当たった痕だそうです。


素晴らしい杉並木が続きます。しかし、花粉症の人には憎たらしい杉並木と感じるのだろうか。
どうでもいい余計な事でしょうか、ふっと頭をよぎりました。
それと、この前から感じていますが、快適な杉並木も目標物がない為に今歩いている場所が良く分からないのが難点です。

砲弾打込み杉から500m位か、杉の幹の途中から桜が自生する桜杉がここにもありました。

そこから更に300m程に4本が密着した珍しい杉(右)があります。2本に分かれたり、3本になっていたりの杉は随所にありましたが、4本は滅多にはないでしょう。


大杉の根元にひっそりと佇む馬頭観音


確たる砲弾跡は分かりません


四つ子杉

右手にある薬師堂(左)は、龍蔵寺の跡だそうで、通り沿いに置かれた大きな石の釣鐘が目を引きます。
これは地元の権現様に奉納しようとしたが、重みで龍頭が壊れてしまい、ここに放置したままになっているそうです。




薬師堂の脇には数基の石仏があり、なかにはかなり古そうな道祖神もあります。


少し先が二股になっています。左が現在の日光街道で右は日光古道です。右に入るとすぐ左手に石仏群(右)があります。



野口信号付近で国道に合流、その角に「日光杉並木物語」説明板が置かれています。

すぐ先の左手、モミジの下に常夜灯と大きな自然石が置かれています。



その奥に何かあったようですが。


生岡大日刻まれた自然石碑と生岡神社の標柱(右)あります。
この付近の鎮守とされる生岡神社は、日光線を越え、日光宇都宮道路も越えた更に先にあります。行きはしませんが。




再び杉並木に入ると右側に並木太郎(左)が堂々と聳えています。
並木の中で一番大きな杉で、周囲が5.35m、樹高は38mもあり、その美しい端正な姿から並木太郎と呼ばれています。






並木太郎から500m程、右手に銀杏杉(右)があります。
杉の途中から銀杏が自生しているのではないですよ。
根元が銀杏の葉のように見えるところからこう呼ばれています。こんなに根張りが良ければさぞや丈夫だろうと、人生杉とも別名があります。






杉並木の切れた左に明治天皇七里小休所(左)があります。
明治9(1,876)年東北巡幸の途中、日光から中禅寺湖を巡り往復共にここで休まれたそうです。


再び杉並木に入ります。
すぐの右手、杉の木の後に道祖神や馬頭観音(右)が横倒しになっています。
存在を忘れられてしまった寂しい神仏なのでしょうか。






杉並木を出ると七里の集落で、狭い路肩を一列で行進します。
路肩が側溝にもなっていて、この蓋の溝につま先が時々引っ掛かって歩きにくいんです。
経験ありません?


再び杉並木に入りますが、「普通地蔵だって、普通地蔵って何だろうね」と、つれが。
杉並木の出入り口部に、普通地域と特別指定地域とを区分する標示板があり、この普通地域を普通地蔵と読み違えたのです。いつもキョロキョロ、何かを探しながら歩く一生懸命さから生まれた、つれのはやとちりです。

宝殿(交)を過ぎると間もなく筋違橋(右)を渡ります。
橋の左手に地蔵尊が祀られています。麻疹の地蔵として崇められ、橋の下をくぐると麻疹が軽くてすむ、と言うことから子供に橋の下をくぐらせる親が多かったと。
はしかと橋下のゴロによる迷信らしいのですが。





筋違橋の先のY字路を右に入ると左に椅子の形をした石があります。
異人石(左)と呼ばれ、明治の頃、一人の外国人がこの石を石屋に頼んで座りやすくして、毎日杉並木を観賞していたことからこう呼ばれています。



旧道もすぐに日光線ガード(右)の手前で国道に合流します。

ガードをくぐるとすぐに右側に旧道部分があります。

この旧道もすぐに国道に戻りますが、合流する角に馬力神など4~5個の野仏が置かれています。
この先はもう一本道で日光社寺に向かいます。


鉢石(はついし)宿



JR日光駅への入口になる、相生町交差点(左)付近に以前は鉢石宿入口の木戸があったようです。

目と鼻の先が東武日光駅で、ここでトイレタイムとします。
駅構内はこれから日光社寺へ詣でる人、日光を堪能して帰る人々で喧騒に包まれています。


右手にある龍蔵寺(右)は畠山重忠の子、重慶による草庵が始まりと伝えられる寺。







緩い上り坂を行きます。
バス停御幸町の先、左手の蕎麦処魚要は本陣だった入江家の跡ですが、それを示すものは何も残っていません。

日光社寺の門前町だった通りには軒や庇を張り出した伝統的な建物が多く、観光客の雨宿りなどに役立っていたそうです。




横丁に入る角に「大横町の歴史」が記されています。八王子同心が移り住んで以降200年間、日光社寺の防火に貢献したと。

駐車場を右に入ると漆喰壁に屋号か?とある土蔵(右)があります。本陣だった高野家だそうです。


創業天保13年の老舗渡辺佐平醸造の地酒日光誉と、明治元年創業のひしやの羊羹とそれぞれに納得の獲物を得ます。

三ッ山羊羹店脇を右に入ると鉢石宿の起源となっている(左)があります。

左手の岩の上に板垣退助像があります。


戊辰戦争新政府軍の将として板垣退助は、日光にたてこもった鳥居圭介等幕府軍を説得し社寺を兵火から守っています。

向かいには徳川家康の参謀として腕をふるった、天海僧正の像があります。


2時10分、18,085歩で日光街道のゴール神橋に到着しました。

日光山内の入口の大谷川に架けられた朱塗りの神橋は、長さ28m、幅7.4m、水面からの高さが10.6mあります。
大願を果たそうとした勝道上人の行く手を阻む大谷川に赤、青2匹の蛇が現れて橋になり、上人達はその上に山菅を敷いて渡り、山菅の蛇橋と呼ばれました。

寛永13(1,637)年、現在のような橋に造りかえられてからは将軍社参や勅使、修験者など限られた者以外は通行できなくなりました。


日光

世界遺産の、日光社寺に詣でる為に神橋脇の太郎杉を仰ぎながら、神域へと入ります。
日光開山の祖、勝道上人像が社寺への入口に。

陽明門(左)は、数年前に訪れた時の方がもっと色鮮やかだったように思います。それに下手な写真家の手にかかって尚のこと、こんな真っ黒な実物とはかなりかけ離れた色彩になってしまいました。

眠り猫の下から階段を上ります。一汗も二汗もかき、荒い呼吸の先が御宝塔です。
鳴き龍は拍子木に反応して鈴を転がしたようなこころ良い音色、これも記憶になかった新たな響きでした。


三猿


眠り猫


御宝塔


輪王寺参道


日光火の番八王子千人同心常夜灯


落ち葉を踏んで帰路へ
輪王寺参道口に八王子千人同心顕彰の常夜灯があります。
日光廟が造営されてのち、幕府は八王子千人同心に日光火の番を命じました。以来210余年、千人同心は日夜警備に務め東照宮、輪王寺、二荒山神社の堂宇を守り続けました。
この労苦に対する顕彰碑です。
先程の「大横町の歴史」にもありましたが、後世の人にこんなに貢献度の高さを評価されさぞかし嬉しいことでしょう。


日光駅(右)に戻ったのが3時46分、26,373歩。
16時00分発の宇都宮行、宇都宮で餃子を忘れずに。16時57分の湘南新宿ライン逗子行きにトコトコと揺られながら、19時31分に横浜に帰着し日光街道の旅は終わりました。

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