成田街道 を歩く        . 酒々井駅 から 成田不動尊   平成28年5月21日 (土)   晴

横浜駅で予定より早買ったので、酒々井に10分ぐらい早く着くな、ともくろんでいたら千葉駅でたっぷりな待機時間。何のことはない、調べた通りの到着時間だった。JR酒々井駅前には地名の由来になった、酒の井伝説の孝行息子と父親のモニュメントがあります。

駅前広場を10時10分に歩き始め、県道137号を信号で横断し、すぐ先のファミリーマート手前を右に曲がります。曲がった旧道沿いの両側に重厚な瓦屋根の旧家が数軒建ち並んでいます。


突き当り丁字路を右折しますが、その手前左手の火の見櫓の下に富士登山参拾三度大願成就と書かれた記念碑新四国霊場第六十五番大師堂が並び、やや離れて地蔵堂(下・左)があります。
大師堂には、四国65番札所の伊予国由霊山三角寺より分霊とあります。地蔵堂には八体の地蔵尊が祀られ、元禄二(1,689)年、宝暦十三(1,763)年、明和七(1,770)年などが読み取れます。

丁字路の突き当りには道標(下・中)が2つ並んでいます。向って左は「いわな二王みち」と刻まれ、右は「此方酒々井停車場道」「此方成田宗吾道」などと刻まれた明治44年建立の道標です。

丁字路を右に曲がり小さな川を渡ります。そして再び丁字路に突き当りますが、そこにも道標があります。正面に「→成田佐原道、←宗吾安喰道」、左側面に「酒々井停車場佐倉千葉道」、右側面に「酒々井停車場佐倉東京→」、裏に「上岩橋青年分団木内常松」とあります。

丁字路を右折した少し先の二股に分かれる角にも道標(下・右)があります。これは自然石の大きな道標で、「←成田佐原 佐倉千葉→」「七栄三里塚道→」「上岩橋青年分団鈴木金兵衛」とあります。


自然石道標前を左に行くと国道51号に合流します。すぐに左の旧道に曲がり突き当りを左に曲がり、そして右折すると突き当り気味にふれあい公園があります。公園の右隅に成田道上岩橋追分不動道標(左)があります。延享3(1,746)年の建立で、台座が道標になっていますが、従是右まで読めますが、その下は土に埋もれています。

国道から突き当って左折した丁字路を直進すると右下に芝生の広場があり、そこに酒々井町立酒々井小学校岩橋分校跡の大きな碑が建っています。
広場は200uほどでそう広くなかったと記憶しています。はやとちりも分校経験者ですが、分校の規模はこんなもんだったかな。

道なりに国道51号にぶつかりますが、ぶつかった左手にも道標(右)があります。奉納仁王尊、南さくら道、木内十とあり、その下は土の中。寛政二(1、790)年のものです。この道標、電柱にもたれかかっていて今にも倒れそう。早く直してやって欲しいものだ。

国道を横断したすぐに大崎自治会館があり、右手は田植えが終わった田圃です。その畦道の枯れ枝にカワセミがとまっているのをつれが目ざとく見つけました。

先は上り坂で、両側が竹藪の切通し。途中の左手の石段を上った小高い所に馬頭観音などの碑が置かれ、小さな祠も二つ並んでいます。石段は急なうえに刺激を与えると崩れそうな気配。君子(誰が)危うきに近寄らずと、見上げながら通り過ぎます。

旧道が国道に接する所に千葉県指定史跡伊篠松並木跡の木製の大きな標柱(左)があります。
伊篠(いじの)の松並木は通称杢之進並木と呼ばれ、享保年中(1,716〜35)に佐倉七牧を支配していた小宮山杢之進が植樹したと伝えられる旧成田街道にあった約800mの松並木です。しかし、樹齢から推して植樹時期は享保年中よりもっと早かった、との説が有力らしい。
この松並木は昭和50年代以降松喰虫被害により全て枯れてしまい、史跡として名称だけが残されています。
隣には宗吾道道標があります。

この先の国道の右手をほぼ並行する風情ある旧道は伊篠の松並木跡ですが、説明のとおり松は全く見当たりません。左手の笹薮の中に成田山永代護摩木山と書かれた自然石でできた立派な碑(下・左)が建っています。

その先右手に千葉県農業共済組合連合会西部家畜診療所があります。農協って家畜の診療まで手掛けているんですか。すぐ先左手にまた成田山永代護摩木山碑(下・中)があり、傍らに道標などが数基並んでいます。道標には成田山是より壱里余とあります。
少しした左手にも成田山永代護摩木山碑があります。

成田山永代護摩木山碑は、成田不動尊で護摩を焚く為の木を寄進した記念に建てたもので、護摩を焚く木のある山を山毎買い取って寄進したそうです。。それにしてもこんなに多くの護摩木山を寄進されるほど護摩木を必要とするんですね。

