ぶ ら り 鎌 倉 街 道  を歩く     その2 上 道(かみつみち)      
  15. 西山名駅 〜 高崎市本町二丁目交差点    平成25年11月21日 (木)  晴  


朝6時に家を出て高崎経由、上信電鉄西山名駅に9時34分に着きました。
前回はここ西山名駅をゴールと考えたのですが、電車の待ち時間を見て山名駅まで足を延ばしたいきさつ経緯は前頁によります。なのになぜ今日のスタートがここ西山名駅になったのかはすぐにはっきりしますので、とりあえず出発です。


上信電鉄の踏切を渡った右側に山ノ上碑と古墳1000mの案内板があります。その先から上り坂(左)になりますが、集落は庭の柿の実が真っ赤に熟れ、桜やモミジの紅葉も進み「里の秋」そのものの静かな秋景色です。
10分弱で坂を上り切り、少し下った二股に再び山ノ上碑と古墳の案内板があります。旧街道はここを右折ですが、今日は左折して、山ノ上碑と古墳を目指します。この前「寄り道している時間はないし、その気力もありません」と、素通りしてしまったた山ノ上古墳に寄るのが目的で今日は西山名駅から歩き始めたのです。


左に坂道を下り、小さな川を渡ると右の土手の上に高崎市指定史跡の阿弥陀画像板碑(右)があります。がっちりと鍵の掛かった石庫に納められ板碑は見られませんが、上半部に右斜めを向いた阿弥陀如来が刻まれ、下部に健治4(1,278)年正月と造立年月が刻まれているそうです。
左側は観音菩薩像が乗った二十二夜塔です。建立年は×和6年と、一文字読めないので残念ながら分かりません。



すぐ先の右側が山ノ上碑と古墳入口です。入口を入ると右側に吾が恋はまさかも悲し草枕 多胡の入野のおくも悲しも、の手島右卿の万葉歌碑が立っています。


急な石段の中腹に三郡坂東の札所窟堂址の説明板があります。江戸中期に民衆の間に名所古跡を訪ねる旅がはやり、西国三十三箇所観音霊場や坂東札所などを巡った。しかし一般庶民にはこんな旅は高嶺の花で、ミニ観音札所や四国八十八箇所になぞらえての札所廻りで満足していた。この山ノ上に馬頭観音を祀った窟堂と呼ばれる観音堂があり、明和4(1,769)年頃に多胡郡、緑野郡、北甘楽郡三郡の坂東三十三箇所観音霊場の四番札所に選ばれ石段が積まれた。しかしお堂は失せ札所の伝えも忘れられ、いつの間にか石段は山ノ上古墳へのものであるかの如くになってしまった、と嘆きの説明がされています。


更に100段ほどで石段を登りきると目の前に大きな口を開けた山ノ内古墳(左)があります。 山ノ内碑はどこにあるのか。あちらこちらを探しますが分かりません。まさかと思いながら覗いた古墳の隣の建物の中に保管されていました。碑のわりに大きすぎる建物の中の、ガラス越しの碑文が読めるはずもありませんが、53文字が刻まれているそうです。現代語訳で、「辛己年(西暦681年)10月3日記。佐野三家(みやけ)を定めた健守命の子孫黒売刀自(くろとじ)。これが新川臣の子斯多々弥足尼の子孫である大児臣に嫁いで、生まれた子である長利僧(私)が母(黒売刀自)の為に記した文である。放光寺の僧」とあるそうです。

円墳に横穴式石室を備えた山寄古墳と呼ばれる形式の古墳は、縄文末期七世紀中頃の築造と考えられ、有力首長黒売刀自の父親の墓として造られ、後に黒売刀自が追葬されたと考えられているようです。



