古代東海道(下総・常陸) を歩く        4. 我孫子駅〜新木駅          平成29年1月29日 (日)   曇時々


我孫子駅に着いたのが午前9時、駅入口信号の八坂神社脇から国道356号線を東に歩き始めます。

すぐ左手に割烹旅館角松本店があります。創業は江戸時代にさかのぼり、明治天皇が宿泊されたという由緒ある高級割烹旅館です。
向かいを少し入った所に大光寺があります。

道なりに左に曲がると信号の下に従是子神道と書かれた、寛政元(1,789)年の道標があります。脇に我孫子の名所を示す案内板があります。本陣跡や加納治五郎別荘跡などと共に杉村楚人冠、志賀直哉、白樺派文学館など文人に関する旧跡がいくつも並んでいます。多くの文人、芸術家が手賀沼周辺の自然に魅せられ、居を構え創作活動を行なったのだそうです。
隣には水戸道中と我孫子宿の町並みと題する我孫子市教育委員会による解説板も設置されています。水戸街道は五街道に次いで重要な街道であったこと、現在地は右に曲がりすぐ左に曲がる枡形道路であること、そして子の神道標及びここから1q程東にある旧村川別荘の母屋は本陣の離れを移築したもので我孫子宿を偲ぶ数少ない資料だ、とあります。、

子の神道標のすぐ先右手に我孫子市教育委員会による我孫子宿本陣跡の標柱が立っています。この付近に江戸時代の参勤交代の時などに大名などが宿泊、休憩した本陣がありました、と簡単な説明がなされています。

本陣跡から50mくらい先の左手に茅葺屋根の家があります。脇本陣小熊家(右)で本陣は姿を消していますが、こちらは貴重な存在です。向かいの木造二階建ての渡辺材木店も旧家らしい雰囲気がします。

その先街道は大きく右に曲がりそこから約400mで二股に分かれます。左は水戸街道、右が古代東海道の追分(左)です。水戸街道を歩いた時はここを左に行きましたが今日は右の古代東海道です。

右に300m程行くと右手に子之神大黒天延寿院→の看板があります。さっき本陣跡近くの子之神道標もそうですが、こちらも子之神大黒天への入口です。

子之神大黒天へと右に曲がるとすぐ左手に金八稲荷神社の小さな祠があります。旧村川邸別荘跡の案内板もあります。

その先、左手に延々と白い塀が続き、その先に子之神大黒天があります。

子の神様は諸病を治し、一切の宿願を叶えてくれると言われます。特に腰から下の病にご利益があるとされ、足腰の病の元となるワラジ、それも金のワラジを奉納(右)します。金のワラジはどんな茨の道でもすり減ることなく進んで行け、ボケ封じにもなると説明があります。

境内の隣に旧村川邸別荘跡があります。水戸道中と我孫子宿の町並みにあった本陣の母屋を移築した村川邸別荘跡です。東京帝大教授だった村川堅固は、我孫子に別荘を持っていた加納治五郎と親交があり、それをきっかけに我孫子に別荘を持ち、大正10(1,921)年に本陣の離れを移築して母屋(下)にしています。
昭和初期に手賀沼干拓計画が持ち上がり、杉村楚人冠、加納治五郎らと環境保全を訴えたそうで、干拓事業が環境悪化につながるのを見越した先見の明があったのだ。

緑の多いここにはメジロの群れが飛び交うは、シロハラが地面をひっかきまわして餌を物色するは野鳥がいっぱいです。

別荘跡から国道356号に戻ります。戻ったそこは我孫子西消防署のやや東で、子之神大黒天へと街道を逸れた所から大幅にショートカットしています。そこにも子之神大黒天への入口の背の高い子之神大権現の道標があります。隣に小さな石塔がありますがこれは何だか。

通り沿いは広い庭のある農家と思われる家が並びます。左手のお宅に幹の太さが40〜50cmはあろうというイチイの木を発見しました。こんなに太く大きなイチイを見るのは初めてです。


左手に最勝院があります。新四国大師道二十七番札所です。門前に如意輪観音と地蔵尊が並んでいます。待道大権現の小さな祠もありますが、待道大権現は初めて目にするものですが何だろう。

しばらく先の我孫子中学校の門を入るとすぐ右に古墳の石室があります。十六世紀後半に作られた、高野山一号墳を移築したもので長さ36m高さ2mの前方後円墳で有力者を埋葬したお墓です。一般的に遺体を収める石棺、石室は一つだけが多いがこの古墳は三つの石棺と一つの石室があり、移築した石室は板石を組み合わせた竪穴式石室で七体の人骨がありました。


