| 絹の道を歩く | 5.宮田町二丁目〜シルクセンター 平成24年9月22日(土) 曇後晴 |
今日の道筋はかなり勝手を知っっているうえに、距離的にもゆとりがある、と言う事でゆっくりめの11時ちょっと過ぎに家を出ました。約3分後の宮田町二丁目交差点がスタート地点です。宮田町二丁目(交)から国16号を左(東)に曲るとすぐ左手に延命地蔵尊(左)があります。 心願不動尊香象院とあるが、香象院は旧東海道筋の旧帷子橋跡のちょっと先の門前の大きなお釜が目印のお寺です。 ![]() 左手の塀際に大きなソロバンがあります。そろばん塾ですが、かれこれ30年前からこのソロバンはここにあります。 少し先の左側に庚申塔(右)があり、その先で右手からの道と合流します。そこは芝生(しぼう)の追分(下・左)で、八王子街道と旧東海道の追分です。 旧東海道をしばらく行きますが、この付近は全くと言っていいくらい、旧道らしさは失われています。それといつも心配して見ているのが左手の切り立った断崖絶壁です。この崖がよもや崩れる事はないと思います。しかし東日本大地震以来東海から関東地方にかけて「近い将来必ず大地震が発生する」と警鐘が鳴らされていてそれで心配なのです。 崖の上は見晴らし公園で、そこからはみなとみらい地区が一望でき、初日の出を拝むにも絶好のポイントです。左手の小高い丘の上に浅間神社(右)があります。創祀は承暦4(1,080)年と言われますが、浅間神社は承暦4年の創祀より歴史ある古い社である、と由緒にあります。 拝殿前の狛犬は慶應2(1,966)年の建立で、願主の一人に横浜松木屋の名があります。はやとちりが子供の頃、伊勢佐木町に松喜屋デパートがありましたが、そこと関係があるのだろうか。 神社の境内を横切り裏口から神社を出ますが、石段の途中に富士講の大きな碑が建っています。 ![]() 宮ヶ谷小学校入口(交)を横断し、右手の細い道(左)を行くとすぐに旧東海道の環状1号線に突き当り行く手をはばまれます。浅間下(交)まで戻って環状1号線を渡り、突き当った先の旧道に入ります。 旧道の入口左手によこはま道解説板が立っています。 安政5(1,858)年、日米通商条約調印によって開国に踏み切った幕府は神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定めた。当時東海道筋から横浜への交通は誠に不便を極めたことから、幕府は東海道筋の芝生村(現地点)から横浜(関内)へのよこはま道と呼ばれる道路を開いた。 ![]() 芝生(しぼう)から湿地帯であった岡野、平沼の各新田を経て、戸部村まで一直線の道路を築くと共に新田間、平沼、石崎の各橋を架け、当時の野毛の東(現花咲町、桜木町)は海であった為、野毛の切り通しを開き、野毛橋(現都橋)大田橋(現吉田橋)を架け馬車道付近を通って横浜港に至った。 つまりこの先、絹の道はそのよこはま道を歩くことになります。尚よこはま道の工事は開港のわずか3ヶ月前に始められ、工事監督の保土ヶ谷宿本陣、苅谷清兵衛等により突貫工事で開港前日に開通したと。 旧道を道成りに新横浜通りに出ます。出たすぐ先が先程の横浜道説明板にあった安政6(1、859)年架橋の新田間橋(右)です。橋の先を川に沿って右に曲り、すぐに石段を下りて細い道を進みます。 細い道を行き、右手に西区公会堂が見える所で左折すると新横浜通りに出ます。出た所で新横浜通りは上に、側道は下(左)へと分岐して並行しています。その側道の路面に横浜道のプレート(下)が埋め込まれています。![]() この道がよこはま道なら、なぜ新田間橋から真っ直ぐ来ないで橋を渡って曲ったのか。疑問を抱いて、念の為戻ってみました。 その結果は、新田間橋から岡野(交)迄の間は横浜道の標示なし、岡野(交)の先に小さな丸い横浜道のプレートがありました。 