北 国 街 道 を歩く        15.新町宿から     平成22年10月21日 (木)   曇一時


善光寺宿

宿舎、メルパルク長野を7時45分に出て、長野電鉄長野駅8時1分発に乗ります。
ずいぶん昔の話になりますが、会社の仲間5〜6人で木島平スキー場をホームコースにしていた時期があり、毎年この電車にお世話になっていました。それ以来、もう40年にもなるか。
地下駅になっている長野駅もたしかその当時地上駅だったと記憶しています。


善光寺下駅から淀ヶ橋跡に8時24分着。そこを右に曲がると北国街道です。
左手の一里塚跡柏崎地蔵尊(左)が建てられています。
謡曲「柏崎」に登場する越後柏崎氏の子供、花若を供養する為に建てられたと伝えられています。

左手の山の中腹にちらちらと神社の赤い幟が見えますが、この付近は戦国時代に山城があり城山と呼ばれています。

重厚な蔵造りの家の先で三輪7・8丁目(交)を渡ります。交差点の先も古い家が立ち並び(右)、旧道の面影を留めています。



街灯に北国街道とある横山町共栄会を行くと左手に三輪山時丸寺(左)があります。
奈良の三輪時丸は親に先だった不幸から地獄に堕ちた。しかし足の裏に善光寺印文があったことで、この世に生き返ったと言う。
この時丸が開祖の寺で、境内奥の左手に三輪時丸公碑があります。


通り沿いの大きな屋敷やら、古い看板(右)などを眺めながら歩いていたら、頭にボトッと音と共に軽い衝撃を受けました。
天からの落し物が見事に命中、ムクドリにウンを付けて貰いました。




長野県立短大の入口を過ぎます。
左手に大きな欅が二本聳えているのは三輪7丁目と8丁目の境の道です。
それにしても大きな、それも築百年はゆうにありそうな家ばかりで、当時かなり栄えていただろうことが窺えます。

左手の円通寺は承応3(1,654)年創建の寺で、本堂(拝殿かも)がお寺らしくない造りになっています。明治時代に学校として使用されていたことと関係がありそうです。
境内には三輪時丸塚(左)があります。


三輪8・9丁目(交)を過ぎると左手に延命院があります。
しばらく行くと信号があり、その先のに皇足穂吉田大御神宮(すめたるほよしだおおみかみぐう)(右)があります。
いかにも威厳のありそうな社号が由緒を感じさせる神社です。境内に全国一之宮の石祠がずらっと並んでいます。

隣は観音堂で狭い境内に地元の俳人何丸句碑や芭蕉句碑雲折々人を休むる月見かな、などが置かれています。


新町宿(あらまちじゅく)



吉田神社の先に、北国街道とくり抜かれた文字が空に映える街灯(左)の商店街です。

善敬寺に突き当り左に曲がります。
左折する角にある老舗、角源は漆喰の建物。曲った通りは吉田本町通りです。



吉田3丁目(交)に出る手前、左手に蕎麦岡澤があり、屋号看板に北国街道吉田口留番所(右)とあります。新町宿の入口になるのでしょう。


ちょっと寄り道をします。吉田の大イチョウが目当てで、吉田3(交)を右に曲ります。

吉田小学校前を道なりに右に行くと、左手の屋根越しに銀杏の緑が見えています。
それを目標に信越本線の手前を左に曲ると、これは凄い、これが一本の木かと疑いたくなる大銀杏が聳え立っています。
推定樹齢900年、目通り8.6m、樹高32mの天然記念物に指定されている吉田の大イチョウです。


古くから皇足穂吉田大御神宮の旧地とされるここにあって御神木とされ、弘法イチョウとも呼ばれ親しまれている。
古来より乳の出ない母親がこの木の皮を水に浸して飲めば母乳が出るようになると言い伝えられ、乳イチョウとも呼ばれています。



緑の葉を一杯に広げた今も圧巻ですが、真っ黄色に色付いた時期が最高に素晴らしいでしょうね。


吉田小学校前まで戻ると、吉田の大銀杏を始めいろいろな場所への案内板があります。その中に稲積一里塚があり、案内板の示す方向へと行ってみます
500mも来ただろうか、通りすがりの方に確認したところ、団地の中に一里塚公園として保存されているとの情報は得ました。が、そこ迄はまだ1q以上も先だと。即引き返します。