国道51号に合流する左手手前に伊篠の松並木碑(上・右)があり、松並木跡はここまでだったらしい。国道を横断し、再びすぐ先で斜め左の旧道に入ります。竹藪や雑木林の間の薄暗い坂道で、坂を下り切った左手にまた成田山永代護摩木山碑、その右に不動尊碑(左) が並んでいます。 

その先左手道端に田圃を背にして地蔵尊(右)が祀られています。文政4(1,821)年の女人講によるもので、長閑な景色にツーショットを要望するつれです。

すぐ先、向かいで木陰の丸太に腰掛けて小休止。葦原ではオオヨシキリのギョンギョンギョン、ギョンギョンギョンとけたたましい声が。声はけたたましいが、どこに居るのやら。

旧道はやがて国道51号に合流し、約600m先の公津の杜信号やや手前で酒々井町から成田市に入ります。



公津の杜信号の次の二股の信号で国道から分かれ右に行きます。そこに不動塚1kmの案内板があります。すぐ先で右手からの県道409号に合流し坂を下り、そして上ります。坂を上りきった並木坂上信号でさっき案内板のあった不動塚へと右に曲がります。
約300m程、JR成田線沿いの右手に金刀比羅神社があり、境内に不動塚(左)の小さな祠があり、不動明王石像が安置されています。祠の手前には成田山奮跡不動塚之碑があります。

不動塚は成田山新勝寺発祥の地とされる場所です。天慶2(939)年に平将門の乱平定のために朱雀天皇が寛朝を東国に遣わした。この時寛朝は京都「高雄山神護寺護摩堂」の不動明王像を奉じ、翌天慶3年に下総公津ヶ原で朝敵降伏祈願を行った。乱が平定され寛朝が京に戻ろうとしたが不動明王は動かず「この地に留まり人々を救う」と告げ、不動明王像を本尊として成田山新勝寺が開山された。その場所がこの不動塚付近だったらしい。

十九夜様と表示がある小さなお堂もあります。十九夜塔、二十三夜塔などと同じ月待ち講だと思います。

並木坂上信号に戻り先へ進みます。この時どこからか、正午を知らせるチャイムが聞こえてきます。並木信号で国道51号を横断し100m程か、右手に飯島武雄の墓があります。茨城出身の和算家で、江戸で私塾を開いて教えていたが、不幸にして失明し帰国。近郷の人達に口授で算法を教えていた。並木の大坂家が寺子屋を開き、師として迎えた関係からここに墓が建てられたらしい。

旧道は、大きな旧家と新興住宅が併存する一本松通り。一本松信号の左手に一本松跡碑(右)があります。かつては松並木だったこの通りに一本だけ残った松が枯死寸前に伐採された。通りの名称もこの松に因んでのものでしょう。
碑の左側に安政5(1,858)年の馬頭観音が建っています。正面に宗吾霊神道と書かれています。

一本松通りを北へ進み、JR成田線の踏切を渡り、京王線を高架で越えた左手に不動尊旧跡(左)があります。
「不動明王にまつわるお話と不動ヶ岡」と題した、成田山新勝寺不動ヶ岡地区不動ヶ岡商店会による長文の解説があります。

この場所を不動尊旧跡と言う由来は天慶3(940)年、寛朝大僧正が平将門の乱鎮定を祈願し、ここから南約1.7qの並木町公津ヶ原に仮堂を設け、京都よりの不動明王を安置し奉った。
その後安政5(1,858)年に成田山新勝寺の本堂(現在の釈迦堂)が完成した際、入仏供養の行列は本来ならば公津ヶ原の仮堂から出発すべきところ、あまりに遠方な為この地に仮安置所を設けここから出発したという故事に基づいている。
これにより現在に至っても毎年7月7,8,9日に行われる祇園祭には御神輿とお稚児行列は当地から出発するならわしになっている。


その先左手の成田山勤労会館手前に大師堂があります。二十九番札所になっていて、四国八十八箇所札所、摩尼山国分寺の御詠歌「国を分け 宝を積みて建つ寺の 末の世までの利益残せり」とありました。

左にJR成田線、右に京成本線の間を行き、間もなく左にJR成田駅、右京成成田駅前に到着です。ここからは古くからあるのだろう、成田山の土産物店が並ぶ情緒ある商店街(下・左)です。土産物としては、羊羹、ピーナッツ、ウナギと鉄砲漬けなどでしょうか。



今まで公津ヶ原の成田山旧跡や安政5年に新勝寺本堂(現釈迦堂)が完成、入仏供養の行列が出発した際の不動尊旧跡を訪ねてきましたが、それをおさらいし更に成田山新勝寺の歴史を追います。