新田間橋を渡り、一段低くなった道路へ曲がり、岡野交差点で新横浜道へ出る。これが横浜道つまり絹の道だったと、はやとちりは結論付けました。 側道のような道は新横浜道を上に見ながら元平沼橋で帷子川を渡り、東海道線や相模鉄道の線路によって遮られてしまいます。以前はなかなか遮断機が開かないで、いらいらしながら待った開かずの踏切があったのですが。線路の脇に「横濱平沼橋ヨリ東海道神奈川台ナラビニカルイ澤茶店又遠ク大師河原ノ裏ヲ見ル」五雲亭貞秀作の浮世絵の横浜道説明板(左)があります。 元平沼橋を渡って戻った所のエレベーターで新横浜通りに上り、川と線路を越えてエレベーターで下りると横浜道の続きで、この先は平沼商店街です。 エレベーターを降りた所に平沼橋の説明板が。東海道から横浜への開削で架けられた第2番目の平沼橋は、新横浜道ができてそこに架かる橋が平沼橋となり、元平沼橋と改称された。 ![]() 頭上の橋は平沼橋。しかし線路の向こうで我々が行ったり来たりした元平沼橋が元々は平沼橋だったと主張している説明板です。こちら側の線路脇にも、向こう側と同じ横浜道説明板があります。 平沼商店街にも横浜道のプレートははめ込まれています。そして注意深く観察すると、まず四角の横浜道プレートがあり、そのちょっと先に小さな丸いプレートがある、といった配置になっています。 京浜急行のガードをくぐると広い道路に突き当りますが、その左手の角平で昼食です。昭和25(1,950)年創業の当店一番人気は「つけ天」で二人もそれを。 広い道路を横断した先(右)にも平沼商店街は続きます。 |
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平沼商店街が尽きると、横浜道は敷島橋で石崎川を渡ります。横浜道の開通時にはここに石崎橋が架かっていましたが、大正4(1,915)年の横浜駅建設に伴い、昭和3(1,928)年に移設され昭和5年に石崎橋の跡に敷島橋が架橋され、石崎橋は敷島橋のひとつ上流に移動しました。敷島橋から石崎橋を望む(左) ![]() 何故元の位置に戻さなかったのか、石崎橋へ行けば理由が分かるかと行ってみましたが空振りでした。 川沿いの道は石崎川プロムナードで、川の柵(右)に大正4(1,915)年の横浜駅舎が描かれています。 敷島橋を渡り、国1号を戸部7丁目交差点で横断すると戸部通りです。戸部町5丁目にはマンホールの蓋に横浜道の標示がありました。 ![]() 戸部4丁目(交)に岩亀(がんき)横丁説明板(左)があります。 横浜開港の後、岩亀楼という遊郭が関内から高島町に移転し、その寮がこの地にあっていつしか岩亀横丁と呼ばれるようになり、遊女がお参りした岩亀稲荷が今も大切にされています。 ![]() 交差点を左に岩亀横丁の中程、右手に岩亀稲荷(右)があります。 岩亀稲荷と岩亀横丁の由来にも、説明板どおりのことが述べられていますが、更にこんなことが。 高島町で一、二を争う大楼岩亀楼一の売れっ子、喜遊(亀遊説も)大夫がペリー艦隊の軍人に言い寄られ「露をだにいとう倭の女郎花ふるあめりかに袖はぬらさじ」の有名な辞世を詠んで、拒み自害した。 有吉佐和子著の「ふるあめりかに袖はぬらさじ」はこの岩亀楼が舞台になっていて、たしか今阪東玉三郎で舞台公演されています。 ![]() 岩亀稲荷の少し先を右に入ると掃部山公園があります。公園の中に井伊掃部頭直弼の銅像(左)が建っています。 嘉永6(1,853)年ペリー率いる黒船4隻が来航し、開港を迫った。ときの大老井伊掃部頭直弼は勅許を得ず、安政5(1,859)年に日米通商条約に調印し横浜を開港した。 明治17(1,884)年、旧彦根藩有志が井伊直弼の記念碑建設の為にこの山を購入し掃部山と呼ばれるようになります。明治42(1,909)年横浜開港50年記念に際し、横浜開港の功績を顕彰してこの像を建てています。 ![]() 銅像の裏手には横浜能楽堂の屋根が見えます。 登って来た反対側の坂を下り公園を出て、少し絹の道をショートカットしましたが戸部通りに戻ります。そこは右手の戸部4丁目と左手の3丁目の境でした。 坂を登り切った頂上の戸部交差点は保土ヶ谷道(緑)の起点で、横浜道(青)と並んでプレートが設置されています。 保土ヶ谷道は旧東海道の保土ヶ谷区岩間町大門通りを起点として、藤棚商店街を経由してくらやみ坂と言う恐ろしげな坂を登ってこの交差点に達する区間です。 はやとちりはちょくちょくこのルートをたどって、野毛山や伊勢佐木町方面へ散歩しています。その道が旧道だと知った今、この保土ヶ谷道もすぐに旧道歩きの仲間に加えたいと思います。 ![]() 横浜道は戸部交差点を直進しますが、二人はここを左折し、この先にある神奈川奉行所跡(左)を目指します。 史跡神奈川奉行所跡は、横浜の開港に伴い、安政6(1,859)年開港の事務にあたっていた外国奉行に神奈川奉行兼務の命があり設置された。この地にあった神奈川奉行所は戸部役所と呼ばれ、内国司法、行政事務を取り扱ったが、明治元(1,868)年横浜裁判所の設置により廃止された。 戻って、能楽堂入口の向かいが伊勢山皇大神宮裏参道です。 伊勢山皇大神宮 (右)は、明治3(1,870)年に戸部の伊勢山にあった神社を移して伊勢山皇大神宮とし、横浜の総鎮守として定めたとのことです。毎年とは言いませんが、ご利益を期待して初詣をしていますが、意外と歴史の浅い神社であることを今知りました。拝殿の中はおりしも結婚式のさなかで、二礼そして式の邪魔にならない程度に小さく二拍手して参拝をすませます。 ![]() 正面の石段を下りると、中間左手に踊り場のような一角がありそこで小休止。 大鳥居をくぐって右に曲がり、道なりに、ここもちょっとショートカットをして横浜道(絹の道)に出ます。 出た付近は横浜道説明板にあった野毛の切り通し(左)で、道路両側に石垣がそそり立ちます。 ![]() 野毛坂交差点を左折しますが、交差点右手の石垣(右)は、明治時代の実業家平沼専蔵別邸跡の亀甲積擁壁で、平成18(2,006)年に横浜市歴史的建造物に認定されています。 横浜市の解説板によると建築は、明治23(1,890)年から明治26(1,893)年の間とあり、石を亀甲型に削っって積み上げた美しい石垣の上に煉瓦塀があります。 ![]() 交差点の右手、亀甲積擁壁の向かいに(横浜市)西区歴史街道と題した解説板があり、案内図とともに西区を通る三本の旧街道、東海道、横浜道、保土ヶ谷道について解説をしています。 この説明を読んで、東海道を歩いた時から気になっていたこの標識(左)の意味が分かりました。 西区を通る三本の旧街道だったのです。人の字の一画目が旧東海道、二画目が東海道から分岐している横浜道、そしてそのそれぞれに交わる保土ヶ谷道でした。隣接する神奈川区になく保土ヶ谷区にもなく、西区の道路にだけ標示されていたのも含め疑問が解消されると、意味不明の変なデザインはシンプルで分かりやすいグッドデザインへと我が考えが変わりました。 |
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野毛坂(交)を左折して坂を下ります。昔はこの通りには仏具店が軒を連ねていましたが、現在は数軒を数えるだけです。 左に野毛小路を過ぎると、「野毛本通り、野毛は漁師町だった」、と題して」の解説がありました。江戸時代まで野毛は戸部村の一部で漁師町だった。万延元年(1,860)に刊行された貞秀の錦絵には大岡川に浮かぶ漁船が描かれている。その通りだと思います。小さな漁村を開港場としたのだから。 すぐ先で横浜道開通の頃は野毛橋と呼ばれていた都橋(左)を渡ります。 橋の先は吉田町名店街で、名店街を過ぎると 吉田町交差点です。