川越街道 を歩く        .新河岸駅から川越城大手門跡     平成29年5月14日 (日)   曇


新河岸駅に9時57分、トイレに寄ってからすぐに歩き始めます。すぐ先、現川越街道の信号の左手にある「しまむら」は、つれが5回目の帰りしなにジィ〜と見ていた店で、今日は早くも寄り道です。はやとちりが店の端のベンチで待つことしばし、でもお気に召す品はなかったらしくさほどを要さずに店を後にします。

旧川越街道の今日のスタート地点に着いたのが10時20分。この信号を北上するのが旧川越街道ですが、再び寄り道でこの信号を直進します。直進して3本目(2本目だったか)を右折すると左手に地蔵院(左)があり、寄り道はここが目的です。

入口右手に大きな普門品供養塔があり、側面に天下泰平大願成就とあり、その隣に寛政9(1797)年の六地蔵が並んでいます。墓地の一番奥には千手観音と4基の庚申塔が並んでいます。

ここで、はやとちりの股の辺りを虫がモゾモゾ這いまわるような不快感が。人目もはばからず、いや誰も居ないからですが、ズボンを下ろしパンツの中をまさぐると小さな虫が飛び出ました。何者とも知れぬこの虫、どこでどうやってはやとちりのパンツの中にもぐり込んだのか。まあいづれにしても一件落着、不快感は解消し旧川越街道へ戻ります。

右手に砂新田春日神社があります。境内右隣の小さな社は八坂神社です。その先通り沿いには防風林で囲まれた旧家、蔵のある重厚な家などが並び古い街道の面影を残しています。

間もなく不老川に架かる御代橋(ごだいはし)を渡ります。渡ったすぐ左手は、古民家をそのまま活かしたディサービス施設になっています。

左手にオープンガーデン(右)があります。バラ、スイトピー、矢車草、ノースポールなど様々な花が咲き乱れる花園です。
その向かいの「道を入ると長田寺があります。正式名は月村山善知鳥院長田寺(げっそんざんうとういんちょうでんじ)と長く、釈迦如来に文殊、普賢両菩薩の三尊を本尊とする寺です。新築中の本堂左手に地蔵菩薩立像があります。工事中でもありうろうろ邪魔をしても、とすぐに境内あら離れます。

街道は烏頭坂と呼ばれる緩やかな上り坂になります。
新河岸川の舟運が盛んな頃、川越へ運ばれる荷はこの坂を通らざるを得なかったがかなりな難所だったようです。文明18(1486)年道興准后がこの地を遊行した廻国雑記に「うとう坂こえて苦しき行く末やすかたとなく鳥の音もかな」と詠んでいます。

川越街道5日目に見た開明地蔵尊は、うとう坂にあったのを往来が激しくなったので移したとありました。ここ、うとう坂付近は移設した頃はいざ知らず、現在は地蔵尊のある場所とは比較にならないくらい車も人も多い。.

烏頭坂石柱の脇、石段を上るが、両側には朱色の燈籠が並びます。また、石段を上る途中も、鳥居をくぐった先も鬱蒼とした木々に覆われ、森閑とした境内に熊野神社(左)が佇みます。

社殿前、狛犬の脇に大きな陶器製狸が置かれていますが、どんな縁起からだろうか。
境内左手の眼下に関東平野が広がります。それは素晴らしい眺望ですが、点在する高層マンションがその素晴らしい展望にちょっと水を差します。
境内の奥にも鳥居があり、そこに御嶽神社、霊神、疱瘡神、稲荷大明神など末社の石柱がずらりと並んでいます。

烏頭坂を上り切ると右手からの現川越街道の国道254号線に合流します。すぐ先の新宿町北(あらじゅくまちきた)信号交差点はJR川越線と東武東上線の上を跨ぐ川越大橋で、そこから国道は右へ曲がり、旧川越街道は真進するので合流したばかりの国道とはわずか200m程でお別れです。

川越大橋=新宿北交差点を歩道橋で渡りながら右手を見ると、国道のすぐ左手に和食レストラン「とんでん」が見え、ここで昼食を摂ることにしました。約40分の昼食タイムを終え、12時20分新宿町北信号の先の旧道を歩き始めます。


右手にこんもりとした森が見えますが、浅間神社の森(左)です。
康平年間(1058〜65)に源頼義が奥州征伐の途次に富士浅間神社から分霊したのが始まりで、長禄元(1457)年に太田道灌が再興した、など古い歴史を持つ神社です。
神社の森一帯は高さ5m周囲42mの円墳で、浅間神社はその古墳の頂上に建てられています。仙波地区は農業主体の集落であって、古墳は6世紀に造営された集落の指導者の墓です。
鹿見塚(ししみつか)碑も建っています。古く日本には鹿の肩を焼いて吉凶を占う習慣があり、仙波地区に鹿見塚があったが、東武東上線の開通で消滅してしまい、あった証としてここに碑を建てた。

