| 日光東往還 を歩く | 1.南柏駅から東武初石駅 平成29年9月24日 (日) 晴 | |||
| 日光東往還は、水戸街道と南柏駅付近で分岐して、関宿や結城などを経て日光街道の石橋宿と雀宮宿の間、JR宇都宮貨物ターミナル駅付近で合流する街道です。 歴代徳川将軍の日光東照宮への参拝の他に大名の参勤交代や物資の輸送、一般庶民の旅にも利用れていました。江戸幕府による正式名称は関宿通多功道でしたが、関宿道、結城街道、多功道などとも呼ばれていました。 |
JR常磐線南柏駅に9時45分に着き東口から県道261号線(水戸街道)南柏駅東口交差点に出ます。 ![]() 交差点の南側に稲荷神社(左)があります。境内に大勢の人が集まり働いています。どうやら防災訓練の準備をしているようです。その中の一人、防災訓練の長と思しき方が我々に話しかけてきます。旧街道を歩いての途中だと話すと、稲荷神社についていろいろ説明をして下さいました。 茅葺屋根の社殿について、現在は消防法で新築は出来ないが、改修という名目で認められている。茅葺屋根に金網で覆いがされているのは、鳥が巣を作って仕方がないのでそれを防ぐため、美観は損ねるがやむを得ないのだと。 稲荷神社の裏手に案内され、小さな祠(右)を指して、これが元の稲荷神社だった、と。祠の前には10cm程のそれはそれは小さな狛犬が一対置かれています。 社殿の右手の小さな池の中に弁財天が祀られています。この池の水は枯れることがないそうです。 ![]() 南柏駅東口交差点を東へ歩き始めると右手に八坂神社があり、境内隅の街道に面し水戸街道松並木説明板があります。これを見たつれが、「この道は歩いたことがある」と。はやとちりもそんな気がしていましたが、確かに水戸街道で、茅葺屋根の稲荷神社もそしてこの八坂神社前も歩いています。 歩いたことを気付かせた、松並木説明板によると、江戸時代の水戸街道は広大な原野である小金牧の中を通っていて道に迷う者が多く、水戸藩が千本の松を植えて松並木をつくり道しるべとした。その松も老木になり伐採されてしまったそうで、今は松並木どころか一本たりとも残っていません。 境内に八坂神社の手書きの説明板があり、「創建は江戸時代に小金上町の人がこの地、上野牧(かみのまき)を開拓して小金町の八坂神社より分祀され、今谷上町に享保11(1726)年頃に創建されたと思われる。」 手水鉢は自然石をくり抜いた古そうな見事なものです。 少し先の信号が南柏駅付近で水戸街道と分岐する追分で水戸街道は直進、日光東往還は左に曲がります。しかし、交差点には追分だったことを示すようなものは何もありません。 追分を左折してJR常磐線を跨線橋で跨いだその先で国道6号線の旧日光街道入口交差点を横断します。交差点のすぐ先の左右に野馬土手が見られます。とは言いながら、野馬土手がどんなものかを知らない二人、庭の手入れをされているご主人に確認、「それがそうだ」と指差されます。 指差された道を眺めると、道の左側が道路面より2〜3m高い土手になりざっと300m程続いています。 江戸時代東葛地域に幕府直轄の広大な放牧場がありました。それが小金牧で上野牧、高田牧、印西牧など6つの牧で軍馬の育成をしていました。まだ人に慣れない野馬が田畑を荒らさないように、村と牧を隔てるために築いた土手が野馬土手です。 八坂神社創建説明板に、小金上町の人が上野牧を開拓し、とありました。上野牧とは小金牧の一つで野馬の育成場所だったんです。 左手農家の庭に一本の大きなしだれ梅があり、その向かいあおぞら整骨院前を左折すると左手に弁天谷公園があり、すぐ先で水路に突き当ります。 ![]() ![]() 水路沿いも野馬土手(左)で、その写真を撮っていたら、年寄りの女性が近寄ってきて昔話を始めます。 この水路も昔はきれいで子供達が水遊びをしたり、野菜や食器なども洗えたんだ。 今は住宅が立ち並んでいるが、かっては田圃ばかりで、開墾されてから移ってきた我々は「ぶっかけ茶碗に粟の飯」と古くからの人達にさんざん馬鹿にされたもんだ、でも貧乏はしていても、米の飯くらい食べていたよ、と憤懣までぶちまけます。 この先の弁財天に行く、と話すと「それは、本家が建てたんだ」と詳しく場所を教えてくれました。 教えられた通り水路脇を右に曲がると、道路の右側にも野馬土手(右)が続いています。左手に流れる水路は住宅の裏に隠れて見えなくなりますが、その細い水路が柏市と流山市との境になっています。 |