更に上に登ると山名城址がありますが、そこまで足は延ばせません。

古墳から戻ろうとすると下からにぎやかな声が聞こえてきます。狭い石段ではすれ違い難いので待っていると登って来たのはかわいい園児達。それも3歳児と2歳児だと。我々老夫婦がフウフウ言いながら登った急な石段を、「なるべく手すりに掴まらないで」と先生に励まされながらどんどん登って来ました。結構スパルタ式に鍛えられ、将来頼もしいちびっ子達です。
地蔵堂(左)の二股まで戻ります。地蔵堂の脇には宝暦8(1,758)年の坂東秩父西国百番供養塔や仲睦まじく手と手を握り合う双体道祖神などがあります。
地蔵堂前から山名市営団地を過ぎて、アスファルト道路を横断します。左手に忠霊塔が建ち、その先は細い切通しのような道で、山名駅入り口の案内板があります。
その道に入ったすぐの土手上に太刀割の・・・・読めない句碑があり、少し下がって秋祭り児の親となり虫封じの句碑があります。その先自然に山名八幡宮境内へと導かれます。裏口からですが。


山名八幡宮(下・左)は創建は不明だが新田氏の祖、新田義重の子山名義範が造営した神社で、山名氏は新田(山名)義範がここ山名に土着して山名氏を名乗ったのが起こりだ、と境内の山名宗全と山名八幡宮説明板にあります。応仁の乱で有名な西軍の総大将山名宗全は西国に勢力を誇りましたが、祖先はここだったのです。

拝殿には色鮮やかな見事な彫刻が施され、石段を下った狛犬も大きくて勇壮。狛犬の左手稲荷神社鳥居下の左右に子授け、安産の陰陽二つの石(下・中)が置かれています。男性が右から左に回り、女性に声を掛けるとたくさんの子宝に恵まれるそうです。年金生活者のはやとちりとしては、できる限り多くの男女が訪れて子宝に恵まれ年金制度が破綻しないようにとお願いしました。

随身門の先を上信電鉄が横切っていて、ガードをくぐると左手に太刀割りの石(下・右)があります。慶長5(1,600)年馬庭念流中興の祖樋口定次が天真流村上天流ととの試合に臨み、八幡神社に参籠し満願の日に琵琶の木剣で断ち割ったと伝えられている。神社の上にあった読めなかった句碑は、この言い伝えを詠んだものでした。そしてここはまだ神社の境内で、右手に西山名駅が見えます。

県道30号に出て左折し、山名町北信号を横断します。前回は左手の坂を下りこの信号を右に曲がり西山名駅をゴールとしました。


南八幡中学校を過ぎた柳沢川の橋の袂に今は希少価値となった公衆電話ボックスがあり、脇に石像(左)が二体置かれています。
向かって右は観音像か西洋風の女神像のように見えますが、左のは何か全くわかりません。つまりどっちもはっきりしない石像です。


川の先二本目を右に曲がり、二股を左に行くとすぐ左手に庚申塔(右)があります。碑面中央に供養青面金剛塔とあり、左右に施主名や建立年が刻まれていますがこれは読めません。正面金剛は文字なのに、下部の三猿は像が彫られています。

高崎商科大学に突き当り左折し、すぐに突き当る信号を右折します。右折した道は佐野一本松通り。


烏川(左)を一本松橋で渡ります。「旧鎌倉街道探索の旅」によれば水量の目安とされた三名石の神籠石、赤石、聖石が昔の渡河地点にあるらしい。川の真ん中に石なのか、見ようによれば小さな中洲とも見える部分があり、その上流に数個の石が見えます。しかしこれらの中に三名石があるのかさっぱり分かりません。

それよりもはるか向こうに見える浅間山と高崎観音に、ゴールが近付いていることを感します。


一本松橋の左側を通り渡りきると歩道がなくなり、「歩行者迂回」の案内板により鋭角に左に曲がります。川の手前で道なりに右に曲がりますが、この付近が昔の渡河地点だと思われます。

すぐに上越新幹線をくぐり迂回させられた佐野一本松通りに戻ります。右手小高い所に御嶽山(右)があり、石段の途中に赤い火炎を背負った不動明王が睨み、石段の下には天明7(1,787)年の十二夜塔庚申塔馬頭観音が並んでいます。ます。


しばらく佐野一本松通りを北西方向に進みますが歩道がなく路側帯が狭く、そのうえに車がひっきりなしに通る「現代版通行の難所」です。でも歩行者は我々以外いないし、これまですれ違った人もいないので、この辺の人は意外と危ないなんて感じていないのかも。



