古代東海道 を歩く        8. 三河島駅 〜 鐘ヶ淵駅      平成28年10月30日 (日)   曇


今回の旅で常磐線が東海道線の品川駅迄乗り入れていることを知り、早速それを利用。新橋駅で常磐線水戸行きに乗り換え、今日のスタート三河島駅に9時55分に着きました。駅を出て常磐線の線路沿いの北側の細い道を西へ向かいます。飲食店が目立つ、夜になったら活気が出てきそうな感じがする通りだ。

しばらくして明治通り横断、すぐ先で都電荒川線を渡ります。荒川一中前駅のすぐ脇の踏切で、すぐにジョイフル三ノ輪商店街のアーケードをくぐります。右手に中島(なかのしま)弁財天(左)が祀られています。伊勢亀山藩石川家下屋敷内にあった弁天池の中之島に祀られていた弁財天は大正時代に石川家下屋敷だった跡地に創業した、弁天湯の中庭に移された。弁天湯は、関東大震災にも耐え都内最古級だったそうですが東日本大震災で甚大な被害をこうむり閉業してしまったそうです。

弁財天から少し戻り左に曲がると八百屋、果物屋、惣菜店、洋品店などが並ぶ活気にあふれるジョイフル三ノ輪商店街です。その商店街の中程左手の瑞光公園に石川家屋敷跡の説明板があります。前述の通り、伊勢亀山藩石川日向守下屋敷跡で、万治元(1,658)年には10,530坪、寛文5(1,665)年には、11,050坪と広大な敷地に屋敷や庭園が造られていたそうです。

商店街のはずれ近くの右手が都電荒川線三ノ輪駅で駅前に宗屋敷跡の説明板があります。対馬藩宗対馬守下屋敷跡で、石川家下屋敷跡よりはやや狭いがそれでも、8,100坪の広さだったそうです。

商店街を抜け昭和通りにぶつかり右に曲がります。すぐ先の右手は三ノ輪橋商店街入口で、路地のような狭い商店街を抜けた先に三ノ輪駅があります。
常磐線を潜ると右手に三ノ輪橋の説明板があります。三ノ輪橋は音無川が現在の日光街道と交差する所に架けられていた橋で、音無川が暗渠になった今は都電荒川線の駅名にその名をとどめています。

案内板の所を左に入ると浄閑寺の塀に沿う道で、塀伝いにぐるっと回り込むと音無川と日本堤の説明板があります。音無川は現在は暗渠になっているが、石神井川から分かれ日暮里から三ノ輪橋、浄閑寺の西側に沿い山谷掘りを経て隅田川にそそいでいた。音無川に沿って三ノ輪から聖天町まで続く土手を日本堤と呼び新吉原への游客で賑わった、とあります。江戸時代の不夜城吉原が近いんだ、と地図をじっくり眺めるとありました、ここから500m程南に吉原大門信号交差点が、土手道と呼ばれる通りも発見しました。

浄閑寺(右)の門をくぐります。明暦元(1,655)年創建の寺ですが、本堂にコンクリート建物がくっ付いていて、「お寺としての情緒は無いな」が境内に足を踏み入れての感想です。
安政2(1,855)年の大地震の際、多くの新吉原の遊女が投げ込み同然に葬られたことから、投げ込み寺として有名です。境内裏手にある新吉原総霊塔は安政の大地震も含め、ここに葬られた吉原の遊女たちを供養するためのもので、いつ建立されたのかは分かりませんが、昭和38年の花又花酔による「生まれては苦界 死しては浄閑寺」の川柳が刻まれています。
さして広くない境内に、侠客濡れ髪長五郎、本庄兄弟首洗い井戸、小夜衣供養地蔵、三遊亭歌笑塚、永井荷風文学碑他多くの史跡があります。残念ながら知らない人ばかり、有名だそうな遊女若紫の墓もありますが、この遊女の名もここで初めて知ります。

戻って常磐線に沿って行くと何やら行列ができています。うなぎの「尾花」の店先で、開店の11時30分にはまだ30分もあるのに。ずいぶん人気のある店だなと思い後で調べたら有名なうなぎの老舗でした。
南千住駅近くで広い道にぶつかると左手に回向院があります。寛文7(1,667)年に本所回向院の住職弟誉義観(ていよぎかん)により、行路病死者や刑死者を供養するために開いた寺で当時は當行堂と称した。安政の大獄により刑死した吉田松陰、橋本左内等の墓や、鼠小僧や高橋お伝、直侍といった者たちの墓を日光街道に次いで二度目のお参りです。

解剖図ターヘル・アナトミアの正確性を確認するため、小塚原の刑死者の解剖(腑分け)に立ち会った蘭学者杉田玄白、中川順庵、前野良沢等により解体新書が明和8(1,771)年に翻訳され日本医学史に大きな功績を残し、観臓記念碑が大正111年に建立されています。

隣は延命寺です。小塚原刑場の隣接地に創建された回向院が常磐線で分断され、回向院と延命寺に分離独立したそうで、刑場だった当時は野良犬やイタチが死体を食い荒らし、また悪臭がする酷い状況だったらしい。