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野馬土手が途切れた付近で右下に弁財天のだと思われる青い屋根が見えました。急坂を下り突き当りを右折すると畑の中に弁財天(左)が祀られていました。弁財天までは、どなたかの畑の畔を通りますが、勝手に入って行って良いのかひやひやものです。弁財天脇に弐百年記念碑(昭和58年=1983年建立)があり、天明三(1783)年に小金宿綿貫夏右衛門以下19名の人達により建立された、と刻まれています。 小さな石塔も建っていて、中央に天照大神、右側に八幡大神左に春日大神と刻まれています。 ![]() さて戻ろうかとすると、正面の農家から畑の中を通りこちらに向かって自転車が来ます。さては、黙って畑に入ったのがまずかったのか、と思いきやさっきのお婆さんです。「教えたけど、ちゃんと来られたか心配で追ってきた」と。どこまで親切な方なんだ。 親切ついでに先の道を確認したが、それは当て外れ。しかし、概ね方向は知れ、畑から戻りすぐ先の坂道を上ると広い道路との交差点信号に出ます。そこを右折して稲荷神社前信号交差点で街道に復帰しました。 交差点の北東側に四号稲荷神社(右)があり、ここはあおぞら整骨院前を左折した地点から 約600m北に進んでいました。稲荷神社拝殿は恐ろしく高い屋根で屋根の先端両側に狐が乗っています。境内に狛犬と狛狐が一対づつあるのに、屋根の上にまでキツネが乗っています。屋根の上のキツネなんて珍しい。 公爵岩倉報恩碑があります。柏にあった岩倉家の宅地を国策の自作農用地に提供したことに感謝して建立されています。提供したのは岩倉具視の子孫ですが、ここ柏に広大な私有地を得たのは具視公だろう。が、なぜこんな地方に、とやや気になります。 境内に明治29年開通の常磐線開通120周年を祝う楽しそうな絵、いや、ポスターが(右、神社の写真にカーソルを)あり、「豊四季の原っぱに鉄道走る、村人蝟集し人間汽車ポッポ組んで沿線見物、停車場は国旗を揚げて花火上げ祝賀会」とあります。明治29年から120年は2016年(平成28年)、昨年貼ったにしてはずいぶん綺麗なポスターだ。 ![]() すぐ先の右手に柏市立第二小学校があります。小金牧では毎年幕府に馬を差し出すために放牧している馬を捕込(とっこめ)という土手で作った囲いに追い込んで捕えた。その場所がこの小学校付近だったらしい。 校庭に居合わせたお母さん方にその話をしましたが全く知らない、とのこと。それらしい痕跡があるか聞いても首をひねるだけで収穫なく校庭を後にします。 小学校から300mほどの右手に一本松稲荷神社(左)があります。境内に一本の松があり、その松から一本松と言われるのだろうが、松は三代目だそうです。 境内の左手がかなり広範囲にほじくり返されています。遺跡発掘?と思いましたが、そうではなさそうで、社務所か神楽殿でも建てるのだろう。奥に御嶽山神社が祀られています。 天皇陛下御製とする和歌が刻まれた碑もあります。四号稲荷神社にもあったような気がしましたが歌が同じだったかどうかわかりません。 すぐ先右手にあったジローコーヒーで昼食です。 |
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街道は東武野田線に接近すると左に曲がりながら下ります。坂を上った豊四季駅南口信号の右手に豊四季駅が見えます。しばらく先の信号交差点を右に、諏訪神社を目指します。途中左手、富士見町ふるさと会館前に観世音菩薩(左)を祀る赤い祠があります。脇に観音出現井戸之跡碑があり、その井戸から出てきた観音様を祀っているらしい。明治初期に開墾した人が力比べをしたという、85sの力石も大切そうに置かれています。 豊四季駅付近の商店街から、そして商店のないこの道にも街灯に馬の絵が描かれています。今日は一日中「牧」関連に遭遇、この付近がまだ広大な小金牧の中ということを知らしめる街灯です。 東武野田線の踏切を渡った左手に諏訪神社の深い森があり、猛禽類のツミと思われる大きな声が聞こえています 。