少し先で仙波小学校を過ぎます。浅間神社の説明板に仙波地区の名が何度となくあり、仙波地区が浅間神社の付近一帯だろうとは思っていましたが、ここに仙波を認めました。そして地図をよく見れば仙波町もありました。

左手に妙善寺があります。小江戸川越七福神の毘沙門天を祀る寺です。門前に六地蔵や地蔵菩薩立像、如意輪観音像など石仏がずら〜と並んでいます。

境内にさつまいも地蔵尊があります。寛政((1789〜1801)の頃、江戸に焼芋屋が登場して川越のさつまいもが有名になった。瀬戸内地方ではさつまいもにより飢饉を乗り越え、感謝してさつまいも地蔵が各地に祀られています。しかし現在飢えることはないだろうと考え「さつまいもを食べて健康になろう」の趣旨でさつまいも地蔵は建立された。
水琴窟もあります。筒に耳を充てると、深い底から心休まる得も言われぬ音色が聞こえてきます。

妙善寺の向かいの庭に茶色、エンジいや赤錆色だ、の花が咲いています。庭に出ていたご主人に聞くとこんにゃくの花(右)だそうです。群馬県だったと思いますが、こんにゃく畑は結構見ています。しかし花を見るのは始めてで、ざぜん草とか水芭蕉の親戚かな、変わった形をした花だ。

妙善寺の隣に菅原道真山車庫があります。菅原道真像が山車の上に乗っていて、町内を練り歩くのだろう。

その隣が菅原神社(左)です。
寛永元(1624)年に妙善寺開山の尊能法印により勧請されて天神社と称した。大正2(1913)年に稲荷神社を合祀して菅原神社に改称しています。
社殿の右奥に「産業の神様六塚(むつか)稲荷神社」と書かれた小さな祠があります。大正2年に合祀された稲荷神社です。

境内入口に大仙波新田開郷三百年記念碑が建ち台座に名主忠兵衛、半兵衛、弥兵衛と刻まれています。名主の皆さんそろって○○兵衛さん、大正14(1925)年が開郷300年だそうで、当時の定番の名前が○○兵衛さんだ。

すぐ先で川越駅東入口信号を過ぎ、200mほどの左手が八幡神社(右)です。鮮やかな色彩に彫刻が見事な拝殿です。
長元元(1028)年下f総千葉の城主平忠常が謀反を企て、安房、上総、下総を勢力下にして武蔵に侵入を開始した。長元3年、乱の平定のために源頼信が当社寺地に陣を進め、源氏の氏神である八幡社に戦勝を祈願した。源頼信は朝敵を三日三晩追撃して滅ぼし、戦勝に感謝して創建したのがこの川越八幡神社です。
後の長禄元(1457)年、河越城を築いた太田道灌は当社を武運の神と崇め、分霊社を祀り城の守護神とした。以来、川越城歴代城主からも厚く崇敬を受けている。

拝殿の右手に天然記念物たらようの木があり、御神木です。別名「葉書の木」と呼ばれ、葉に尖ったもので文字を書くと傷付けた部分が黒くなって長い間残るそうです。戦国時代にこの葉に文字を書いて、情報をやり取りした、との話もあるようです。


川越工業高校を過ぎた先で道は右にすぐ左へと曲がる枡形道路(左)になっています。何度となく述べているように、道路をわざと曲げて敵が攻め込んできた時に人馬がスムーズに侵入できないようにした防御用の道路で、宿場の出入口特に城下町に多く見られる道路です。

枡形を抜けた先を左に入ると右手に出世稲荷神社(右)があります。天保2(1832)年に地主立川氏が屋敷神社として、京都伏見稲荷神社より分社しています。

境内入口の樹齢650年以上と推定される夫婦イチョウに目を奪われます。立川さん境内がこんなに狭苦しくなる今を想像もしないで植えたんでしょうに。

それと、稲荷神社は天慶四(942)年に朱雀天皇により正一位を賜る、とありました。境内両側に正一位稲荷神社と書かれた幟がずらっと並んでいますが、正一位ってそうことなの、と人生70有余年はやとちりはここで知ります。

龍神の山車庫が脇にありました。菅原道真の山車庫もありましたが、川越の祭りは各町内の山車が豪壮に繰り出しすのかな。

旧街道の出世稲荷神社へ入った向かいの道を入り、埼玉中央病院の裏手からどろぼう橋(下)を渡り喜多院の境内に入ります。どろぼう橋とは奇妙な名前ですが、深い堀に架かる曰くつきの橋です。
昔、一本の丸太橋だった頃の話、喜多院、東照宮境内は神領であり、江戸幕府の御朱印地で川越藩の支配はおよばなかった。これを知っていた盗人が捕り方に追われ、この橋を渡り境内に逃げ込んだ。しかし、盗人は寺男に捕えられ、寺僧に諭されて元三大師に罪を詫びた。罪を許された盗人は商家に奉公して真面目に励んだ。