1.平安時代中期の平将門の乱を鎮定の為朱雀天皇の勅命により、僧寛朝は守護神不動明王とともに東国に下り、天慶3(940)年に下総国公津ヶ原で平将門の乱平癒祈願をします。祈願が通じ、将門は藤原秀郷、平貞盛らに討たれ乱は治まります。
戦勝を喜んだ朱雀天皇は、「新たに勝った」という意味の「神護新勝寺」の寺号を与え公津ヶ原に堂宇を建てた。これが成田山新勝寺の開山になります。天皇から寺号を賜った新勝寺も時代とともに忘れ去られ荒れ果てたと言います。〜それがさっき寄った何とも寂しい公津ヶ原の有様です。〜

2.室町時代中頃になり、荒れようを見かねた近郷の名主達の話し合いにより、成田村名主諸岡三郎左衛門の屋敷内に本尊の不動明王を移し永禄9(1,566)年まで奉祀していた。〜土産物店の並ぶ坂を下った左手、米屋総本店の裏手の「お不動様旧跡庭園」に成田不動尊御遷座之旧跡碑(上・中)があります。諸岡三郎左衛門は米屋の遠祖にあたり、このあたり一帯が屋敷跡だったそうです。〜

3.天文年間(1,532〜55)前半に神明山に本堂が建立され御不動様は諸岡家からここに遷座されます。本堂建立が天文年間前半、師岡家では永禄9(1,566)年まで奉祀した、とあり年代の矛盾はあります。〜米屋前から少し坂を下った左手に薬師堂(上・右)があります。
薬師堂斜向かいの「竹工房せいみや」脇の路地を入りすぐ左に曲がり、階段を下った左手脇にポツンと神明山碑(右)が建っています。〜

薬師堂は明暦元(1,655)年に建立された旧本堂で、成田山最古のお堂で現光明堂に本堂の座を譲り、安政2(1,855)年三代目本堂、現釈迦堂建設を機に、薬師堂と改称してここに移築されています。

4.更に神明山は場所が狭かったため、永禄9(1,566)年、現在の場所に不動尊は遷座されます。成る程、確かに神明山は狭いが、どんな規模の本堂だったのかは知りませんが、手狭に感じるほど多くの人が参詣に訪れていたのだろうか。
それと、諸岡家が不動尊をお守りしたのは永禄9(1,566)年までとありましたが、これは現在地に本堂が建立された年代です。おそらくこれは神明山に御不動様が遷座した年代と現在地に本堂が建立された年代との勘違いか何かの記録違いだと思います。

まとめますと、公津ヶ原 → 諸岡家 → 神明山 → 現在地 と不動尊は遷座しています。


土産物店が並ぶ坂道を下ると右手にウナギ屋がありすごい混雑で順番待ち番号札を貰ったんですが10番目らしい。こんなに待つのはつらいな、と隣を見ると混んではいますが順番待ちはなさそう。あっさりすんなり菊屋の客になりました。
天保年間創業で200年になろうとする老舗で、新勝寺に許されていた宮家の菊の御紋を、創業時の店主が拝領し屋号を「菊屋」とした、と言う由緒の店です。

総門(左)前で成田街道を完歩し成田街道完歩記念の撮影です。やはり門前で写真を撮っていた方にお願いして。そしてここまで歩数は14,127歩、午後1時26分でした。


成田街道を完歩し、すっきりした気分で新勝寺の参詣です。総門をくぐり石段を上ると仁王門で、説明によると文政13(1,830)年建立の八脚門とあり、国指定重要文化財です。阿吽の金剛像が左右を固め、仁王像の裏側では多聞天と広目天が参詣人を見守ります。頭上に「魚がし」と書かれた大きな提灯がぶら下がっていますが、筑地の旦那衆が奉納したものだそうですが、浅草寺のとどっちが大きいだろう。

仁王門を潜るとまず目に飛び込んでくるのが三重塔(左)です。正徳2(1,712)年建立で美しい装飾がなされ、やはり国指定重要文化財です。境内正面が本堂(中)で道中の安全などに感謝して手を合わせます。本堂左手の入母屋造りの釈迦堂は安政5(1,858)年建立の国指定重要文化財で、現在の本堂ができるまでの本堂でした。

釈迦堂の裏手に回ると額堂があります。このお堂も国指定重要文化財で文久元(1,861)年の建立です。額堂とは、絵馬を掲げておくための建物だそうです。成田山では絵馬をお堂の中に下げて祈願するんだと思いましたが、それはとんだ思い違い。絵馬と言っても我々がお願いしてぶら下げるのとは違う、額に入った大きいな絵馬だそうです。
その先の光明堂(右)も国指定重要文化財で元禄14(1,701)年建立で、釈迦堂の前に本堂だった建物です。

本堂も何度か建て替えられているので整理します。初代は境内の外に移築された薬師堂で、二代目が光明堂、三代目が釈迦堂で現在の本堂は四代目になります。

奥の院から大塔を経て、成田山公園の緑の森を抜け、約1時間後に総門に戻りました。帰りがけに米屋の羊羹と滝沢本店の清酒長命泉が荷物に加わりました。

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