| 水 戸 街 道 を歩く | 茨城東高校前バス停から 平成23年3月11日 (金) 晴 | |||
| 今日の出発は早い。特急を利用しない経費節減主義にもよるものですが。横浜駅を5時57分発の京浜東北線で日暮里へ、石岡駅に8時15分に着きます。常磐線はサラリーマンや高校生が駅毎に乗り降りして結構混雑しています。 石岡から水戸へのバスは8時40分を逃すと次は10時台までありません。その為に朝早く出ざるを得なかったのも理由の一つなのですが。 石岡駅前からバスに揺られること約20分、時間のわりには大枚750円も取られ、茨城東高校前に9時11分に到着します。 |
![]() ![]() 茨城東高校前バス停の少し手前に千貫桜碑(左)があります。 かってここに水戸光圀公が「千貫の価値がある」と称賛し、終日愛でていた桜の巨木があったそうです。 春風も心して吹け散るは憂し咲かぬはつらし花の木のもと(定山詠草より)の歌碑も隣にあります。 碑の脇から奥に桜並木(右)が続いてますが、この千貫桜を記念しての桜並木だろうと推測します。 ![]() 奥谷跨道橋で東関東自動車道を越えてしばらく、国6と県道とが分岐します。旧水戸街道は鉾田、小鶴、奥谷方面の左へ行く県道です。しかし右手の側道風の道(左)を進めば、国6を跨いでくる県道と自然に合流します。(この説明分かるかな?) すぐに桜ケ丘団地入口バス停があります。 ![]() 奥谷坂上(交)を過ぎた左手に御霊神社(右)があり、境内には稲荷神社や香取神社、御作神社、愛宕神社などが祀られています。 石岡駅で始末しなかったことが原因で、腹具合が国道と分かれた頃から騒いでいます。地図で見当をつけた茨城町役場(左)までだましだまし来ましたが、役場が見えた途端に我慢のタガが外れそう。取るものもとりあえず役場の中に。茨城町役場様お世話になりました。 左手に涸沼川改修記念碑があった涸沼川を高橋(右)で渡ります。 ![]() ![]() 小鶴(交)で左の旧道に入ると小鶴集落。宿場ではないんですが趣のある家が数軒。 佐久間米穀店(左)は御殿のような店舗に亀甲模様のなまこ壁の蔵があり、二階の窓には唐破風の小さな屋根が付いています。 ![]() 3軒程先のこどもや(右)は府中宿(石岡)で覚えてきたばかりの石造りの看板建築で、おもちゃと文房具の店。旅館中多屋は建物は新しそうですが老舗らしい風格が漂っています。 火の見櫓の下で小さな橋を渡り、右にカーブしながら進みます。左手の諏訪神社は石造と木造の二つの鳥居(左)をくぐった先にまだ急な石段が控えています。歩きばかりで元気な二人はまだ、こんな石段は一気に登れます。 ![]() すぐ先の右手には稲荷神社があります。 続いて左手に天台宗の如意輪寺があります。龍谿山の山号に因んでのものか、本殿には赤と青の色鮮やかな龍の彫刻(右)が施されています。 ![]() 左手に我々だけが呼んでいる、「お城のお宅」を過ぎ、涸沼前川を長岡橋(左)で渡ると小鶴(交)で別れた県道に戻ります。 そしてすぐ先の信号で再び県道から右手の旧道に入った長岡坂下はもう長岡宿です。 |
長岡宿 緩い坂を登ると右手に、「木村家住宅↑」「水戸浪士毛塚→」の案内板があり、水戸浪士の毛塚に行こうと右に曲がります。すぐだろうと思っって曲ったのに、それらしい気配は全くありません。心配になってJA水戸茨城支店で確認するとまだ先だとのこと。右折してから500m程はあっただろう、左手に「楠公社、水戸浪士毛塚」の案内板が現れ、そこを左に坂を登るとようやく楠公社(左)があります。 ![]() 尊王の大義を唱え桜田門外の変に決起した正義の士14名は長岡宿に屯集し髪を断った。