川越街道 を歩く        .みずほ台駅から     平成29年5月4日 (木)   晴




みずほ台駅前9時30分発ライフバス。川越街道4日目に確認しておいたバスに乗車、みずほ台駅入口で下車し、9時35分に街道に出ます。
街道は竹間沢のケヤキ並木(左)と呼ばれ、旧川越街道の往時の面影を残す数少ない所です。5月のさわやかな風に吹かれながら、新緑の下いつになく気持ちの良くスタートを切ります。

ケヤキ並木を行くと左手に緑に囲まれて木宮稲荷神社があります。由緒を読むと、寛文元(1661)年東都の中山忠左衛門という人が、出張先の大阪での霊夢により建立した、とあるようです‥・・あるようですとは、じっくり読んでも古文調で自信が持てないからです。さほど大きくない社殿ですが、鳥居と石灯籠が4対もありました。狛犬ならぬ狛狐?はいたずらされないようにか、金網で囲まれています。

境内に八坂神社、浅間神社、山神社があります。いずれも事情によりここに移ったそうで、どの神社も創立年は不詳だとのこと。
八坂神社は素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭神として祀っていますが、かっては牛頭天王を祀る神社だったそうで、明治新政府により祭神も社名も変えられています。
はやとちりの地域の鎮守様は橘樹神社で、境内に明治天皇東幸遺跡碑が建っています。それはどうでも、橘樹神社はかって牛頭天王を祀る牛頭天王社と称しましたが、明治新政府により素戔嗚尊を祀る橘樹神社と改称させられる、八坂神社と同じ憂き目を見ています。

ケヤキ並木が途切れる所に入口にあったのと同じ川越街道と書かれた大きな石が置かれていす。その先は大きなお宅が並び、藤棚に綺麗な藤が下がったり、軒下に可憐なピンクのツルバラが咲いていたり、庭先が目を楽しませてくれます。最近はとんとお目に掛れなくなった釣瓶井戸も発見しました。

右手の敷地なのか畑だろうかはっきりしない所に石の祠が置かれていました。その向かいが広源寺(右)です。門前の説明によると、寛永16(1639)年呑海大和尚の開基で、川越街道の成立や藤久保の開拓が着手した頃と同じ時期に創建された。明治9(1876)年藤久保小学校が開設された所である。
門前にある掲示板をなんと呼ぶのか、「来る日を憂えることなく、今日一日の今に励んでいる」とあり、本尊の釈迦如来坐像の写真が貼ってあります。

境内に入り、本堂前の木造の仁王像の大きさに圧倒されます。一対の狛犬も木造です。しかしお寺に狛犬があるのは珍しいのでは。

すぐ先に右に入る細い道があり、その道沿いに色とりどりなツツジが綺麗に咲いています。

藤久保信号を過ぎて間もなく、右手に享和2(1802)年の庚申塔が祀られています。
そこから先は中央分離帯に街路樹が植わっていて、藤久保の松並木(左)と呼ばれるそうです。そしてここにも川越街道と書かれた大きな石が置かれています。

川越街道の説明板もあり、藤久保、竹間沢に残る杉や松の並木の起源は寛永年間(1624〜44)にまでさかのぼると思われ、延宝六(1678)年の尾張藩鷹場絵図に中野(新座市)から藤久保を経て大井までの街道両側に松と思しき並木が描かれている。
藤久保の南側には松並木が、北側には杉並木が続いていたが、現在では藤久保交差点の北側にわずかに残る松の古木に往時が偲ばれます。

今歩きながらの道の両側は、松や杉だけではなく桜、イチョウ、ケヤキと雑多な並木ですが、説明のように一部に残る松の古木は往時を偲ばせてくれます。

少し先に「自転車でめぐる歴史と自然景観を楽しむルート」と題した三芳町の案内図がありました。その図に寄ってみたいと思わせる箇所はありませんでした。でもその図は右手に真っすぐ行くと鶴瀬駅で、東武線の一駅を歩いたことを教えてくれました。