一里塚を断念して戻った北国街道は浅川に架かる他力橋の袂。この橋を渡ると新町宿になります。
右手旧家の塀に六地蔵(左)が祀られています。
その隣の民家の庭には宮沢八郎翁顕彰碑(右)があります。



新町宿は現在地より東の稲積一里塚を通っていたが、現在地に移動してからは稲積村、徳間村、東条村の三村一宿として運営されるようになりました。

その三村の内の最初の集落稲積に入ったのですが、稲田と地名が変わっているようです。
通りに面した建物はほとんどが新しく建て替えられ、宿場としての面影がほとんど残されていないのが残念です。


左手に稲田神社(左)があります。
稲田神社から150m程に円通庵、その少し先に筆塚があります。稲田(交)を過ぎると急に道が狭くなり徳間集落に入ります。


稲田(交)から先は緩い上り坂になり、200〜300m行くと丁字路があります。
その右の角に、飯山道道標(右)が建ち、左いいやま・なかのしふく道、右北国往還と。



徳間橋を渡ると道は更に細くなり、再び上り坂です。
坂を上り切った付近の右手にJA長野若槻支所があります。ここが徳間村の問屋場跡です。


常万川を渡るとすぐ左手に薬師観音堂(右)があり、再び上り坂になり若槻東条です。
坂を上り切ると道が広くなり、左手は漆喰の長屋門風の大きな屋敷です。


斜向かいの東条バス停前には、これまた塀に囲まれた広大な敷地があります。
この付近にあるはずだの、東条村の問屋場跡(右)ではないかと思われます。






坂を下り、再び上り坂に差し掛かると左手に蚊里田八幡宮鳥居(左)があります。
昔は善光寺門前、権堂の花柳界からの参拝者が多かったと。神社は鳥居から北西に1q程、結構長い参道です。
鳥居の左手には十王堂があります。


坂の途中左側の土手には馬頭観音もあります。


若槻郵便局を過ぎた左手に、顕彰碑が建ち脇に幸清水道標(右)があります。
是より北西一丁余にあり、とあります。




右手の大きな欅やイチョウの造る小さな森は粟野神社(左)です。
出発から約2時間、ここで今日初めての休憩です。
休むような場所もなかったのですが、2時間も休まずは少々頑張りすぎかな。疲れたらしい、つれが仏頂面をしていたけど。

向かいは国胎寺です。

しばらく先に土京山城跡680mの標識があり、標識のすぐ上には稲荷神社があります。道は下り坂に変わり左手に馬頭観音が祀られていました。


田子集落に入りますが、もう一時間以上も上っては下り、下っては上るといった緩いアップダウンの繰り返しです。この単調な道にうんざり気味なんですが、まだこの先も同じような起伏が続きそうです。

左手の桜の下に地蔵尊を挟んで三基の庚申塔(右)があります。庚申塔の裏にも沢山の小さな石仏が置かれています。



道路にいかのおすしだよ!とありました。ついていかない・車にらない・おごえをだす・ぐにげる・すぐらせる、と登下校の小学生に注意を呼びかける標示です。小学校までたっぷり1qはあるんだから、知らない人について行ってはいけませんよ。


左手の旧家の門口に明治天皇田子御小休所碑(左)があります。
明治11(1,879)年9月、明治天皇が北陸巡幸の折に休憩された池田家で、この大門は飯山城の裏門を移築しています。



田子公民館を過ぎた左手に田子神社(右)の鳥居があり、明治天皇田子御膳水跡碑が建っています。
北陸巡幸の際、田子で休まれた天皇陛下を田子神社の湧水でおもてなししています。

鳥居の奥をちょっと覗いて見たのですが、何もありません。社殿は鳥居の先、2〜300mはあるようで素通りを決め込みます。



左に田子池が広がり、鴨と思しき水鳥が群れ遊んでいます。
しかし我々はその楽しそうな水鳥を鑑賞しているどころではありません。
まるで霧雨でも降っているのかのようなおびただしい数の、小さな虫の大軍にまとわり付かれて往生しまくっています。
しかし不思議なことに、その小さな虫も池を過ぎると同時に消えてしまいました。


右手は観音山入口で髭題目碑(左)が建っています。


吉村バス停前の民家の庭先には大きな筆塚が、少し行った左手の石垣の上には三界萬霊塔、六十六部廻国供養塔(右)などの碑が並んでいます。



吉村北バス停前は車のチェーン着脱所(左)
だらだらと上り下りを繰り返していた道路もこの先からが本格的な登り坂です。
ポツリポツリ程度だった雨もだいぶ降り方が強くなり、我々はここでチェーンならぬ雨具を装着することにします。