喜多院は天長7(830)年淳和天皇の勅により慈覚大師が創建し無量寿寺と名付けた。元久2(1205=鎌倉時代)年に焼失し、永仁4(1296)年再興され慈恵大師(元三大師)を勧請した。その後天文6(1537)年に戦火で再び焼失した。徳川家康が川越を訪れた時に、寺領4800坪と500石をを与え酒井忠利に工事を命じ、仏像院北院を喜多院と改めた。
寛永15(1638)年、川越大火により山門を残し全ての堂宇が焼失し、徳川家光により慈恵堂(本堂)、多宝塔、鐘楼門などが数年の後に復興され、それらが現在国指定文化財として残っている。



どろぼう橋


喜多院本堂


鐘楼門
境内の奥にある東照宮(左)にも行って来ました。
徳川家康の遺骨を久能山から日光に移送する、元和3(1616)年喜多院に4日間逗留し供養を営んだ。このことから、天海僧正が寛永10(1633)年に創建した。川越大火により焼失したが、寛永17(1640)年に再建され、日光、久能山とともに三大東照宮と言われている。

境内に歴代川越城主が献備した石灯籠が26基並んでいます。明暦2(1656)年の初代城主松平信綱のものから弘化4(1847)年迄のもので、元禄15(1702)年の柳沢吉保のものも拝殿前に一対あります。柳沢吉保は川越城主でもあったんですね。

喜多院の北側に成田山川越別院があります。ペリーが黒船を率いて来航した嘉永6(1853)年に廃寺だった寺を再興して成田山別院にしています。交差点の角に大きな不動明王が睨みをきかせています。

松江町信号交差点で旧川越街道に復帰します。旧街道沿いは蔵造り商家が並びます。そんな中、右手に綺麗なレンガ造りの日本聖公会川越教会(右)があります。国登録有形文化財と都市景観重要建物に指定されています。礼拝堂の落ち着いた空間にぼぉ〜と身を置き、今日の疲れがやや和らいだように感じます。
向かいの割烹旅館、佐久間旅館は教会とは対照的な、どっしり重厚な蔵造りの建物でやはり国登録有形文化財です。その先で街道は左へ右へと緩やかな枡形道路になっています。

間もなく市役所前に着きます。市役所の南東隅に川越城大手門跡碑(左)があります。ここが川越街道のゴールで、午後2時20分、14,288歩でした。

川越城を築いた太田道灌像もあります。左手に弓を持つ鷹狩の姿ですが、右手には山吹の枝を持っています。皆様ご存知のとおり、道灌が鷹狩の途中雨に降られ、立ち寄った農家の娘に山吹の枝をさしだされた。「七重八重花は咲けども山吹の 実の(蓑)一つだになきぞ悲しき」、歌の意味を理解できなかった道灌は恥じてその後歌の道を頑張ったらしい。


街道は完歩しましたが、我々は更に川越城本丸御殿を目指し、市役所前を西へ向かいます。途中左手に深さ7m幅18mの川越城中ノ門堀跡が残っています。埼玉県指定文化財です。

堀跡から200m東に行くと川越城本丸門跡碑が建ち、その向かいに川越城本丸御殿(下)があります。川越城の中心だったところで、城主の居室、家老詰所、執務室等御殿にふさわしい様々な部屋があったようです。入館できますが、疲れて面倒になり(入場料をケチってかも)豪壮な御殿を外から眺めただけで、西武新宿線本川越駅を目指し戻ります。


川越城本丸御殿


時の鐘


川越蔵通り
川越のシンボル的、時の鐘の前を通ったが午後3時でゴーンと鐘の音が響き渡ります。誰が撞いているのだろうと見上げるが人影はありません。午前6時、正午、午後3時と6時の一日4回、自動で撞いているそうで、つれは知っていました。

時の鐘前から左に曲がったメイン通りの蔵通りは日曜日でもあり大変な人出。人混みを縫いながら、景観などそっちのけで、ただただ駅を目指します。が、駅は結構遠く着いた時はくたくたでした。


その昔川越を訪れた時、菓子屋横丁で駄菓子のせんべいを土産にしました。帰ってから見れば、製造者は「横浜市保土ヶ谷区桜が丘」と。月に一度程度散歩に行く、保土ヶ谷公園の麓に良い匂いを漂わせるせんべい工場があります。わざわざ遠くまで行って買い求めたのが、こんな近くのだったとは、とんだドジ加減にあきれた記憶を思いだしました。

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