ゴルフ練習場が見えると藤久保の松並木の終わりか、そこにも川越街道と書かれた大きな石が置かれていました。その先は片側一車線の道路になり歩道がなく歩きにくくなります。
車を気にしながらの、道路右側に下木戸跡と書かれた標柱があります。側面の文字が消えてしまって読めないのですが、大井宿南の入口らしい。

東台小学校入口信号の先は下り坂。右手奥に緑の森が見えるので右手に階段を降りそこへ向かいます。途中右手に大井戸跡の説明板があります。しかし大井戸跡がどこにあるのか分かりません。

緑の森は大井弁天の森(右)でした。コゲラやエナガが頭上で囀り、森の奥からはコジュケイの大きな鳴き声が響き、新緑の木陰で多くの人達が憩い、散策していました。

この森にかって大井清水弁財天社があり、こんな伝説が残されています。この村に住む夫婦の一人娘が体中に腫れものができる病におかされた。父親の枕元に弁財天が現れ、「大井の里の綺麗な水で洗えば治る」と、お告げがあり、大井の清水を汲み洗うと娘の身体はきれいになった。
弁財天社は老朽化により平成元年に取り壊されたそうです。

遊歩道の脇を砂川堀が流れています。この堀の水が伝説の清水だろうと思いましたが、説明板によると、急激な都市化により、保水機能を持っていた武蔵野丘陵が開発され、大雨による水害対策として平成8年に改修して完成した水路とあります。ということは、伝説の清水ではありません。

遊歩道の途中で砂川堀に架かる赤い橋を渡り、堀の反対側を街道へと戻ります。堀沿いの遊歩道を右に曲がるとその道はさっき見た大井戸跡説明板の裏手で、ここにも大井戸跡の説明板があり、大井戸跡(左)は復元されここにありました。
大井戸は、平安時代に作られた井戸跡ではないかと考えられ、水汲みや洗い場など共同水道として使われていたようです。元禄期に廃井戸になったが、昭和50年の発掘調査により復元されています。井戸は大小の石を組み合わせた幅約1,5m深さ3mほどのものです。

更に、元禄九(1696)年の大井郷田畑水帳に、川越街道、鎌倉街道と砂川堀に囲まれた三角形のこの低い土地を「おい土」「おいと」と記されている。武蔵野台地の上から井戸を掘ると大変な労力が必要で、段丘を流れる砂川堀に近い台地の崖下に井戸を掘った、とあります。
砂川堀は平成8年に完成したのかと思いきや、元禄時代にあったんです。と言うことで、清水を汲んだ堀説も再考の余地がありそうです。


街道に戻ると大井弁天の森入口信号で、さっき階段を下った所から50m程先へ進んだ所で、正面に徳性寺があります。山門をくぐった左手の地蔵立像は大井念仏講により明和4(1767)年に建てられたもので、大井宿南木戸(江戸口)に置かれていたものです。隣に馬頭観音が並んでいます。

境内左手には板塔婆(右)がいっぱい置かれています。鎌倉街道と伝えられる古道に面した、坂上の石塔畑(せきとうばた)と呼ばれる場所から出土したものです。、弘安4(1281)年の銘があるひときわ大きなものと、小さなものが二十数基あります。

本堂前の牡丹は今が見ごろとピンクの大輪が咲き誇っています。

大井バス停を過ぎた左手に大井宿本陣跡(左)があります。
大井宿と本陣と題した説明板によると、江戸時代より前の大井宿は大井郷と呼ばれ、現在地よりも東に集落があった。川越街道が整備され、この集落が移転し寛永期(1624〜44)にほぼ宿場の町並みが整った。
本陣は名主である新井家が代々勤め問屋場も兼ねていた。川越藩主の参勤交代は江戸に近いため宿泊はなく、小休と馬の継ぎ立てだけが行われた。

説明の下に、江戸時代末の大井宿町並図があります。それを見ると旅籠や茶店らしきものはなく、食事処も「うどん」と書かれた店が一軒あるだけでそんなところから推測すると、江戸時代末の大井宿はそれほど人の往来が多かったとは思えません。