天王台駅入口(と言っても、駅は北に700mはあろうか)を過ぎて300m程で右に曲がり、すぐに左に曲がると右手に一里塚(左)があり、数本の大きな木が塚の上に聳えています。水戸街道の一里塚と言うことですが、水戸街道とはさっき別れたんですがね。

道路脇のフェンスにカラスウリがいっぱい絡みついていました。萎びた黄色いウリも一緒にいっぱいぶら下がっていました。その時は気付きませんでしたが、しばらく行ってからハヤトウリだ、収穫しないでほったらかした結果完熟したのだ、とつれが断言します。

左手に成田線東我孫子駅があり、ホームのはずれで左へ向口踏切を渡ります。踏切を渡る手前に新四国大師道の指差し道標があります。南の方を指さしていて側面に日本橋茅場町 魚彦(らしく読める)本店とあります。こんな所に何で日本橋の魚屋さんが建てたのだろう。

踏切を渡りすぐに右折して線路沿いに進み、国道356号線に合流します。左手のお宅の庭には蝋梅と白梅がもう咲いています。右手には防風林風の生垣(右)が広大な敷地ぐるりを囲っています。隣の畑にはポツンと地蔵堂(右)が。

右手にあったファッションセンターしまむらでトイレをお借りします。しまむらさんはどこも入口のすぐ脇にトイレがあるのでお借りするには都合が良い。もっとも、良い品を安く品揃えも豊富だとつれが好んでいる店でもあるんですが。


バス停下ヶ戸続いて岡発戸を過ぎます。それぞれ「さげど」「おかほっと」ですが地名は難しい。

湖北団地入口信号を過ぎて400m程、左手に倒れかかった2つの石柱があります。その奥が八幡神社(左)で、入口にこれもちょっと傾いた新四国大師道二十二番の碑と道祖神があります。拝殿の右手には庚申塔が十数基ずらりと並んでいます。

境内の背の高いイチョウに野鳥のアトリが群れ、アオジやシメなども見つけました。今年はどこへ行ってもアトリが多い。空が真黒になるくらい飛来数が多い年があるそうですが、今年はそんな年なのだろう。

すぐ先左手には都部八坂神社(右)があります。都部は「いちぶ」と読むらしい。
参道左手に都部集会所がありますが、社殿と比べて立派過ぎる集会所です。
狭い境内に庚申塔、青面金剛と書かれた庚申塔、二十三夜塔などが一列に並んでいます。

さっきの八幡神社と比べるとこっちの方が緑は多いように感じますが、ここでは小鳥のさえずりは全く聞こえません。


湖北入口バス停を過ぎた信号の下に享保十七(1,732)年の庚申塔(左)があります。邪鬼を踏みつける六臂の青面金剛像で、邪鬼の下の三猿は三分の二が土中に埋もれています。

その右手にあったラコッタで昼食です。ピザとパスタの店で、それぞれにパスタ、それにピザ一枚を分け合い、12時20分に午後のスタートです。

歩き始めてすぐに中峠バス停があります。これは「なかびょう」と読むらしい。それにしても難しい読み方の地名がどんどん登場します。

左手に長光院のある信号を右折してすぐに左折した所に伊勢山天照神社(右)があります。椎の大木が枝葉を目いっぱい広げ昼間なのに社殿前は薄暗く夕方のようです。
案内板によると、草創は古く景行天皇の御代とあります。景行天皇の御代とはいつなのか帰ってから調べますと、西暦71年〜130年と確かに大昔です。
大日霊売姫(おおひるめのみこと)を祭神とし、下総国中相馬七郷(岡発戸村、都部村、中峠村、中里村、古戸村、日秀村、新木村)の総鎮守だそうです。

拝殿の左手にある天正9(1,581)年の二十一仏武蔵石板碑は我孫子市指定文化財です。石碑の正面に二十一の釈迦、菩薩、不動明王、観音などの名を刻んだ石の卒塔婆です。しかしこの板碑は表面の風化が激しくて文字が全く見えません。


国道356号線に戻り先に進むと成田空港36qの標識がありました。
湖北駅入口信号を過ぎると左手に龍泉寺があります。左手に新四国七十六番の石柱が建っていて、その奥境内への入口は鉄の門扉がぴったりと入山を拒んでいます。

その先、郵便局の少し手前の押し釦の信号を右に曲がり道なりに行くと左手に立派な長屋門(左)があります。
少し先の右手に北向薬師堂(右)があります。隣の解説板によると正式な名称は中里薬師堂らしい。
我孫子市指定文化財の薬師三尊像及び十二神将が納められています。薬師三尊は薬師如来と日光菩薩、月光菩薩の三尊を言います。薬師如来は衆生を救うために十二の大願を立てて仏陀となり日光、月光両菩薩は薬師如来を補佐する役割です。十二神将は薬師如来の十二の大願に対応して薬師如来を信ずる人々を守護するとされています。
十二神将が十二体揃っているのは我孫子市内ではここだけで貴重なものだそうだ。

