| 日光壬生道 を歩く | 5.文挟宿 から 今市追分 平成26年5月10日(日) 晴 | |||
家を出たのは朝6時30分、宇都宮でJR日光線に乗り換えます。見るともなく見た車内は日本人より外国人観光客が多いようだ。日光が世界的に知られた日本を代表する観光地であることの証だろう。文挟駅に着いたのが9時55分、家を出てから3時間30分。これから歩こうと言うのに疲れた。![]() ![]() 歩き始めた杉並木街道(左)は車の往来はかなりありますが、ガードレールがあってまぁ危険を感じずに歩けます。 300m程した文挟信号の右角に道標があります。右鹿沼、出流、岩舟道 左大谷、田下、宇都宮道とあります。 すぐの左手の祠の中に延命地蔵尊(右)があります。赤い帽子に赤い前垂れを着けたふくよかなお顔をしています。 間もなく文挟の町並みに入ります。右手のJAかみつが落合支店は昔の旅籠屋きくや音八跡でここが文挟宿の入口です。 そのJAかみつが落合支店の写真を撮ったりしていたら、つれはさっさと向かいの農産物直売所へ行ってしまいます。毎度のことですが、歴史よりも地元の農産物に興味津々。また重いものでも買われたら、と心配していたら、かんぴょうと切り干し大根だから自分で持って行くらしい。 JAの先右手の田辺商店は昔の問屋場で看板には今でも問屋(有)田辺商店とあります。その先に名主で本陣を兼ねていたお宅があるそうですが分かりません。 ![]() 道が左にカーブする突き当りに二荒山神社(左)と星宮神社が並んでいます。また狭い境内には神明宮、稲荷神社、三光神社、淡島神社、八坂神社など境内社が沢山並んでいます。 鳥居の下には、昭和24年12月26日払暁の大震災により、地域の動脈であった二宮堀が潰滅したが地元住民の熱意で復興させたと言う震災復興記念碑が建っています。 隣には日光市有形文化財の文挟宿郷蔵跡があります。江戸時代の元禄、天明、天保等の大飢饉で日光神領の村々では餓死者が多くでた。この為に村民は郷蔵を建て、貯穀して不作時に対応した、と説明があります。 ![]() 町並みを外れると再び杉並木街道になります。しばらく路肩を行きますが、左手の車道脇が歩道状になっていたのですかさずそこを歩くことにします。 歩道脇にはギボウシやホソバテンナンショウ、淡いピンクのつつじそしてカノコユリ(右)の小群落など目の保養をさせてくれます。そして、恐れ入る太さの杉並木は初夏の厳しい日差しを遮ってくれて有難い限りです。道路のむこう側にこんもりした塚があり小さな石祠も見えます。遠くて何なのか確認できませんが。その付近からは歩道に板が敷かれていて歩きやすくなります。 左手に岩見重蔵之碑があります。でも岩見さんがどんな人物だったのかは分かりません。並んである大きな碑は聖徳太子と彫られているようです。碑の先からは板張りはなくなりますが、平らな歩きやすい歩道です。 草花を愛でながら歩いているとこの杉木立に中を散歩している人に出会います。その人によると埼玉県や神奈川県から来る人が多いらしい。またその人によると、この先小枝が散らばっていたりして歩きにくい個所もあるがほぼ歩道を歩けるとの嬉しい話です。 杉並木歩道をしばらくした杉木立のむこう側(右手)に数体の人形が見えます。「土砂等埋め立てに関する標識」の脇にです。後ろ手に縛られ助けを求めて叫んでいるような町人や、それを見張るでもなく座り込んだくたびれた牢人風など、薄汚れた気持ちの悪い人形達です。どんな意図でのどかな杉並木街道にこんな忌まわしい人形を置いたのだろう。 |
右手に日光線を走る電車の音が聞こえてきます。我々が乗ってきた次の電車だろう。杉並木が途切れた右手に三本石と書かれた石碑があり、隣に弥勒菩薩の祠があります。 日本橋から27里(約108q)の板橋一里塚(左)で特別史跡、特別天然記念物に指定されています。その先で板橋宿に入ります。町並みの中央あたり、日光まで7qの道路標識の下に「日本ロマンチック街道」と冠した道路案内図があって、その隣の「たちばなや」で少し早いけれど昼食にします。我々が本日口開けの客になりましたがその後続々と客が入って来ます。地図に載っている店だけあって料理の味はもとより、早く入って良かったな〜と、ラッキー気分も味わいます。 今昔三道中独案内によると、左手の通称大和屋に残るのが脇本陣だった永楽屋こと福田氏の建物、その先右手が名主で脇本陣、問屋を兼ねていた桝屋こと田辺氏宅。その2〜3軒先に本陣の大貫氏宅があったが大貫氏は明治に土地を離れてしまった。その向かいに旅籠屋水しまやがあった。また80m程先右手に脇本陣だった永楽屋があったのだが、前述のように昔の建物は宿の入口に移ってしまっている。 ![]() 町並みに入った二人は右手に大貫氏宅を確認したが、大貫氏は明治期に土地を離れたとのことからこのお宅は本陣宅ではないだろう。「たちばなや」の3軒先の永楽屋は鳥居を製作する珍しい店で、脇本陣だったが前述のとおり昔の建物は宿の入り口付近に移っていると。しかしこの移った建物も、その他も今昔三道中独案内に言う何一つ発見できませんでした。 板橋信号の右手の福生寺(右)に日光東照宮造営副奉行の本多正盛の墓があります。同僚と論争になり同僚は自害、本人も東照宮造営完成後に自刃した、と説明があります。 その奥に栖克神社があります。入口には文挟宿出口の二荒山神社前にもあった紡績堀・二宮堀震災復旧紀念碑があります。この神社の右手の細い道は奥州道だそうです。 その先の大きなお宅は福田家で永楽屋の経営者だと思います。その先、二股を直進するのが新道です。旧街道は左折するとすぐ右に折れる枡形道路になっていて、その先は杉並木街道になります。道路の右手一段高い土手道は歩道とは言い難いが、雑草や杉の小枝などを踏みしめながらそこを行きます。 そんな悪路が途切れ車道に下りますが、道路は意外と車の通行が少ない。さっきの枡形を直進して新道を行くからだろう。杉の大木の根元に大きな空洞があり、そこが真っ黒に焼け焦げているのが何本か目に付きます。日光街道の時にありましたが、まさか戊辰戦争の砲弾にやられたのではないだろう。空洞部分が腐らないように焦がしたのではと推定します。 何度も言いますがどの杉も驚くほど太い。根元から二股に分かれていたり、三股になっていたりするのもあります。また枯れて?伐採された切り株から違う木が育っていたりと、時の流れを感じます。 |
久しぶりにあった信号の左手が歩道状なのでそこを行きます。やはり杉の小枝が散らばり、雑草だらけで歩きにくいけれど車道脇を歩くよりまだ良いか。しばらくした信号脇に庚申塔が2基と安政5(1,858)年の順礼供養塔があります。右からの道はこれも奥州道だそうです。![]() 信号の先は車道を歩きますが、緩く上りになっています。しばらく先に地震坂と呼ばれる所があります。昭和24年12月の今市市を中心とした大地震で地滑りが起き、杉並木が移動した坂で、本来の街道はこの上にあった、と説明があります。この付近は街道が左にそして右に曲がっています。しかし、地震の前は崖の少し上を真っ直ぐ通っていたと言うことです。 その先で再び道路右側の一段高い土手道悪路を進みます。途中街道が二股に分かれますが、左手が旧道です。しかし我々右手土手上に居て左に行けず、不本意ながら右手の道に沿います。少し先の 旧道が合流してくる付近で土手道は途切れ車道に戻ります。車道に出て歩きながら、右カーブが特に危ないことに気付きます。我々からも対抗してくる車の運転手からもお互いが死角になってしまうからです。まさか歩いている人がいるとは思わないのだろう、我々に気付いてびっくりしたような顔をして大きく避ける運転手もいます。 日光宇都宮道路の下を潜りしばらくすると室瀬一里塚(右)があります。杉が育ちすぎて、塚が押しつぶされてしまっています。江戸から28里で日光壬生道最後の一里塚ですが、標識には日光例幣使道 室瀬一里塚とあります。やはり壬生道より日光例幣使道の方がとおりが良いのかな。 小さな川を渡ります。かっては室瀬川と呼ばれていたが今は田川です。その先の四つ角に道標があり、向右鹿沼に至る、左今市日光に至る、などとあります。 右手の土手の上がやや歩きにくいが歩道状になっています。墓地があるので墓参の人達により踏み固められたのだと思います。その道もすぐに途切れますが、その先は左側土手道を歩きます。左手遠くに小さな山々の連なりが見える久しぶりの開けた所です。その歩道もすぐに途切れます。 ![]() 日光線の踏切を越えた少し先の信号右手奥に日光街道杉並木が見えます。間もなく日光壬生道の終点になる日光街道と日光例幣使道(日光壬生道)の合流点今市追分(左)(地蔵堂を挟み、左手が日光街道、右が壬生道)に到着。日光壬生道を完歩、14時35分、20,544歩で。 追分の地蔵堂の地蔵菩薩石像は、鎌倉から室町にかけて造られた古いものです。これをバックに壬生道完歩の記念撮影をと思ったのですが、生憎なのかいつもそうなのか、いつまでたっても人っ子一人現れず記念写真を撮れませんでした。 今市駅へ向かう途中で、日光街道の時にも立ち寄った菓子処みかどでお土産を、宇都宮では宇都宮餃子も土産に、上野東京ライン国府津行きに乗車、日光壬生道完歩を記念にして帰宅の途につきました。 |
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