下佐野町南バス停の先の二股の分岐部分に道祖神が置かれています。その二股を左に、下佐野町バス停先の二股を左の旧道に入り佐野一本松通りから別れます。
旧道に入る車はさせがに少なく、「現代版通行の難所」を過ぎます。


旧道を500mも歩いただろうか、右手の下佐野第一公民館敷地に放光神社史跡放光寺光明神跡(左)があります。

山ノ上碑の建立者長利の放光寺はここ、と長い間考えられていたようですが、諸調査の結果から近年ではここではないとの説が有力になっているようです。


すぐ先を左に上越新幹線を越えたると定家神社(上・左)があります。拝殿本殿ともに鮮やかな朱色で、細かな彫刻が施されています。神社の名から察する通り祭神は新古今和歌集などの選者で知られる藤原定家です。あちらこちらと旧街道を歩きましたが、藤原定家を祭神とする神社に初めて出くわしました。広い境内に古墳らしき円墳があり、左手境内社の古峰神社脇に、松杉をほめてや風のかおる音の芭蕉句碑があります。


神社前から上越新幹線に沿って進み、最初の角を右に曲がります。すぐに左に入る道があり左に佐野源左衛門神社佐野の渡しの案内板が、右には佐野源左衛門常世神社の石柱が立っています。

案内板を左折すると、上越新幹線沿いの道の手前右に常世神社(左)があります。謡曲「鉢木」の主人公佐野源左衛門常世が、領地を横領された後に住んだ屋敷跡に常世を祀るために創建されたのが常世神社です。

謡曲「鉢木」とは、一族の不正のため領地を横領された佐野源左衛門常世が大雪の日に宿を頼んだ修業者(実は鎌倉幕府執権藤原時頼)の為に秘蔵の盆栽「鉢木」を焚いてもてなしたのが縁で、(いざ鎌倉へと駆けつけた時に)表彰された、と言う物語。


案内板にあった佐野の渡しを求めて新幹線に沿い坂を下り、左に曲がると烏川に架かる佐野橋(右)の袂に出ます。佐野の渡し案内板にあった写真通りの木橋は、大井川の蓬莱橋を彷彿させます。ところが橋は真ん中付近から先がありません。今年(’13)9月19日の台風18号により烏川が増水し流失してしまったのだそうです。珍しい大河に架かる木橋ですから渡りたかったのですが、ついてない。この橋の付近が昔の渡し場だったらしい。
神社石柱と佐野の渡し案内板まで戻り、先に進むとすぐに道は二股に分かれ、角に道祖神が祀られています。


小さな水路を渡ると道の左に高崎市指定史跡の佐野の舟橋歌碑(左)が建っています。
碑面には船木観音の四文字と馬頭観音の線刻画像の下に 
かみつけの佐野の船はしとりはなし親はさくれどわはさかるがへ と万葉集の一首が刻まれている。
碑の裏面には、「古道佐野渡文政丁亥孟冬延養寺良翁識」とあり、この歌碑がかって船橋のあったと伝えられる所に建てられたこと、碑文は文政10(1,827)年10月に新町の安養寺住職良翁により記されたものであることが分かる。
船橋とは船と船をつなぎその上に板を渡した浮橋で、この地にかって船橋が架かっていて重要な交通路であった。

この佐野の船橋にまつわる伝説がある。烏川を挟んで二つの村があり、それぞれの村長の息子と娘が恋仲となり、夜に橋を渡って人目を忍んで会っていた。それを知った親がある夜、橋板を外し二人が会えないようにした。しかしそれを知らない二人は橋を渡ろうとして川に落ちて死んでしまった、というもので、謡曲の「船橋」はこの伝説をもとに作られたものである。この歌碑はその若い二人の怨霊を慰めるために建てられたと伝えられています。(佐野の船橋歌碑説明板による)