大井バスセンターと書かれた看板がありますが、バスの発着所ではなく、お風呂屋さんです。、

大井上宿バス停を過ぎた右手のジョナサンで昼食を摂り、12時30分に午後のスタートです。



左手に大井小学校があります。門を入ったすぐ右側に元標があり、それに東経139°31分3秒・北緯35°50分33秒と刻まれています。
その左手に国登録有形文化財の旧大井村役場(左)があります。

明治22(1889)年施行の市町村令により大井村が誕生し、旧苗間村に仮庁舎を置いた。この時の村は399世帯、2407人だった。明治42(1909)年川越街道に沿ったこの地に大井小学校の改修で出た廃材を利用して大井村役場を建設した。その後老朽化により、昭和12(1937)年に洋風木造建築に改修され、落成時には「大井村と東京の間で一番ハイカラな建物ができた」と村民の手紙に添えられたと。

はやとちりが気になったのは399世帯、2,407人という当時の人口です。計算すると、一世帯当たり約6人の大家族です。この頃では当たり前だったのだろうが、核家族化した現在とは雲泥の大人数世帯だ。大家族の生活はそれは賑やかだったろうが、どんな暮らしぶりだったのだろう。

少し先で道は二股になり、旧道は左へ曲がります。100m程行くと右手に大きなケヤキと榎が聳えています。すぐ先には数本ケヤキの大木が聳える屋敷林があります。


大井総合支所入口交差点は旧川越街道と大山道が交差する交差点で角の常夜灯(右)が建っています。大山阿夫利神社へ参拝する際、亀久保村から最初に曲がる角になるのでこの交差点を角(かど)と呼び、そこに立つ常夜灯なので角の常夜灯と呼ばれ、大井町指定文化財になっています。享保2(1802)年の建立で、笠石と台座は明治30(1898)年に再建されています。道標も兼ね正面に大山道・武蔵野地蔵道・ところさわ道と書かれています。

少し先右手に地蔵院があります。別名を薬王寺と称し正和3(1314)年開基の古刹で、昭和27年の火災により本尊の地蔵菩薩坐像と山門だけを残して焼失した。川越藩主参勤交代の折は小休所として利用されたこともある。弘安5(1282)年と建武3(1336)年の板碑が保管されている、などと記されています。

境内にふじみ野市指定文化財・天然記念物の枝垂れ桜(左)があります。江戸彼岸桜の変種で樹齢は昭和55年で350年とあります。約50年を経た現在の樹齢は約400年になります。枝垂れ桜の平均樹齢は300年前後だそうで、延命保存の栄養補給を施しているそうですが、かなりな長寿桜です。
無憂樹もあります。聞いたことにない名前だなと思いながら説明を読むと、菩提樹の別名で、お釈迦様が菩提樹の下で生まれ、安産だったことからそう呼ばれるようです。

国道254号線に合流する直前の左手に亀久保神明神社(右)があります。
口伝によると天文15(1546)年上杉氏と北条氏による川越夜戦(かわごえやいくさ)があり、敗れここに住みついた斎藤氏(上杉方だろう)が、弘治2(1556)年京都から所沢に神明社を勧請、享保年間(1716〜36)に所沢の神明社を木の宮稲荷社の地に勧請したそうです。
境内には天保12(1841)年の手水鉢や40貫目(150s)と30貫目(120s)の二つの力石も置かれています。また天保12(1841)年創建の八坂神社と稲荷神社が祀られています。


神明神社の左隣に馬頭観音堂があります。石像馬頭観音で明治26(1911)年に亀久保の最南端の川越街道沿いに建てられ、昭和になりここに移されています。堂内を覗くと真っ暗ですが馬頭観音らしき像と何か分かりませんが金色のスジが見えました。

この馬頭観音にも大和田宿の鬼鹿毛馬頭観音と同じ伝説があります。
北国から三人の武士が早馬で江戸を目指した。途中で一頭が倒れ、亀久保まで来てもう一頭も倒れてしまった。ただ一騎先を急いだのが鬼鹿毛です。この三頭の内の一頭を祀ったのがこの観音堂とのことです。

