北 国 街 道 を歩く        16.牟礼宿から柏原宿     平成25年7月10日 (水)   晴



午前6時10分に家を出ます。東京7時24分発のあさま505号で長野へ、信越本線で牟礼に9時47分に着きました。
牟礼駅に来たの平成22年10月以来実に3年ぶりで、ずいぶん長い間北国街道をほったらかしていたことになります。


駅前を東(右)に、北国街道牟礼宿碑前が10時、北国街道に出ました。
信越本線のガードをくぐり、八蛇川に架かる牟礼橋を渡り、やや左に曲がる牟礼宿東の枡形道から牟礼宿に入ります。


右手の本ウダツのある旧家は鎌問屋だったらしい。古間や柏原では農家の冬期の副業として、信州鎌(草刈鎌)が盛んに製造されていたそうです。

街道左手のやや急坂の上に牟礼神社があります。
曲がる角に和菓子屋があり、つれは「ここで美味しそうなのをみつくろってるから行ってきて」と。
恐らく急坂を上りたくない口実だろうが、都合よく和菓子屋があったものだ。



役場前信号交差点の手前右が牟礼郵便局、交差点を渡った右手は牟礼役場で、中部北陸自然歩道案内板が立っています。
向かいのJA長野中郷支店前に本陣跡の標柱が立っています。
慶長16(1,611)年に北国街道の全面開通に伴い、善光寺宿と古間(ふるま)宿のほぼ中間に設置された牟礼宿本陣跡です。



その先右手に徳満寺の立派な鐘楼門があり、門前に文化12(1,815)年の常夜灯が立っています。
突き当りの証念寺前に、北国街道牟礼宿十王坂の大きな碑があります。
境内には文化元(1,804)年の常夜灯があります。


街道は直角に左に曲がりますが、ここが西の枡形で牟礼宿の外れになります。
証念寺の塀に沿い十王坂を上りますが、塀の外まで大きく枝を張り出した枝垂れ桜があり、春は見ごたえがありそう。
坂の途中左手に十王堂があり、これが坂道の由来でしょう。
ところで十王とは、地獄で亡者の審判を行う裁判官のような10尊のこと。
閻魔大王は御存じでしょうが、あとの九王は知名度が低いので知らない人が多いのではないでしょうか。
かく言う、はやとちり も各地で十王堂で10尊にお会いしていますが、閻魔様以外は覚えていません。



すぐに右からの道と合流しますが、その左手高い所に観音寺が見えます。
その先の三叉路は北国街道案内板に従い一番右の道を右に曲がります。
右手眼下に鳥居川を眺める素晴らしい景色が広がります。しかしそれもつかの間、集落に入るとせっかくの眺望も遮られてしまいます。

右手に金附場(かねつけば)跡があります。
佐渡島で採れた金銀荷物(=御金荷 おかねに)を江戸に輸送する途中に設けられた中継施設です。
輸送量は産出量の多かった、江戸初期から中期には一度に馬60匹分を年に3回輸送した、とあります。

馬に積む量の説明はありませんが、50sとして一度に3トン、一年でなんと約10トンもの御金荷を江戸に送っていたことになります。
一頭の馬に50sは適当な見積もりなので、実際には年間どれ程の量が江戸に送られたのか。
それと金相場を1g4,000円として、1kgで400万円、1トンでは・・・途方もない金額に相当する金の量です。



左手には黒柳沖之介寿蔵顕彰碑が立っています。小玉鎌の元祖だそうです。

少しした左手の公園のような所に武州加州道中堺碑があります。
武蔵国と加賀国の中間点を示す碑で、加賀前田候が参勤交代の際にここに到着すると早飛脚で国元に無事を知らせたと伝えられています。


公園の左手はるか先に小玉神社の鳥居が見えます。
すぐ先、国道18号に合流する手前左手に旧家があります。小玉の豪農黒柳家で加賀藩小休所になっていたそうです。



国道18号にぶつかり左折し、信越本線を跨いですぐに北国街道案内板で右折します。
この案内板は我々の歩く方角と逆向きを指しています。佐渡(加賀)から江戸へと向かう方向を。