この毛髪を長岡の一隅から移して、鎮魂の社として創建されたのが楠公社です。 楠公社は水戸百景のひとつで、遠く秀峰筑波山を望む高台に位置している、とある通り彼方に筑波山(右)が春の日に霞んでいます。 ![]() 街道に戻って坂を上ると左手の作業小屋なのか倉庫なのか、珍しい模様のなまこ壁(左)を見つけました。人という文字を連ねたような。 その向かいの細い道を入ると 高岡神社(左)があります。長岡神宮寺の杜に鎮座する高岡神社は、平安朝一条天皇の御代、長徳元年(995)に創建されています、と創建壱千年祭記念碑にある、それは古い神社です。 坂を上り切ると長岡宿の中心部のようです。左手の水野家は庭木が見事で、その奥に風情ある草葺の門(下・左)が見えます。 木村家(中)は脇本陣で問屋場も兼ねていた庄屋で、茅葺の建物は安政4(1,857)年の大火で焼失しその後に建てられています。 茅葺の脇本陣は我孫子宿でも目にしましたが、大切にして欲しい珍しい貴重な建物です。 衣料品店みくらやは中えびす屋の屋号で旅籠を営んでいたらしい。吉村昭氏の桜田門外の変に登場する大蛭子屋がここだろうか、水戸尊攘過激派が屯集し血気にはやり切り付けた刀傷が柱に残っているそうです。 みくらやの脇を入ると長岡小学校です。茨城町長岡宿商工振興会発行の「陸前浜街道長岡宿散策マップ」によると、江戸時代にはここに本陣が置かれ、江戸末期から明治6年頃までは水戸公旧殿舎になっていたようです。 余談ですがこの先、国6と合流する手前の(株)祐吉で水戸街道に関するいろいろ話を伺い、このマップの存在を知りました。商工振興会に電話をしてこのマップを手に入れたら良いと言われその気になっていましたが、とてもその程度の事で電話をできる状況ではなくなってしまいそのままになっています。 柏屋肥料店(右)は建物も塀も黒で統一した重厚な建物です。すぐ先に八塚稲荷神社があり、と言っても赤い鳥居の前を通り過ぎただけですが。向かいは長岡公園です。 |
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![]() 水野家門前 |
![]() 木村家 |
![]() 柏屋肥料店 |
![]() 左手に報恩碑(左)があります。 遠目が利くつれが「最初は木村婦人って書いてあるよ」。木村婦人の報恩碑とします。 ![]() 長岡十字路の右手に二本の欅が。ここを過ぎると近代的な住宅ばかりが目に付き、どうやら宿場を外れたように思えます。 右手に馬頭観音(左)が二基。今日初めて出会う石仏です。前方に国6号が見えると左手の事務所二階からおいでおいでと手招きする男性がいます。前述の(株)祐吉の・・・社長さん?。 ![]() 最近水戸街道(陸前浜街道)に関心を持ち、いろいろ調べているそうで毛塚のことや、みくらやの刀痕とか、水戸の入口は処刑場が多く、入ってくる人を恐れさせていたなどなど見識の一端を披露して下さいました。 国6号に合流すると向かいのスーパーセンターに、ファストフード店の看板がいくつも見えます。車を洗っていた若い方に、「どこで渡るの?」。はるか先の信号を指差しながら「でも、だいたいここを渡っていますね」。その言葉に意を得て国道を横断しバーミヤンの客になりました。 国6号で矢頭南(交)を過ぎ、北関東自動車道(右)を越えると矢頭団地入口(交)を過ぎます。 |