大和田の鬼鹿毛伝説で馬を急がせていたのは商人のよううだし、一人で旅をしていたような説明で、この説明とは多少内容が違うように思いました。ま〜しかし伝説だから。


境内左手に庚申塔や馬頭観音塔など5基(左)が並んでいます。村の辻から移されたもので、左から2番目の馬頭観音は享保元((1716)年の銘があり、川越道、江戸道などと刻まれて道標を兼ねています。

街道に戻り、ふじみ野亀久保歩道橋の下で国道254号線に合流します。すぐ先の亀久保交差点につれが大好きな「しまむら」があり、前に買ったジーンズが気にいっているので探したいと、道草です。
やっぱりあったらしい、2本も買ってリュックに入らないので、買い物袋をぶら下げて歩き始めます。、


交差点の先は上下線を中央分離帯でセパレートされた道路(左)になります。ケヤキ、松、クヌギ、ヒマラヤ杉と雑多な中央分離帯の緑が涼しく感じます。

しばらく先に歩道橋があり、「ようこそ小江戸川越へ」とあり、この歩道橋を境にふじみ野市から川越市に入ります。

歩道橋の下で道は二股になっていて、旧川越街道は左へ国道と分れます。その左手に芝開地蔵菩尊があります。
その奥に鶴が丘八幡神社(右)があります。誉田別命(ほむたわけのみこと)を祭神とする神社で、境内に稲荷神社、八坂神社、御嶽神社が祀られています。
説明板に、新編武蔵風土記に八幡社村の鎮守なり、とあるだけで沿革は不明だと。また、鶴が丘の地名は貞享三(1686)年の検地帳に現れたとあり、鶴が丘村はこの頃に誕生したようです。

左へ旧道を行きます。茶色い土壁の家、蔵のある家や防風林のある家と旧家が並び、それともう使ってはいないのだろうが外便所を持つ家も多く見かける旧道の面影を色濃く残す通りです。


右手に「いもせんべい本家あらい」と書かれた店の藤棚の下に旧川越街道藤馬中宿跡と書かれた碑(左)が建っています。説明板がありますが文字は消えて読めません。
ところでこのお店、川越銘菓、新井製菓「いもせんべい配達します」とは書いてありますが、どこから見ても電気屋さんです。

すぐ先で藤間中バス停を過ぎます。いもせんべい新井店前の碑は藤馬中宿でしたが、バス停表示は藤間中で、馬が間に変わったらしい。

道は上り坂に差し掛かり、左手に金比羅大菩薩と書かれた幟がはためくお堂があり、隣に東光寺があります。曹洞宗の寺で境内にカヤの大木があります。

少し先の高階西小、高階西中への入口の交差点に開明地蔵大菩薩(右)が祀られています。
首切り地蔵と呼ばれ、川越藩の処刑場があった烏頭坂(うとうさか)付近に宝永6(1706)年に建立され、人の往来が激しくなりここに移設されたようです。

斜め右側に火の見櫓が見えます。その先、左手に吉田神社があります。急な石段を上った小高い塚の上に社殿があり、ずつなしを決めこんで石段の下で参拝です。塚の脇に吉田次兵衛政次翁の奥城と書かれた標柱が立っています。吉田次兵衛は吉田神社の祭神だそうですが、奥城とは何だろう。


その先、ごく普通の家の門ですが、その中は玄関ではなくお堂(左)があり、宝永3(1708)年の庚申塔と天保2(1831)年の馬頭観音ともう一つ、3基の石塔が納まっています。

少し先の信号を右に入ると、東武東上線新河岸駅があり、今日はこの信号までとします。時刻は午後2時40分、18,534歩です。




新河岸駅へ向かう途中で現川越街道を横断しますが、後ろに続くはずのつれが見えません。おやっと思い戻ると、川越街道で立ち止まり右手を見つめています。視線の先にはつれの大好き、「しまむら」がここにも。しかしさっき買ったし、と思い直したのか、すぐに歩き始めます。

新河岸駅から東武池袋へ、地下鉄、東急東横線と「他の路線に乗り換えた」という感覚なく横浜へ連れ帰ってくれました。鉄道の相互乗り入れはとにかく便利で有難いことだ。

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