信越本線に沿う旧街道左手の牟礼村消防小屋前に正徳元(1,711)年当時の法度を記したの「定書」があります。
高札場跡の復元だろう。

右手に玉蓮寺があり、その先の二股を北国街道案内板に従い右に坂道を登ります。
逆向きとはいえ、案内板が随所に設置されていて誠に有難い。



右に左にリンゴ園がある急坂の途中からは左手眼下に過ぎてきた牟礼宿が見えています。
旧道は二股に分岐しますが、そこにこだま古道会による古道と新道の分岐と題する案内板があります。
左の新道は明治になってからの道で、右が江戸時代からの旧道で、もちろん右の道を行きます。
すぐに未舗装道は樹下に入り、背中の汗が引いてゆくようで涼しく気持ち良い。


右手に観音平と馬頭観音の説明板があります。これもこだま古道会によるもの。
このあたりの地名を観音平(かんのんびら)と言い、かっては道の守り神の馬頭観音を祀った観音堂があった。
現在その跡に街道周辺に散在していた馬頭観音などの石仏が集められ安置されている。
説明板右の土手の上に馬頭観音など石仏群が祀られています。


汗の臭いに吸い寄せられるように、目の前を小虫が群舞してうっとおしいことはなはだしい。
防虫スプレーを振りかけますが、効き目はほんの一時で新手が襲来します。まさかとは思いますが、深い森に仲なので熊鈴も装着します。



旧街道は雑木林から杉林へと変わり、間もなく先ほど別れた明治の新道と合流します。
そこに野尻湖公民館9.6qの案内板があります。

合流した左手に小玉鎌の黒柳清八翁の大きな顕彰碑があります。
隣に小玉一里塚跡の標柱があります。顕彰碑にばかり気を取られ、つれに言われなければ見逃したかも知れなかった一里塚跡です。



すぐ先で杉を伐採しています。この付近の樹齢を聞けば、はっきりは分からないがだいたい50年位だろうとのことでした。
林道をバードウォッチングしながらのんびり歩いていたら、杉を満載したトラックが1台、しばらくしてまた1台が追い越して行きました。



ほぼ坂を下りきった左手に明治天皇御野立跡標柱と説明板があります。
明治11(1.878)年9月10日北陸巡幸の明治天皇一行が休憩した場所で、
左手奥に北陸巡幸御野立跡碑があり、そこに玉堂が建てられ、岩倉具視など随行員棟も建てられたそうです。


うっとおしい小さな虫には始終まとわりつかれましたが、熊の出没はなく無事に山を下りると、
左手の草むらの中に庚申塔があり、すぐ先右手には落影開田記念碑があります。
落影集落の田畑は、昭和42(1,967)年の開田でまだ比較的最近です。
集落の中で十字路を横断しますが、右手に「落影」の集落表示板と野尻湖公民館7.5qの案内板があります。
さっき新道との合流点にも野尻湖公民館案内板がありましたが、野尻湖公民館は訪ねる人が多いのだろうか。



十字路を過ぎると落影集落の大きな家々が並んでいます。左に曲がる道の角に小さな道標があります。
正面上部に×寺×山、下に信州安楽寺、常善寺、得成寺、側面に×里あらゐ村とあります。
この道を入ると突き当りに木の鳥居があり、小高い丘の上に小さな祠の神明神社があります。
丘の上からは落影集落が一望でき、北西方向に北信濃の飯綱、戸隠、黒姫などが一望できる絶好のロケーションです。


晴れ渡っていた空に薄雲がかかり嫌な雰囲気になってきましたが、雄大な景色を楽しみながら持参のコンビニむすびで昼食とします。


街道に戻り先に進むと左手に大正6(1,917)年建立の大きな碑があります。
馬頭観音らしいと思いながら通りすがりの女性に確認しましたが、「気に止めたこともなかったので」と、申し訳なさそうに謝られてしまいました。


左手奥にため池があり端まで行ってみましたが、つれが期待した水鳥の姿はありません。水鳥は冬が本番だろう。
街道へ戻る途中の左手に大正15(1,926)年の馬頭観音がありました。