左手が一面のリンゴ園になった坂(右)を上って行きます。
その坂の途中、左手の土手には髭題目碑もあります。





県道の下をくぐりどんどん上ると右手に原池観音堂があります。
観音様は土手の下。雨脚が強まっていることを口実に、観音様を道路の上から拝みますが、この観音様は左党かな?。屋根に徳利が乗っていたような気がしました。


平出の標識があります。広い道路が見えると右手に馬頭観音があり、広い道路(県道60号)に合流します。
すぐに県道から左の旧道にそれますが、左手の小さな高台が北陸巡幸御野立之処(左)で、この広場は石垣を積んだ御座所跡だそうです。
丹霞郷


野立処から間もなく再び県道60号に出て、平出・丹霞郷の標識方向へと右の旧道に入ります。
曲った角には久しぶりに、矢筒山3.6q、飯綱町役場5.0qの中部北陸自然歩道案内板を見かけます。


坂を上り切った所に、旧北国街道・温故知新マップ(右)があります。
この看板を右に入ると、桃の名所丹霞郷です。
丹霞郷は、北国街道松代道の豊野駅(神代宿)からの途中になり、来春桃の花の季節にその素晴らしさを堪能したいと思います。

平出集落の中心部に入って来ます。
道路の右にも左にも、赤い屋根の大きな家が並んでいます。そのどの家も、茅葺だった屋根を改修しているようです。当時のこの付近の風景がどんなだったのか、見ておきたかったですね。

左手に高山寺(下・左)があります。雨を避けられる鐘楼下をお借りしておにぎりを頬張ります。
おにぎりは、毎度おなじみ、昆布と赤飯握りの2個。じっとしていると身体が芯から冷えてきます。身体を動かさないと風邪をひきそうで、食後の一休みもそこそこに行動を開始します。


左手にちょっと荒れ気味の本光寺(下・右)があり、門前に親鸞聖人九字御名号と書かれた石柱がありました。親鸞聖人直筆の九字名号が本尊らしい。

牟礼宿


集落を外れ再び坂を上ります。頂上付近は両側がリンゴ畑、蕎麦も忘れないでと言った感じで蕎麦畑も見られます。
どこからともなく、ケモノ脅しの音だけが響いてきます。


県道と合流すると前方に数本の松が目に入ります。
修行者を祀ったとも、旅人を葬ったとも言われる三本松の行人塚です。
江戸に奉公に上がる小林一茶少年と、見送りに来た父親とがこの辺で別れたであろうと推定され、塚に一茶の句碑(右)が建てられています。父ありてあけぼのみたし青田原
この付近から北に信越五岳(戸隠・黒姫・妙高・飯綱・斑尾山)を望む風光明媚な地で、峠の頂上で旅人が一息ついた場所にもなっていました。

しかし、今日のこの天気では、雄大な山々も風光明媚な景色も味わえずに非常に残念です。
三本松(交)からは下り坂。左手は長野国際カントリークラブ。プレーヤーも雄大な信越五岳を従えて豪快なショットを放ちたいところでしょうが、今日はお互いにお生憎様です。最もはやとちり級へぼゴルファーには景色を楽しんでいる余裕なんてないか。



ゴルフ場入口の先で二股を右に曲るとすぐに一里塚跡があります。


人っ子一人居ない、牟礼集落をどんどん下ります。
最も人っ子一人居ないのはここに限った事ではないですがね。


途中左手の生垣の中に馬頭観音が祀られています。牟礼天狗湯の看板の下に。






雨も上がり少し明るくなった、前方に黒姫山や斑尾山など、信越五岳の一角(左)が顔を覗かせます。

坂上バス停に右手への旧道部分があります。


切り通しのような県道を見下ろしながらの旧道もすぐに県道に戻ります。
県道と合流する箇所には大きな筆塚(右)や小さな庚申塔と馬頭観音があります。


少し下った右手に三基の石碑が建っていました。
丁度その前で道路工事をしていて、何だったのやら。次の時にちょっと戻って確認しますか。




すぐ先の信越本線ガード下(左)があります。




このガードをくぐると牟礼宿に入りますが、今日の予定はここまで。
ガード手前を右に牟礼駅へと向かいます。


牟礼駅前(右)に2時13分、24,948歩でした。


牟礼発14時23分、長野駅でゆっくりと買い物を楽しんで(つれ、がですがね)、15時27分のあさま534号の人となりました。
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