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水戸へ ![]() 左手の浅井家千住院不動尊を過ぎるとすぐに水戸市(左)に入ります。 ![]() 水戸に入った最初の信号、東野町で左の旧道に入り、しばらくして今度は吉沢信号の二股を右に入ります。 右手お無縁仏墓所には卒塔婆が立ち殺伐とした雰囲気(右)が漂います。先程社長にレクチャーを受けた処刑場跡だと直感します。 ![]() 右手の熱田神社(左)は、しだれ桜が参道に覆いかぶさり、間もなく一年中で一番美しい季節を迎えようとしています。 境内の片隅には天明と刻まれた二十三夜塔など古い石仏達が並んでいます。 ![]() 吉沢中央バス停を過ぎた左手には、洋風の奇抜な家が、吉沢小学校はオレンジ色の屋根が目立ちます。 吉沢家の樹齢150年と推定される大欅は県の保存樹。吉沢町の吉沢家。昔の庄屋か名主だったのでは。 右手の天満宮(右)は数本の杉木立の奥にあり、つれが杉の枝を軽く揺すると黄色い粉が煙のように舞い上がります。花粉症の方にはつらい季節の到来らしい。 あんなに晴れ渡っていた空に急激に雲がのさばり、少し風も出てきていやな雰囲気を醸し出したのが2時12分。朝の天気予報では「今夜は所により一時雨が降るかも」、あたって欲しくないのに。![]() 一里塚下町バス停を過ぎるとすぐ右手に一里塚跡(左)があります。推定樹齢100年の県指定保存樹、榎の大木が直立する小さな塚とその前に庚申塔、馬頭観音、六地蔵が祀られる賑やかな一里塚です。 向かいの庭にも植木の陰に一里塚碑が垣間見られ、一対となって残された一里塚です。 一里塚バス停を過ぎたすぐ左手の信号下には道祖神(右)が祀られています。 ![]() 吉田小南(交)を渡り右手にある金山稲荷神社(左)で一休みです。 もう水戸街道のゴールまでは2qを切っています。 ![]() 吉田小を過ぎてしばらく、Y字路を左に行きますが、交点に牛馬頭観音碑(右)が置かれています。 以前にもあったんですが、そこでも文字碑、是非牛馬頭の御尊顔を拝したいと思っております。 ![]() 元吉田町で、右に曲り直ぐに左に曲って枡形(左)を抜けると伊藤家で庭に旧吉田村立吉田小学校跡碑(右)があります。 ![]() 明治6年創立の小学校跡地です。 左手にあった藤田流舞踊会館の先は県道により街道が寸断されていてやや右の元吉田十字路(交)で横断します。 |
| 大震災に遭遇する 元吉田十字路(交)の右手には旧吉田村の庄屋だった綿引家があり、そちらに向かいます。 その時、地面を突き上げるような激しい揺れと同時につれが「お父さん地震よ」と叫ぶ。足元がおぼつかないなか高い建物から離れ、幸いにしてすぐ脇にあったフェンスにしがみつき激しい揺れに耐えます。その瞬時に周辺の屋根瓦が崩れ落ち、空に舞い上がる土埃があたり一面をセピアカラーに変色させ日本沈没が脳裏をよぎりました。わずか2〜3分の悪夢の出来事です。 建物と言う建物からは人が飛び出し、ある人は座り込みまた茫然と立つくし、誰もが何をする事もできず不安の表情で虚空を見上げています。 すぐに携帯で娘に連絡を入れたが、圏外の文字とプ―プ―と空しい音が聞こえるだけ。つれと二人あちらこちらに連絡をとろうとしたが全て駄目。 少し落ち着いてそばに居た人から情報を得ようとしましたが、誰も同じようにまだ何の情報も持っていません。向かいのコンビニは電気が消え、ガラスが割れて商品が散乱し、地震の後にテレビで見るあの光景を一段と悪くしたような状態で、「怖くてとても入れない」と店の方は。 ![]() ![]() まったく情報はありませんが揺れもおさまり、一区切りと思い江戸末期に建てられた藁葺屋根の綿引家住宅(左)にカメラを向けます。母屋と蔵が県指定文化財に指定されている建物ですが、塀の外一面には飛び散った藁屑だらけ。 この時点ではまだ事の重大さを認識していない暢気な二人は気を取り直して先に進みます。