ぶ ら り 鎌 倉 街 道  を歩く     その1 下 道(しもつみち)      
  9.東武線鐘ヶ淵駅 〜 北小岩・真光院   平成25年1月10日 (木)   


10時30分東武スカイツリーライン鐘ヶ淵駅前をスタートします。踏切を渡ると道が二股に分かれていて、旧鎌倉街道は左の道です。
しばらく先で旧道は荒川の土手(左)に突き当って消滅します。土手に上がる中段に馬頭観音(右の写真にマウスを合わせて下さい)と思われる石仏が祀られています。
可愛い前掛けを身に付けていて、それには「平成21年度卒園児製作」とあります。
土手の手前の、ほがらか保育園の卒園児が丹精込めた手作りらしい。

対岸に渡るのは四ツ木橋(右)ですが、 500mくらいありそう。
橋の上で二人は冷たい北東の風に苦しめられます。しかし河川敷では、これもほがらか保育園の園児達だろうか、風なんて何のその元気に走り回っています。

首都高中央環状線をくぐり、環状線沿いに左に曲りすぐ先を右折します。曲った道は対岸からの続きの道で、四ツ木3丁目1番地と2番地の間の道です。

少し先の左手に葛飾区保存樹木のスダジイと楠があります。目立って大きな木ではありませんが、付近に緑が乏しいからの保存樹なのか。


水戸街道(国道6号)をくぐると、よつぎめだかの小路と小さな流れがあります。川面を眺めてもメダカの姿は見えませんが、寒いからじっと耐えていて、春になるとどこからともなく出てきて泳ぎだすのだろう。
東京下町を通っていた古代東海道周辺案内図も傍らにあります。東海道というと徳川家康が整備した東海道をイメージします。しかしそれ以前、大化元(645)年以降、都と地方を往来する交通路として東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の七道が整備され、宝亀2(771)年にはこの付近、東京の下町を東海道が東西に横断していた。


右手に西光寺(左)があります。西光寺は鎌倉時代の関東の豪族、葛西三郎清重の居館跡として知られ、嘉永元(1,225)年清重の創建と伝えられています。本堂裏にあるらしい清重塚は清重夫妻の墓だそうです。
本堂の右手にある阿弥陀如来(と思われる)像は寛文13(1,673)年の造立です。


西光寺前を左に、四ツ木2丁目6番地の交差点を右に曲がり、老舗っぽい岡崎金物店前でやや広い道路に合流します。

しばらく先に葛西郵便局がありますが、その手前に木工所(右)があり、作業場には拍子木や臼と杵、加工前の材料などが整然と置かれています。インテリアにでもするのだろうか、ミニチュアの臼と杵が数個並んでいましたが。


京成押上線奥戸街道入口踏切を渡り、二股を左に曲がると奥戸街道です。奥戸街道は、古くからの街道だろうと思い込んで調べたところ、ただ単なる道路の通称で古くも何ともないと判って拍子抜け。
このあとしばらくは、その真っ直ぐな一本道の奥戸街道を進みます。本田消防署の先に大道橋跡の石柱が立っています。何の説明もありませんが、かって流れていた川が埋め立てられ、この石柱を残したのだろうと推測します。


左手奥に京成立石駅を過ぎると中川に架かる本奥戸橋際に出ます。橋の手前左手に貞享2(1,685)年建立の地蔵尊(左)と安政2(1,855)年の馬頭観音の納まった祠が、その手前に出羽三山大日講により宝暦5(1,755)年に建立された出羽三山供養塔があります。これは右江戸みち、左おくとみち・まかり××、渡しば道などと刻まれ道標を兼ねています。



橋際を左に曲がると立石かんすけ児童遊園と言う面白い名前の公園があります。その前に地蔵堂(右)があり、脇には小さな地蔵尊と石仏が祀られています。




すぐ先、左に枝道がありその角に帝釈天王の道標(下)があります。その枝道は、江戸時代に帝釈天への参詣道だったようです。



その先、左手に南蔵院が見えます。
南蔵院の手前を左に入った小さな公園に、立石の地名の起こりとされ立石様と呼ばれる石があるそうです。
左に曲っってしばらく行ったのですが、公園らしきものは見当たらず手ぶらで帰ってきます。



南蔵院前を過ぎ、道が大きく左に曲る箇所にとげぬき地蔵(右)があります。宝永3(1,706)年建立で、馬頭観音らしき石仏が隣に並んでいます。今朝一番荒川土手で見たのとそっくりな、頭を右に傾げた姿勢をした石仏です。

ところで道が大きく左にカーブしたのは、中川が蛇行している為。この付近で中川は右に左にと大きく蛇行を繰り返していて、つれは「これじゃかなり洪水に悩まされてきたのだろうな」、と。

