| 絹 の 道 を 歩 く |
| 絹の道は、浜街道とも呼ばれた神奈川往還の別称で、八王子市から横浜市を結び、生糸や絹織物が多く運ばれたことから絹の道と呼ばれるようになりました。 江戸時代後期になると、幕府は養蚕を奨励するようになります。庶民の経済力が強まるにつれ、絹織物が好まれるようになり、幕府が養蚕を奨励する以前から蚕都として養蚕、製糸、織物がさかんであった八王子は横山宿と八日市宿で定期的に織物市が開かれていました。 横浜の開港により輸出が増え、絹織物はその花形として欧米へと益々盛んに輸出されるようになり、埼玉、群馬、長野、山梨などから集められた絹織物は絹の道により横浜へと運ばれました。 しかし、明治41(1,908)年八王子〜横浜間に鉄道が敷かれ、絹織物も昭和10(1,935)年頃をピークに減少し、絹の道の役割は終わりを迎えました。 |
1.八日市(八王子市)〜中村不動入口(町田市小山) 2.中村不動入口〜南町田駅(東急田園都市線) 3.南町田駅〜鶴ヶ峰中学校前 4.鶴ヶ峰中学校前〜宮田町二丁目交差点 5.宮田町二丁目交差点〜シルクセンター |
| 1.八日市(八王子市)〜中村不動入口(町田市小山) 平成24年7月15日(日) 晴 |
|---|
甲州街道と東京環状(国道16号線)が交差する八日市交差点(左)に10時27分に到着。ここが絹の道の出発地点で、ここから東京環状を南下します。![]() 寺町(交)を過ぎ、中央線の踏切を渡ると左手に和菓子の青木万年堂があり、早くもつれは店の中へ。 手持無沙汰でボヤ〜と見渡した目に、横浜41q、相模原11qとある歩道橋(右)が写りました。相模原迄11qか、我々としてはこの辺りが関の山だな、何て思いながらつれを待ちます。 程なく「シルクロードって言うのがあったので」、と袋を下げて出てきました。まさに絹の道ですね。 交差点に設置された、「関東武士ゆかりの地散歩図」によれば寺町と呼ばれるだけあって付近には興林寺、本立寺、法蓮寺、観音寺、東源寺とお寺がいっぱい。しかし関東武士ゆかりのどこにも寄らずに通り過ぎましたが。 山田川を渡ると、横浜まで39qポストで登り坂になり、すぐに左手の旧道に入ります。左手に医療刑務所の塀が続き200m程で国道に戻ります。間もなく坂の頂上で、子安町(交)です。 片倉町の切り通しのような坂道を下りながら右手に京王片倉駅を過ぎます。坂を下り切るとバス停片倉城祉があります。右手前方にこんもりとした森(左)が見え、おそらくそこが城址だろうと思われます。 片倉城址は現在公園として整備されているようですが、その片倉城については、室町時代に築かれたとの説があるが定かではない。城主も城が放棄された時期もはっきりしていない。しかし空掘、土塁などの名残があり15世紀後半の中世城郭の形態を示す典型的なものである、とあります。 湯殿川を渡って川沿いに左折します。その先右に左にと曲り、横浜線のガードをくぐって兵衛川沿いに出ます。藤谷戸橋で対岸に渡ると藤谷戸公園があります。 川に沿って進み、次の橋の所で左折、すぐに右折すると右手に水神塔と至子安村、至鑓水村と刻まれた道標があり、この道が古い道であることを物語っています。 ![]() そこを左に曲がると慈眼寺入口です。以前(平成22年1月)、道標はここにあったので、ごく最近に移動したようです。 慈眼寺(右)は第42番武州観世音札所。朱塗りの山門には厳めしい風神雷神像が警護し、由緒は分かりませんがかなり風格のあるお寺です。 ![]() すぐ先には小さな白山神社があり、右手が日本文化大学の白山通りの緩い坂道を上ります。 右手に見えた小さな公園で休憩。朝一番の買い物シルクロード(左)がここに登場です。白山通りを上ると左手に片倉台小学校。校庭では大きな声を掛け合いながらサッカーの練習真っ最中。なでしこジャパンに刺激をうけてか、やけに女の子が目立ちました。 それほど急ではないが上りばかり1qも続けば息は切れ、それに30℃を越す気温も手伝って、さっき休んだばかりなのにもう全身汗びっしょり。隣はと見ると、手の平だけびっしょりだけど身体はそんなに汗をかかないから、とけっこう涼しそうな顔をしています。坂を上り切り国16号八王子バイパスを渡り、バイパス沿いに右に曲がります。300m程行くと左手に急階段があり、それをハーハーと息を切らして登ると絹の道の案内板があります。そこは八王子市を一望(左)できる絶景の大塚山公園の一角です。 