野木神社は大同元年(806)創建の古社で、境内の北向き地蔵(右)は無残にも横倒し。 水戸街道は台町で右に左にと曲る枡形になっています。ここで再び地面を突き上げるような激しい揺れに襲われ、道端の目に付いた物に必死に掴って身体を支えます。Dクリニック前に集まっている方から再び情報を得ようとしましたが、クリニックの損傷具合からそんな事を聞くこともはばかられます。 ![]() 随所に惨憺たる情景が見られますが、とてもシャッターを押す心境にはなれませんでした。 この状況から水戸が一番ひどいのだろうと思っていました。しかしカーラジオを聞いている方からの情報だとまだ此処は良い方だとか。 震源も宮城だ福島だ震度は7だ、6強だと情報は輻輳していますが、もはやのんびりと街道を歩いている状況ではなさそう。 狭い道路は危険。再び揺れが来ないうちにと広い道路、駅南中央通りに出ます。そして一縷の望みを託し今日の宿に急ぎます。しかしその通りでも近代的なビルの窓ガラスが歩道に散乱し、高い所から今にも崩れ落ちてきそうな塀が見え決して安全ではなさそうです。途中にあった公衆電話で自宅近所の家に連絡が取れ、かなり揺れたけれど隣近所とも異常がないことがわかりやや安心します。 泊まる予定のビジネスホテルは支配人が外に避難して、とても宿泊どころではないと断言。水洗が使えないとも知らずトイレだけでもと、中に入って惨状を目にしていた時に再び激しい揺れがあり、ほうほうの態で表に飛び出します。 |
| かくして今夜の宿は絶望、水戸駅に避難していた人も駅舎が損壊して退避指示を出されたとのこと。常磐線が動くはずもなく帰るにも帰れなくなります。 幸いに水戸市役所が近いので善後策を授かりに足を運びました。しかしこの市役所も敷地が地割れしていたり、盛り上がっっていたり相当な被害を被っています。職員の指示に従って市役所前の公園で待っていましたが、1時間経っても更に30分経ってもなしの礫。それはそうでしょう、職員は多くの人の対応に忙殺され、電話も通じないさなかでわざわざ連絡には来られなかったのです。 ![]() 市立千波小学校が避難所とのことで、同じ公園に避難していた方たち数人と共に市職員の案内でそこへ向かいました。もう真っ暗で、車のヘッドライトだけが灯りだけの夜道を20数分。 しかしここは避難所ではなく、帰れなかった児童が引き取りに来る親を待っているだけとのこと。市もかなり混乱しているらしい。今度は千波中学校(左)だと、街灯も民家の灯りも、ネオンも看板の明かりもない真っ暗やみの中、隆起したり陥没していたりする悪路を、再び20数分中学校まで引率されて行きます。やはり指示されて小学校に来たという方々と総勢20人程がぞろぞろと。 そんなさなか、真っ暗闇だからこそか、つれは「星が綺麗」と、ロマンチックな夜空に見入っていたそうです。 真っ暗な千波中学校多目的ホール(翌日になって分かったのですが)には、すでにかなりの人が避難しています。そこに割り込んで場所を確保し、ひとまず落ち着きます。すると今まで夢中だったからか、気にならなかった寒さを急に感じます。多少ましな防寒対策をしているはやとちりでも寒さが身に凍みるのに、春物のオシャレをしてきた一般の観光客の方には気の毒なくらいです。暗い中、目を凝らすと毛布を被った人も大勢います。後で分かったんですが地元の方も避難していて、こういった方は自宅から防寒対策品を持参していたんです。 余震の不安と寒さから寝るどころではない状況に、やっと毛布が配られたのが夜中の2時頃。有難いがそれも全体的には二人に一枚程度。段ボールを敷いて毛布を被って横になりますが、寒さをしのぐには焼け石に水。 