街道右手の坂の上に杉木立に囲まれて坂上神社があります。
隣は長松寺らしいが、社殿の扁額は黒姫山とあり、長松寺とはどこにもありません。
社殿前の境内らしき場所に観音像馬頭観音庚申塔三界満霊塔など多くの石像、石仏が置かれています。



街道に戻った左手の火の見櫓には上と下の2ヶ所に鐘がぶらさがっています。1個は予備か?。
左手に西国、四国、秩父、坂東供養塔があり、すぐ先の向かいに茅葺屋根の家があります。納屋かも。

その向かいの民家の庭に明治天皇清水窪御膳水碑があります。
前述の小玉坂下の明治天皇野立の御膳水はここから運んだのだそうです。


民家の先で国道18号に合流しますが、そこに北国街道案内板があります。
落影の説明板もあり、牟礼宿と古間宿の中間にあって立場(茶屋などがある休憩場所)だったことなどの説明があります。

国道を行くとすぐに高原ドライブインがあります。
様子からはもう営業をしていないらしいが、自動販売機があり二人にとっては干天の慈雨。500ml2本がその場で空になります。
ドライブイン建物前に一茶句碑があります。花の陰あかの他人はなかりけり



国道をしばらくした左手に北国街道(小古間)案内板があり左の林道へと曲がります。
緩やかな坂を下ると小古間集落に入り、左手に大悲院入口案内板があります。
入った突き当りに大悲院があります。地続きの右手に小さな社の小古間神社があります。
大悲院に神輿があったので、違和感を覚えていたのですが、神社に収容できないので大悲院に預けてあるようで、仲の良い神と仏です。
境内には延命地蔵や六地蔵、観音菩薩、三界満霊塔などがあります。



ついに空から嫌なものが落ち始め、大悲院社務所の軒下で休憩がてら雨宿りさせてもらいます。
そう長く降りそうもなさそうだし、小雨になったのを潮時と傘をさしながら出発です。
坂を下りながらの左手民家の庭に一茶句碑が見えます。
ドライブインそしてここと一茶句碑が目立ち始めたますが、一茶の生まれ故郷の柏原が近付いている証拠です。



坂を下ると前方の展望が開けます。前後左右に緑の稲の波が揺れる田園地帯で、はるか先には信越の山々が連なります。
小古間の説明板があり、信越五岳の飯綱、戸隠、黒姫、妙高が望める絶景の地、とあります。
まさに目の当たりにしている景色がそれです。

雨も上がり、田園地帯から間もなく古間(ふるま)の集落に入ります。
集落のとば口の家の庭には、やせがえるまけるな一茶これにあり の句碑があり、カエルの石像がたくさん置かれていました。

右手の古い建物は造り酒屋「松尾」。特別純米松尾の720mlと今晩のために300mlを重いのは承知で。
右手奥に第一スーパーがあり、ここでトイレを拝借します。



細い川を渡り坂を上った二股道の石垣下に清水の水鉢があります。
一見すると下水のようですが湧水で、江戸時代にはこの水を利用した茶屋があったそうです。


坂を上ると古間一里塚跡があります。
文政4(1,821)年1月に古間宿のはずれにあった一里塚の松が雪の重みで倒れ、人馬が犠牲になったのを憐れんで詠んだ一茶の句が紹介されています。
一声にこの世は鬼の逃げるかな

傍らの句碑は、小古間が泥海になり一茶が引き返した時の句(らしい)と、渡り鳥が村の上を難なく飛び去る様を詠んだ白飛の句。
 ぬかるみに尻もちつくなでかい蝶 = 一茶              
こんな村なんのと行くか渡り鳥=白飛・・・古間の人で一茶の門弟


坂の上で国18号を横断し、坂を下り古間宿に入ります。
合流した右手、信濃消防団第三分団小屋の奥は薬師院跡で多くの石仏が置かれています。線刻像もありました。


古間宿の通りは比較的ゆったりとした道幅で、通りの両側にいろいろな商店が並んでいます。
入口の中山酒店のご主人が我々を見とめ、「一茶と歩く北信濃」のパンフレットを下さいました。
宝暦13(1,763)年に柏原村で生まれ、生涯に2万余句を詠んだ俳人小林一茶。
今年(平成25=2,013)は一茶生誕250年にあたり、一茶ゆかりの地としての信濃各所に観光客を誘致する目的のパンフレットです。