交差点を右に曲がると伊勢佐木町ですが、横浜道はここを左に曲がります。 曲った所が吉田橋で橋の中間に史跡吉田橋関門跡碑(右)が立っています。 東海道から陸路横浜へ入るにあたり、吉田新田から架けられたので吉田橋と呼ばれた。吉田橋の設置により交通の中心部となり、治安を守る為に橋の袂に関門を設け人の出入りを取り締まった。 明治4(1,871)年にこの関門は廃止されたが、関門が文久4(1,864)年に港側から吉田町側に移設された時から関内、関外の呼び名が生まれ、関門の馬車道側を関内と呼ぶようになった。 馬車道交差点を越えると馬車道ですが、車止めは通りの名から馬の顔(下・左)になっています。 馬車道の中程に日本初のガス灯(中)があります。明治5(1,872)年高島嘉右衛門により馬車道、本通りなどに日本最初のガス灯が設置されました。ここに立っているのは復元されたものですが。すぐ先にはユニークな形をした、日本写真の開祖下岡蓮杖の顕彰碑があります。 ドイツルネッサンス様式の堂々とした建物は、明治時代に建築された国指定重要文化財の旧横浜正金銀行本店の県立歴史博物館(下・右)です。 横浜正金銀行は、開国以来外国人が主導してきた貿易金融取引を改善する為に、明治13(1,880)年に設立され、大正8(1,919)年には世界3大為替銀行の一つと数えられていました。 |
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| 重厚なビル群を抜けて海岸通4(交)を右折すると海岸通りです。左手に郵船ビル、神奈川県警察本部、横浜税関(下・左)と並んでいます。 横浜税関は安政6(1,859)年の横浜開港に伴い神奈川運上所として開設されました。現在の横浜税関の建物は昭和9(1,934)年に竣工し、エキゾチックな雰囲気を醸し出す緑色のドームは横浜三塔、キングの塔、ジャックの塔とともにクイーンの塔として親しまれ港横浜のシンボル的存在です。 すぐ先の右手が神奈川県庁(下・中)です。昭和3(1,928)年竣工の県庁舎は平成7(1,996)年に歴史的建造物として、国登録有形文化財に指定され、キングの塔の愛称で親しまれています。県庁の敷地南西側に神奈川運上所跡碑が立っています。運上所は税関の前身。 県庁を本町通りとみなと大通りの交差点で挟んだ対角の位置に開港記念会館(下・右)があります。大正6(1,917)年7月1日の開港記念日に開館し、ジャックの塔として親しまれています。この周辺で最も優雅な外観ではないか、と思えるこの建物は国の重要文化財に指定されています。建物のみなと大通に面して岡倉天心生誕の地碑があります。 |
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![]() 横浜税関のクイーンの塔 |
![]() 神奈川県庁のキングの塔 |
![]() 横浜開港記念会館のジャックの塔 |
海岸通りに戻ると象の鼻波止場前で、浴衣の女性たちが横浜市歌に合わせて輪になって踊っています。まさに我々二人の絹の道ゴールを祝ってくれるように。 ![]() その向かい側、開港広場に日米和親条約締結の地碑(左)があります。安政元年(1,854)に横浜村で日米和親条約が結ばれ日本が開国します。そして現在の横浜市があるのもこの締結からです。 ![]() 正面のシルクセンター脇に青々と繁る桑の木(右)があり、そこが絹の道の終点です。2時20分、12,333歩で。 そこは英国のウイリアムズ・ケズウィックが開港とともに来日し、貿易を始めた英一番館跡でもあり、こういった商人達 により貿易が盛んになり、各地から横浜への物産運搬ルートとして、特に生糸や絹製品の運搬の道として絹の道が重要な役割を果たしました。 |
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