その万葉歌を直訳すると、上野国の佐野の船橋を離すように、親は(二人の仲を)離そうとするが、私はさかれませんよ、とらしい。


ところで「佐野の渡し」はてっきり、舟渡か徒歩渡りと思いましたが、船橋が架かっていたとは考えもしませんでした。



向かいが西光寺で参道には観音像や猿田彦大神などがずらっと並んでいます。そのまた向かいの駐車場隅に猿田彦大神が祀られています。


旧家らしい蔵のある屋敷があり、その先十字路左手に道標があります。右高崎市、左山名経由藤岡とか吉井、佐野などとあり比較的新しいと思える道標です。群馬県に入ってから道標をちょくちょく見かけるし、道祖神を目にする機会も多くなったのが特長かな。



左に天満宮入口を過ぎた先の二股を左に行くとすぐに大きな馬頭観音(左)があります。
秩父巡礼の道しるべで、右高崎、左婦ぢおか、ちゝぶミち、と刻まれているようです。

つれが指摘したのですが、なぜこんなに漢字やカタカナが入り混じっているのだろうか。何でですかね、以前にもこれと同じように入り混じっている道標はありましたが。


その先には天保4(1,833)年の双体道祖神(右)が祀られています。

道祖神の二股を右に荘厳寺に突き当ります。
荘厳寺の左に琴平天満宮(左)があります。琴平天満宮は古来お稲荷様が祀られていたこの地に、文化年間(1,804〜18)に高崎藩士寺田宋有が讃岐の金刀比羅宮から分霊勧請したと伝えらえています。

琴平宮は古墳の上に建っているそうで、古墳の下(拝殿下)の空洞に稲荷大明神(右)が祀られています。たぶんこれが古来祀られていたお稲荷様でしょう。


空洞を左から右に抜け、石段を上ると宝篋印塔があります。誰の物か分かりませんが、寺田宋有さんのではないかと勝手に想像しました。



荘厳寺と琴平宮の間の狭い道で県道71号線を跨ぎ、上信電鉄の踏切を渡り城南小学校の正門前(左)に突き当ります。その踏切を渡る手前左手に鎌倉街道碑が立っています。
碑文は、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと関東各地から鎌倉への道が開かれた。高崎から鎌倉への道は鎌倉往還と呼ばれたが、江戸時代になり鎌倉街道と呼ばれるようになった。高崎から藤岡、児玉、寄居、今市を経て笛吹峠を越え、入間川を渡り所沢、国分寺恋ヶ窪、府中、多摩川関戸、町田、横浜市瀬谷、藤沢市渡内を経て化粧坂から鎌倉入りするものであった。
高崎の古い地名の和田絵図によると和田城の北に金井、南に馬上宿と興禅寺があった。鎌倉街道は出水や大火により、また時代によりたびたび変化したようであるが、馬上宿から興禅寺を通り、今の若松町愛宕神社を経て下和田、新後閑のこの地を通り、一つは佐野、倉賀野方面へ、一つは烏川を渡って根小屋、山名方面へ向かいそれぞれ藤岡に至ったと推定されている。


まさに我々が歩いてきた鎌倉街道上つ道の逆ルートです。また、和田絵図によるルートは後者の烏川を渡り山名、根小屋と通って来ています。


小学校の正門前を左折して、学校に沿い右折すると道は原っぱだか畑だかはっきりしないが突き当って消滅してしまいます。戻って小学校前を直進すると再び県道71号を越えます。県道を越えて右折し坂を下り突き当りを右折して、またまた県道71号の下をくぐります。


県道の下をくぐった右手崖の上は行き止まりになった原っぱで、左手は素晴らしい展望が開けています。すぐ左手下に烏川が流れ、はるか先にはうつむき加減の高崎観音が、その右手には浅間山も大きく雄姿をあらわしています。一本松橋で烏川を渡りながら見た高崎観音と浅間山が約2時間後の今、更に大きくなりますますゴールが近付いていることを実感します。