涼しい風が吹く峠道を少し行くと、左手に絹の道碑(下・左)があります。この碑から御殿橋際迄の約1.5qの間を八王子市では絹の道として史跡に指定しています。 碑の奥には道了尊跡(下・中)があります。鑓水商人により峠を越える旅人や村人の安全の為に浅草花川戸の道了尊を勧請して創建されたもので、絹の道による流通が途絶えるとともに寂れ、倒壊しかけた道了尊堂は昭和58(1,983)年に撤去されました。更に平成23(2,011)年3月の東日本大震災により周囲の地蔵や石灯籠が倒壊、その後の余震被害を想定し倒れるがままに置かれ、周辺は殺伐とした雰囲気が漂っています。 因みに鑓水商人は、一寒村にすぎなかった鑓水の農民たちが絹織物を横浜に運び、帰りには珍しい西洋の品を持ち帰り、この交流により巨万の富を築いたと言われています。 |
||
![]() 絹の道碑 |
![]() 道了尊跡 |
![]() 倒壊したままの石灯籠 |
絹の道碑の先は下り坂(左)。爽やかな風が吹き抜け、気持の良い峠道です。さっきの急階段から、この峠越えの部分がおそらくこの絹の道全般を通して一番のハイライト箇所になるのではないかと想像します。左手の竹藪の竹と竹が風に吹かれ、カチカチと鳴り、鶯も盛んにさえずっています。しかし折角のせずりをお聞かせできないのが残念です。 坂を下り切ると一般道に出ますが、その合流点に秋葉権現石塔(右)を中央に、左に庚申塔、右には供養塔が置かれています。供養塔には西国、阪東、四国等の文字が読みとれ、建立者は日本各地を巡礼したと思われます。日本各地の寺社に「かきおくもかたみとなれやふで(筆)のあと われ(我)はいずくのつちとなるらん」との落書きが発見されていると聞きました。江戸時代初期のものと推定されるこの落書きは、こういった巡礼達が記念に書き残したらしい。 また傍らには、市指定史跡絹の道説明板も置かれています。 安政6(1,859)年の横浜開港から明治の鉄道開通まで、生糸がこの浜街道を経て横浜へと運ばれた。鑓水には生糸商人が多く輩出され、財力もあって地域文化も盛んとなり、鑓水は江戸鑓水と呼ばれた。 又、なおこの絹の道という名称は昭和20年末に地域研究者により名付けられたものです、ともあり幕末にはもう絹の道と呼ばれていたのかと思っていましたが、意外と最近になっての呼び名でした。すぐ左手に絹の道資料館(左)があります。鑓水の石垣大尽と呼ばれた、生糸商の八木下要右衛門家の見事な石垣だけを残して、当時の雰囲気が伝わるような資料館の建物が建てられています。 屋敷の南隅にあった書院は当時としては珍しい螺旋階段などが設けられ、異人館と呼ばれ多くの外国人をもてなしたようです。 ![]() 休憩所を兼ねた内部には、絹の道とその周辺のジオラマが展示され、養蚕や生糸の流通、そして生糸商人との関係などが詳しく説明されています。 すぐ先に一本の大きなケヤキ(右)に目が止まります。何となく一里塚っぽい雰囲気を醸していますが、この道には一里塚はないでしょうね。 少し先に大栗川に架かる御殿橋があります。八王子市が史跡に指定している大塚山公園までの絹の道の起点になっている橋です。橋の北詰に慶応元(1,865)年建立の道標(左)があり、八王子、原町田、神奈川、大山、津久井などの地名が刻まれています。 大栗川に沿って進み、花嫁にまつわる伝説でもあるのか、嫁入橋という優雅な名の橋を渡り谷戸入口(交)に出ます。 この左手にある永泉寺の本堂は絹の道資料館の、八木下要右衛門家を移築しています。我々は資料館のジオラマを見て、ここに寄ることを確認していたにも関わらず、ついうっかりと素通りしてしまいました。 |
||
![]() 谷戸入口(交)の先に東京都指定文化財の小泉家屋敷(左)があります。 主屋は明治11(1,878)年に再建されたもので、木造平屋建て、茅葺入母屋造り、田の字形四間取りの、多摩地方で古くから見られる典型的な民家建築です。 敷地内には納屋や堆肥小屋、稲荷社、胞衣塚などが点在し、多摩地域の農家の生活を知るうえでの貴重な存在となっています。内部も見学したかったのですが、現在もここで生活をされていて、敷地内へも立ち入るのははばかられました。 すぐの右手、板木会館前には赤い鳥居の小さな祠と庚申塔などの石仏が祀られ、すぐ先には板木名水井戸(右)もあります。「この筧の水は常に涸れることを知らず、不老長寿の名水と知られていた」とあります。しかし、残念ながら今はその面影をとどめませんが。