このパンフレット、一茶が主役ですがこの先で結構役立ってくれました。


この先、商店全てと言っていいほど、ほとんどの店に一茶句碑が置かれています。
信濃町中では117もの句碑があるんだそうです。驚きですね。



左手に行善寺があります。境内の大樹はカヤだろうか。鐘楼前には親鸞聖人旧跡碑が立っています。

すぐ先が古間宿古屋本陣です。
説明によると、古間宿は越後の上杉氏により開かれたが、江戸時代になり隣接する柏原宿との合宿になり、月の後半だけ人馬の輸送を行いました。
文化15(1,818)年には家数は85軒で、商家、鍛冶屋、旅籠などがあり、信州鎌(古間鎌)の製造が盛んでした。
一茶の門人も多く、一茶もたびたび立ち寄り、
短夜を古間の人のたくみ哉 と詠んでいます。


間もなく北国街道第四踏切で信越本線を越えると、道なりに左にカーブする枡形道です。
左手の線路脇に碑が三つあります。古間鎌の最盛期(明治後期らしい)に活躍した鍛冶職人三人の顕彰碑です。


鳥居川を渡り左に曲がりながら坂を上る左手に昭和19(1,944)年の馬頭観音があります。はやとちりの1年後輩だ。
途中にあるマンホールの蓋の絵柄は、スズメと馬 スズメの子そこのけそこのけお馬が通る ですね。
坂を上りきると左手からの国18号に合流して右に行きます。この付近が柏原宿の入口だろうか。



右手に立派な門構えの旧家があり、斜向かいが諏訪神社です。
境内右手に 松陰に寝て喰ふ六十余州かな の句碑があります。
一茶三回忌の文政12(1,829)年に一茶の弟と門人達により柏原宿の入口に建てられた、一茶句碑第1号です。
松平氏のお蔭と幕府の善政を詠んでいるので、明治天皇巡幸時に目に留まるとまずい、とのことで諏訪神社に移されています。


少し先の右手の茅葺屋根が一茶旧宅です。手前の茅葺屋根の家は弟の家で、奥の茅葺の土蔵が小林一茶旧宅です。
一茶翁終焉の地の石柱が建ち、傍らに 門の木も先つつがなし夕涼み と寛政3(1,791)年に14年ぶりに帰郷した時に詠んだ句碑があります。

俳諧で各地を巡っていた活動をしていた一茶は、母弟との父の遺産相続も解決し、文化9(1,812)年にこの地に永住します。
文政10(1,827)年柏原の大火で母屋を焼かれ、焼け残った土蔵で暮らし翌年に亡くなっています。

こう書くと一茶はたいしたこともなくこの地の移り住んだように思いますが、藤沢周平の小説「一茶」によると、
継母とその息子である弟との間で遺産相続争いにかなりの確執があったようです。
はやとちりはこの小説を読んで、思いやりがあり優しいとしていた一茶のイメージを大きく変えてしまいました。


隣が柏原物産館で大きな一茶像が建っています。


その先の信濃町役場信号交差点の左手(南西角)に馬頭観音が、北西角に従是戸隠山道標があります。
戸隠三社(奥社・中社・宝光社)へ参拝する分岐道です。

翌日(7月11日)参拝して来ました。吉永小百合さんコマーシャルにつられてではなく、戸隠森林植物園付近で小鳥が多く見られる、
のつれの情報と要望によります。  しかし奥社参道杉並木は幽玄な雰囲気を漂わせ、日光街道に匹敵するほどで来て良かった。



すぐ右手に歴史の道 柏原本陣跡がありますが標柱だけ。その先に柏原宿の解説板があります。


すぐ先(黒姫)駅入り口信号を左折、一茶の菩提寺明専寺を右に見ながら一茶記念館の案内板に脇目もくれず、
黒姫駅に午後3時45分、21,023歩で到着しました。



*折角撮ってきた写真をパソコン操作ミスで廃棄してしまった今回、それでなくてもお粗末なのに、
一枚も写真のなくアクセントのないい貧相なものになってしまいました。



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