余震におびえながらほとんど寝れなかった夜が明けると、昨夜一緒に避難してきたグループがいつの間にか一箇所に集まります。滅多にない恐怖を体験したからか、ほんの少し一緒に居ただけなのに、特殊な仲間意識が芽生えたんです。持っているお菓子などのやり取りをしながら。 昨夜の夜食はその仲間から頂いたおにぎりが一個だけ。朝は市から塩味の効いたクラッカーが一人に一個(20枚入り)が配られました。しかし、興奮しているのか緊張しているのか食欲はあまりありません。こんな物を貰う羽目になって涙が出たと、つれは後に述懐しています。 学校の2階に公衆電話があり長い行列の末、娘と連絡が取れ無事を報告。この後2度程連絡しながら言いたいことだけ言うと電話を切ってしまい、次に掛けた時(もう午後ですが)「どこに居るのか言え」と叱られる始末。 やることもないし水戸駅迄様子を見に、あわ良くばタクシーでもあればと思って出かけました。でも、タクシーは朝から並んでいても一台も来ない状況らしい。水戸駅に通じる、駅南大橋際の道路は凄まじい亀裂が入り恐ろしくて渡れたものではなく、コンビニに長い列を作る人の群れを眺め、カーショップの粉々になったショーウインドウの悲惨な状況を目にし何の収穫もなまま、むしろ益々悪くなる情報だけを持って避難所に戻ります。 午後に電気は通じます、でも水道はまだ、昼もクラッカー。「次はおにぎりが配れると思います」と市の職員が報告。3時頃だったろうか厚木市からの支援物資が届き、これがお湯を注ぐとおかゆになる久しぶりの暖かい食べ物で子供たちは「チョ〜美味い」と大喜び。大人だってみんな美味しく感じたらしい、そう言うはやとちりも厚木市に感謝しつつ。 でも中には、次はおにぎりだと言ったではないか、と感情的になっって職員と小競り合いを起こす場面も。米が集まらなかったらしい。 この時点で一番の悩みはトイレです。次から次へとトイレを利用するが、全く水が流れない水洗トイレの状況を想像して下さい。この時は昔の汲み取り式があればと痛切に感じました。段ボール組立て式簡易トイレが設置されたのは翌日未明のことです。 ![]() 携帯電話が使えるようになると、つれが持っていた充電器は引っ張りだこ。いつもは持っていないのに何となく持ってきたという、殊勲賞ものです。 夜は安心米(右)、これはおかゆではなく普通のご飯。避難所の受け入れ態勢が徐々に整いつつあることを感じながら、2回目の夜を迎えました。 「常磐線は動いていないから、明日早く出て小山まで歩いて宇都宮線に乗るか」と相談を始めたのが、町田市のご夫婦。小山まではたっぷり60qはあるだろうこの相談には乗れないはやとちりです。 そんなこんなとごたごたしている時に娘から「道路は通れるの?迎えに行くって言ってるけど」。子供どおしで連絡を取り合い、道路次第では息子が迎えに来てくれるらしい。もう東京から迎えに来た人もいるし、道路は大丈夫らしい事を報告します。 そして明けた翌日、9時前に息子が到着、3時半頃に出て狛江市から約6時間かかったと。とんぼ返りの強行軍で申し訳ないが、小山まで歩く覚悟をしたご夫婦共々、異常な体験を強いられた水戸から脱出することができました。 一昨日からの仲間を始めまだ多くの人が避難所に残り、この先いつまでここに留まるのかと思うと、申し訳ない気持もありましたが。 水戸街道を完歩できず、観梅も納豆にもお目に掛からなかった水戸ですが、「もう二度と水戸には来たくない」と言う、つれの心の傷が癒えるのを待って、いつの日か水戸街道を完歩すべくリベンジしたいと思います。 |
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