同じ敷地内に子安地蔵堂もあり、如意輪観音や青面金剛と書かれた庚申塔など石仏石塔もずらり並んでいます。

先に進み、成田線を石井踏切で渡りすぐに左折して線路沿いに東へ歩きます。300m程も歩いただろうか、右手の畑の中に小さな馬頭観音(左)をつれが発見します。畑に入る細い道が右手にある所だが、こんな小さいのをよくぞ見つけたものだ。

成田線に沿ってしばらく、右手に千葉県立湖北特別支援学校があります。そのフェンス際に相馬郡衙正倉跡(日秀(ひびり)西遺跡)の解説板があります。古代の日本は東北から九州までの行政区分として60の国があり、国は複数の郡に分けられ、国の中心には国府が置かれ郡には郡衙(ぐんが)という役所が置かれていました。
相馬郡衙跡は不明だったが、湖北高校建設地(現湖北特別支援学校)の日秀西遺跡発掘調査により多くの建物遺構が確認され、配置から相馬郡衙の中核的な施設である正倉と推定されました。正倉は徴収した米を飢饉などに備え貯蔵しておく施設です。

湖北特別支援学校の正門からちょっと覗いた校庭は羨ましいくらいに広く、庭木も綺麗に剪定されていました。学校の敷地沿いを右折し道なりに市営住宅を左に回り込むと左手に将門神社(右)があります。
由来は天慶3(940)年、平将門が戦死するや、その霊が対岸から手賀沼を騎馬で渡り湖畔の丘の上で旭日を拝したと言うことから村人がその地日秀に一宇を奉祀した。境内のケヤキの梢では20〜30羽のカワラヒワが飛び交いながら囀りまくっています。

将門神社の先に将門の井戸の案内板があり、そこを右に坂を下ると途中左手に将門の井戸があります。将門が開き軍用に供したと伝えられる井戸は今は水も枯れさほど深くない凹みがあるだけ。訪れる人も少ないのだろう「将門の井戸」と書かれた標柱の文字はかすれ頭の部分は腐っています。

戻って将門の井戸案内板の先へ行きます。古代東海道はすぐ先を右に曲がり畑の間を通っていたようです。案内板はないがそれと思われる所を右に曲がり畑の間の道をしばらく進みましたが、いっこうに案内板は姿を見せないし、地図にもこんな畑の中の道は記されていません。そんな状況で先に進むのを不安視した二人は元の道に戻り日秀踏切で成田線を渡り国道356号線に出ます。

国道に合流する左手に観音寺があります。二十九番新四国大師堂があり、その右手に一番下の「道」だけが読める道標らしき石柱や二十三夜塔、如意輪観音像の十九夜塔、庚申塔など石塔がずらりと並んでいます。

国道を右に曲がるとすぐ左手に地蔵院があります。新四国八十八箇所二十五番札所です。

少し先左手に葺不合神社(ふきあえずじんじゃ)の一の鳥居が国道に面してあり、鳥居脇には石塔、石仏がたくさん置かれています。鳥居をくぐり鬱蒼とした森へと石段を下ると二の鳥居があり、そこから今度は石段を上ると拝殿(左)があります。
葺不合神社は、江戸時代には市杵島比売命(いちきしまひめのみこと=弁財天)を祀り「沖田の弁天さま」と呼ばれて賑わった。明治になり厳島神社と改名、さらに葺不合神社本殿と二の鳥居がこの地に移り合祀して葺不合神社と改称しています。本殿、拝殿及び二の鳥居は我孫子市の文化財に指定されています。
拝殿の彫刻は江戸時代中期のもの。裏手の本殿は明治30(1,897)年の建立で、八岐大蛇や天岩戸など神話を題材とした胴羽目彫刻は江戸時代から続く彫物大工の系統の作だそうです。

新木駅入口信号を過ぎた左手に新四国大師道の石柱がありました。その先左手に長福寺があります。入口左手に榊八幡大菩薩のお堂があります。新四国大師堂は八十一番札所で小さいお堂ですが彫刻が見事です。境内では大勢の人が大掃除をしていてウロウロ歩き回るのは迷惑だろうし、また我々を興味深めに眺めてもいて恥ずかしくもあり本堂前まで行けずに引き返します。

長福寺を出た国道のすぐ右手にある新木駅を今日のゴールとしました。午後2時10分、21,233歩でした。

帰宅後この先を検討すると地理的に交通の便がものすごく悪そう。また先を追おうにも頼みの地図が大雑把なのっきりなく、悩んだ結果この街道はここまでで断念することにしました。


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