右手の森は鑓水板木の杜で、かって山の中腹からは地下水が湧き出ていて、この水を竹で導いてカメなどに蓄えて飲料水として使用していた。これを筧と呼び、このカメから水が流れ出るようにしたものを遣り水と言い、これが鑓水の地名の由来と考えられています。 また、板木とは伊丹木に由来し、アイヌ語できれいな水の湧き出る所と言う意味です。この付近には諸史跡からアイヌ民族が住んでいたと思われ、この伊丹木が後に板木になったと考えられています。 この先は多摩ニュータウンの中を通ります。途中鑓水公園の脇にここを通り町田街道へと出る絹の道のルート図兼絹の道の解説板が設置されています。小山給水所高架水槽(左)の先で広い一般道に出ると、小山内裏公園を左手に見て八王子市から町田市に入り、小山ヶ丘を下ります。 左手に大きなマンション、右手は小山田端自然公園です。折角の自然がいっぱいの公園なのに「マムシに注意」とあり、これでは子供を安心して遊ばせられないじゃないですか。 さっきの絹の道ルート図にあったとおり、絹の道は町田街道にでる手前を左に曲がります。すぐ先の左手に田端遺跡とあります。広い道路(多摩ニュータウン通り)に出る手前左手です。 縄文時代中期から後期(約4,500〜2,800年前)にかけての集落や墓地、祭祀遺跡が広い範囲で発掘されていて、ここにある環状積石遺跡(右)は祭祀を執り行う宗教的な場でだったと考えられています。 京王相模原線の下をくぐると札次神社標柱があり、やや奥に札次神社(左)があります。素朴な佇まいの札次神社の創建は不詳ですが、由緒は常陸一之宮鹿島神宮を勧請して創建されています。 小山保育園前で町田街道に出ます。左手奥には大きな福生寺が見えます。 左手の小山市民センターの枝垂れ桜は町田市天然記念物です。センターの右手には薪を背負って勉強に勤しむ、二宮金次郎像が置かれています。 はやとちりが小学生だった頃の小学校にはこの像がほぼ全校にあったと記憶しています。あの勤勉家はいったい何処へ行ったのか、何故居なくなったのか。 13時50分、小山駐在所(交)前のガストで遅い昼食です。 ![]() 昼食前から気になっていたのですが、ガストの向かい奥に長い板塀とフェンスがあります。近寄ると敷地端に蔵があるだけで他に建物は見当たらず、広い敷地を塀が取り囲んでいるだけ。これだけ広い敷地から想像して、おそらく元はこの付近の名主とか庄屋だったお宅と推測します。 ![]() 駐在所(交)前を斜め左に旧道に入り間もなく、四つ辻の右手に常夜灯と馬頭観音(右)が、その向かいには普門品供養塔と苔むした石仏(左) が並んでいます。 すぐ先の左手には双体と単身の道祖神と思われる石仏(左)が2つ並んで祀られているなど、この町田街道に沿った裏道には、旧街道らしい面影が多分に残されています。 ![]() 再び町田街道に出ると向かいに中村地蔵尊(右)があります。 中村地蔵尊は宝暦6(1,756)年に創立され、明和4(1,767)年に1体、明和5年5体、寛永9(1,780)年2体、天明2(1,782)年2体、天明3年に2体の計13体が建立されています。建立当時はいずれも大飢饉、大洪水、悪疫などが続発しいて、地蔵尊建立当時の人々の願望は、住民の平安安寧と二世の安楽を祈願しています。 隣には庚申塔、道祖神、馬頭観音などの石仏群があります。多分道路改修などで邪魔にされ、ここに集められたのだと思います。 すぐ先に「ファッションセンターしまむら」があります。「近くにはないから、どんな物があるのかちょっと寄らせて」、と見るだけのつもりだったらしいが、やはり黙っては店を出られなかったようです。 時間もそこそこ、疲れはかなり、ここで今度バス停があったらそこをゴールにしようと決めます。バス停より先に今度は洋菓子店「カンパーニュ」、そしてここもつれは素通りできない。買い込んだなと、2,000円を用意していたら820円だって。驚くほど安いケーキ屋さんです。 ゴールの中村不動入口バス停前のコンビニでアイスクリームを買っていたら、つれがはやくはやくと手招き。まだ時間はあるはずなのに、と思いながらも急いでバス停へ、遅れていたバスが来たのです。慌てて乗車して15時25分、今日の歩数は20,686歩でした。覚悟の上ではあったけれども、も〜れつに暑かった一日にがっくり、車中でアイスクリームをむさぼりながら町田駅へと。 |
| 次の頁 | 絹の道TOP | HOME |
|---|