南千住駅西口に奥の細道矢立て始めの句を詠む芭蕉像(左)が建っています。
元禄2(1,689)年3月27日松尾芭蕉はここ千住の地から奥の細道へ旅立しました。「千住というところで船をあがれば前途三千里の思い胸にふきあがり幻のちまたに離別の泪を注ぐ、  行く春や鳥啼き魚の目は泪   これを矢立て始めとして行く道なお進まず、人々は途中に立ちならびて後かげみゆるまではと、見送なるべし」 奥の細道、と記されています


駅東口に出て、昼食にします。一度は食べたいと思っていた「王将」のギョーザとラーメン。


隅田川駅脇の貨物線の線路沿いを歩き始めたのが12時ちょっと過ぎ。線路が途切れる所で広い道路にぶつかり左折、すぐ先を右折した通りはけやき通り(左)。街路樹のケヤキは赤や茶、オレンジとさまざまに染まり緑も混じって実にきれい。

右手の汐入中央公園でジョイフル三ノ輪で買った、みたらし団子を遅いデザートとしながら休憩です。すぐ先の水神大橋で隅田川を渡ります。橋の名は隅田川神社が水神様と呼ばれ親しまれていることに由来します。
先ほど休憩した汐入中央公園からずーっと右手に追いかけてきているスカイツリーが隅田川の橋の中央からは更にはっきりと見えます。スカイツリーの左隣にものっぽのビルが見えるがはたしてこのビルは。

隅田川を渡り右に行くと梅若伝説の木母寺があります。
梅若伝説とは、平安時代の中頃、琵琶湖のほとりで梅若という男の子がかどわかされ、売られるために人買いとともに奥州へと向かいます。途中隅田川畔まで来た時に梅若は長旅の疲れから病に倒れてしまいます。人買いに置き去りにされた梅若は村人達の介抱もむなしく12歳の生涯を閉じます。村人は塚を作り梅若の菩提を弔います。梅若が連れ去られたことを知った母親花御前は狂女なり我が子を探しまわり、隅田川のほとりまで来て梅若の死を知ります。塚の脇に庵を結び菩提を弔っていたが、悲しみに耐えきれず水に身を投じた。

境内に梅若塚その隣に梅若堂があります。梅若堂は梅若の母が建てたと伝えられていて、現在の堂宇は昭和22年に建立されています。
木母寺は天正18(1.590)年徳川家康により、梅若塚とそこの柳の木に因み、梅柳山の山号が与えられたそうです。梅若伝説に徳川家康が絡んでくるとは思いもよりませんでした。

木母寺の先に隅田川神社(右)があります。社伝によると治承4(1,180)年源頼朝が平家打倒の挙兵をし下総から武蔵に入る際、隅田川に仮橋を架け、社殿も造営したのが始まりと伝えられます。水神の森跡説明板によると、この付近は隅田川が海に流れ込む地点の「江ノ口」から「江戸」の語源になったと言われます。かっては鬱蒼とした森が広がる水神の森は川岸の水神社(隅田川神社)の森で、川を行き来する舟人の目印の森となっていました。
狛犬ならぬ一対の亀が社殿を守っているのは、この説明のとおり隅田川神社が水神社と呼ばれ船乗りたちの崇敬を受けている関係からだろう。

神社の入口に隅田川宿跡説明板もあります。古代東海道の渡河地点で平安時代の末頃には隅田川宿が成立していたと考えられる。治承4(1,180)年に源頼朝が布陣したと伝えられ、元来は江戸氏など中世武士団の軍事拠点だったと考えられる、などと説明されています。

神社から墨堤通りに出ると隅田川神社の鳥居があり、鳥居と少しずれた位置に隅田川神社参道跡碑があります。先ほどの水神の森跡説明板に震災、戦災を免れた水神の森は戦後の開発で失われ、隅田川神社も100m程移動した、とありましたが、ここがその移動前の参道口だろう。

通り沿いの白鬚東アパートには、梅若門とか水神門などがあり、墨田区が梅若伝説を大切にしていることがうかがえます。そのアパート脇の梅若公園榎本武明像が建っています。榎本武明が晩年を向島で暮らしたことから建立されたようです。
公園の奥にレンガで囲われた一角があり梅若塚碑があります。かってここにあった梅若塚は昭和51年に木母寺境内に遷座しています。

墨堤通りに葛飾北斎富嶽三十六景の「隅田川関谷の里」図があります。天保2(1,831)年頃のこの付近を描いた作品です。一軒の家もない草原と田んぼが広がる土手道を疾駆する三頭の騎馬と土手脇の松のかなたに富士山が描かれています。

墨堤通りを横断し梅若公園の向かい付近を左折して東に向かいます。商店街を抜けると東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅があり、駅前に「武蔵下総を結んだ古代東海道」と題した古代東海道説明板があります。
古代東海道はこの先で荒川を渡り、まだまだ続きますが、この先はかって歩いた鎌倉街道下道と同じルートになります。そこで我々の古代東海道武蔵編ゴールをここ鐘ヶ淵駅と決めました。時刻は午後1時30分、今日は11,532歩でした。


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