すぐ先奥戸橋で中川を渡り、環七通り沿いにあった「フラカッソ」で昼食とします。


環七通りを横断した右手、奥戸小学校前にも水戸街道の下にあったのと同じ、東京下町を通っていた古代東海道周辺案内図があります。
この案内板は左下総国府、常陸国府に至る、右武蔵国府、平城京に至る、と壮大なスケールの“みちしるべ”です。

新中川を三和橋で渡ります。ここからは江戸川に突き当る鎌倉街道下つ道のゴール地点まで一直線です。
立石大踏切を渡りますが、貨物線の線路一本しかないのに大踏切。しかもすぐにあったバス停は細田踏切です。

東用水せせらぎ通り(左)が道路を横切っています。流れは埋め立てられたのか、暗渠になっているのか。

細田から鎌倉に入りました。鎌倉町の由来は相模国の人がこの地を開拓したからとか、鎌倉八幡宮を勧請したからなどの説があるそうですが、いずれにしても鎌倉街道が通っているからではなさそうです。
そしていつの間にやら葛飾区から江戸川区に入っています。

京成小岩駅の脇で踏切(右)を渡ると左手に上小岩遺跡解説板が立っています。
昭和27(1,952)年に発見された土器をもとに調査したところ、古墳時代前期(今から1,600年前)の土器などが多数発掘され、その頃からこの付近では半農半漁の生活をしていたらしいことが推定されています。

左手に善慶寺があり、山門のずっと奥の突き当りに日蓮上人の大きな銅像が見えました。
また親水緑道が街道を横切ります。この他にも用水路跡と思える遊歩道が何本かありました。江戸川脇に湿地帯を埋め立てた水田が広がり、幾筋もの用水がその水田の中を流れる、といった一昔前の風景を頭の中に描きました。

道は真光院に突き当り途絶えます。真光院は真言宗の寺で慶長7(1,602)年の開山だそうです。門前の祠に二体の石仏が、その前に青面金剛馬頭観音が祀られています。境内の右手には樹齢200年という大樹が聳えています。

そしてここが我々としての鎌倉街道下つ道のゴールとします。鐘ヶ淵駅から16,157歩、時刻は13時40分でした。


まだ時間も早いし、帝釈天へ行こうと考えます。京成小岩駅に戻って電車で行くか、約2qを歩くか。、結論は、京成小岩駅まで戻るのに小1qはあり、それなら歩いた方が早いだろう、と。
真光院の脇から江戸川堤に出ると、江戸川で鎌倉街道が完全に遮断されていることがはっきりし、堤防の上が鎌倉街道下つ道のゴール地点と言った方が良さそうです。

そして帝釈天は、堤を北へ江戸川の上流方向です。

途中左手の土手下に地蔵尊馬頭観音を祀った祠がありました。地蔵尊に是より右岩附、慈恩寺道、岩附七里・是より左千手道、新宿壱里、千手弐里半とあり、江戸川区で最も古い道標だそうです。
慈恩寺観音は岩槻のはずれにあって、日光御成道を歩いた時に寄っています。それと新宿壱里に「え〜うっそ〜!」と思ったのですが、この新宿は旧水戸街道で歩いた葛飾区の新宿で更に行けば千住(千手)です。

隣に小さな岩山から滝(左)が流れ落ちています。この付近の水田は用水が掘られていたが水量が少なく、干ばつ被害を受けやすかった。石井善兵衛を中心とした農民が江戸川から善兵衛樋と呼ばれる掘割を造り、一帯の水田を潤すようにした。現在は上小岩親水緑道として整備されています。
その善兵衛の功績をたたえる水神碑も立ち、功労者40名の名が刻まれています。


矢切の渡が右手にあり、小さな渡し船がゆっくりと対岸に向かっています。そういえば江戸川の土手を1q以上歩いたのにぜんぜん橋が架かっていない。対岸への行き来が不便極まりないだろうに、どうしてこんなに橋がないのだろう。

左手に寅さん記念館があり、その奥が柴又帝釈天(下)があります。正式には経栄山題教寺と言い日蓮宗のお寺です。

帝釈堂と呼ぶらしい本堂前には瑞竜松が見事な枝を這わせています。
参詣をすませ、正面の十二支の彫刻を眺めながら帝釈堂を回って行くと、先にある彫刻ギャラリーは有料です。生まれついての、しわい性分が迷わずそこから引き返させます。「折角あそこまで行って見なかったのかよ」と、非難をあびちゃったのは帰ってすぐで、一見の価値ある彫刻だったらしい。

境内も結構人が多かったのですが、二天門をくぐると参道が狭いせいでことさら人が大勢いるように見えます。
「男はつらいよ」の舞台になった、高木屋で草だんごを買いがてら、見た店内はおいちゃんもおばちゃんも居場所がないくらいに混んでいます。こんなに内も外も混んでいては、せっかく帰って来たシャイな寅さんが店先を行ったり来たりしても誰も気づいてくれなさそう。気の毒に。

柴又駅前の寅さんと記念撮影して、改めて鎌倉街道下つ道完歩。 


二天門


参道


柴又駅前寅さんと

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