城南信号で国道17号を横断して直進します。左手は下和田汚水中継ポンプ場と総合運動場(左)が隣り合い、桜やイチョウの紅葉が目に焼き付きます。

総合運動場を外れた右手に道祖神地蔵尊そのほかふくよかな形の石仏など数基が並び、旧街道の面影を多少ですがとどめています。


時刻はすでに1時過ぎでかなり空腹感を覚えています。今日は都会に入るので、食事処は選び放題だと思っていました。
しかし、旧鎌倉街道はメイン道路を避けながら通っているので、思惑通りにはいきません。
お腹が空けいたつれは「激おこぷんぷん丸」だと。何だそれはと聞いたら、今年の流行語大賞にノミネートされている言葉で、今朝出掛けに知ったんだって。何はともあれ、食事はまだ摂れる状況にありません。


左へ曲がる道の角に大きな道祖神があります。、その先左手奥に児童公園を過ぎ突き当った道を右に曲がります。坂を上る途中の右手に小万地蔵(右)があります。
鎌倉に幕府が開かれると、鎌倉街道が開かれこの地は要衝だった。その当時ここを通りかかった廻国者夫妻の妻小万がこの地で病で亡くなってしまった。これを悼んで里人が堂宇と地蔵尊を建て冥福を祈った。この地蔵を小万地蔵と呼び、それよりこの坂を小万坂と呼ぶようになった。

堂内には花がいっぱい供えられ、今でも多くの人が参詣に訪れているようです。


小万地蔵のすぐ先で旧街道は県道25号に合流します。正面に龍広寺が見えています。少し先信号手前を左折すると右手が佐藤病院です。さとう病院の玄関右手隅に小さな祠大きな石があります。化け石またはボケ石と呼ばれ、街道筋にあって馬に蹴られたので馬蹴り石とも呼ばれているそうです

もう少し小さな石なら馬も蹴るだろうが、縦横1m弱幅が2m弱もあるこんな大きな石を馬は蹴らないでしょう。蹴っても馬の脚が折れちゃうと思いますが、なぜこんな言い伝えがあるのだろう。


佐藤病院駐車係りの方に軽く会釈しながら病院の敷地を通り抜け、向運寺の塀に突き当り左折し、光明寺の塀に突き当り右折します。


光明寺と向運寺の間の道から間もなく城址公園の堀沿い(左)に出ます。


その堀端に和ダイニングkayaを見つけます。民家をそのまま食堂に改装した、小粋なお店の、焼き魚定食でようやく腹の虫も鳴りをひそめます。                                                                            
堀沿いに北上すると、高崎城の乾櫓東門(下 ・左)が移築保存されています。高崎城は井伊直政がこの地に移った慶長3(1,598)年以降、かっての和田を、高崎と改称し和田城を取り込む形で築いています。高崎城は廃藩置県後に建物はすべて払下げられ、三の丸と土塁がわずかに当時の面影をとどめている、と説明があります。乾櫓と東門は当時名主であった梅山家に払い下げられ、納屋や屋敷門として使われていたものを寄贈され移築しています。

城址公園の土塁を行きますが、カエデや桜の朱や薄紅色、イチョウの黄色そして常緑樹の緑の調和が素晴らしい。(写真は、中が高崎城堀端、右は三の丸付近の紅葉)  紅葉に気を取られすぎ、何処で間違えたのかも分からないうちに、中央小学校に突き当りました。ゴールの本町二丁目交差点とはとんだ方向違い。

小学校前を左折して、旧中山道に突き当り江戸方向へ上る坂は赤坂です。左手の赤坂山長松寺に由来する坂の名だと中山道の時の記憶がよみがえります。右手奥の恵徳寺高崎神社にも5年も前の中山道が思い出されます。



坂の頂上の本町一(交)は高崎宿への京方からの入口。そしてあらぬ方角からですが本町二丁目交差点(下・左) に、2時56分、20,205歩で到着しました。鎌倉街道上つ道はこの先中山道を、安中宿から軽井沢方面へ向かいますが、すでに中山道は歩いているため、ここ本町二丁目交差点で鎌倉街道上つ道を完結します。


本町二丁目交差点北の光徳寺(下・中)は目が黄色に染まるかと思われるほどイチョウの黄葉が見事。そして交差点から南に、間違えなければこの道から来たはずだった柳通り(下・右)を、鎌倉街道上つ道完歩の余韻にひたりながら高崎駅へと帰着の途につきました。

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