境内の入口に道標がありますが文字は読めません。 駒木の諏訪神社(右)は、社伝によると大同2(807)年天武天皇の皇子高市皇子の後裔が関東に下り、駒木に永住する際に信州の諏訪神社を勧請し創建した、とされていて平成18年で鎮座1,200年にもなる古社です。 現在の本殿は文政8(1825)年、拝殿は弘化3(1846)年に造られ、境内約一万坪の鬱蒼とした大樹が1,200年の歴史を伝えています。 一の鳥居をくぐると右手に源義家鞍掛の松碑があります。八幡太郎義家が後三年の役平定の為奥州へ向かう途次、諏訪神社に戦勝祈願をした。奥州を平定しての帰路、祈願成就に感謝し乗馬と馬具を奉献した際に鞍をかけたのがこの松です。しかし松は明治初年の台風により枯れてしまい碑だけが残されています。 隣に与謝野蕪村の句碑があります。道問へば大根曳いて教えけり、蕪村が「おすわさまはどこか」と畑仕事のお百姓さんに問いかけると、引き抜いた大根で諏訪神社を指し示しながら教えてくれた、その情景を詠んだ句。 二の鳥居をくぐると、子煩悩な山上憶良のあの有名な銀も金も(しろがねもくがねも)玉も何せむに勝れる宝子にしかめやもの歌碑もあります。 |
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![]() 源義家鞍掛の松碑 |
![]() 与謝野蕪村句碑 |
![]() 源義家献馬の像 |
| 随身門をくぐると右手に道標があります。安政6(1859)年のもので、左布施、我孫子、成田みち、南ながれやま、西・・・・みち、東成田、諏訪みちとあります。向かい側にも道標があり右すわみち、左のだみち、とこれは天保7(1836)年の建立です。源義家献馬の像もあります。鞍掛の松で説明した通り、馬と馬具を奉献した古記録に基づき、昭和60年に北村西望氏により制作され日展に出展されたものです。 その奥にようやく拝殿があり参拝をして神社を出ます。それにしても広い境内全域が鬱蒼とした森で、良い天気なのに足元まで陽が届かず境内中が薄暗かった。 街道に戻ります。おおたかの森病院を過ぎた信号を右折すると右手にきらら公園があります。一里塚(左)と書かれた標柱が立ち何か書いてあります。ちょっとした丘があるので一里塚の説明か、と寄って行くと、日光東往還(旧日光街道)と題した説明で一里塚については一言も触れていません。 日光東往還は、日光街道の脇往還で、公園周辺のクランク状の道(通称西初石クランク)は、日光社参の列が敵に襲撃されるのを恐れ、安全を目的として設けられたとも言われています。また、街道は小金牧の一つ上野牧の中を通っていて、牧の出入り口には木戸が作られ通行の度に開閉されていました。公園周辺に木戸があったと伝えられ、クランクは木戸を通過するために設けられた可能性もあります。 研究が進められているだろうが、どちらの説が有力なのだろう。 ![]() 案内図に従い公園の先を左に曲がります。成る程、さっき病院の先で右に曲がり、ここで左に曲がるのが西初石クランクだ。 左折した道はすぐ先で消滅します。仕方なく東武野田線に沿い、流山おおたかのもり駅の中を通って駅の北東側に出ます。駅前広場は開発中で、まだ何もない広っぱになっていて、旧道はどこへ消え去ったのか。止む無く、これと決めた道、東武線沿いを北東に向かいます。しかし、歩きながらこの道で良いのかは半信半疑です。少し先で旧道に合流するとやや安心、そして道が二股に分かれる左手に地図に載る秋谷自動車を発見し日光東往還を確信し不安は解消されます。 そこから300m程の信号交差点を右折してオランダ観音を目指します。 東武線の踏切手前に3基の庚申塔(右)があります。左の二つは青面金剛と書かれた文化2(1805)年と寛政9(1797)年のもの。右端は青面金剛像が邪鬼を踏みつけ、その下に三猿がある本格派の庚申塔で天明7(1787)年の建立です。 |
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![]() 東武野田線の踏切を渡ると、線路沿いにオランダ観音や諏訪神社などの行き先を示す案内柱があります。オランダ観音は地図にもあるしすぐ見つかるだろうと、軽い気持ちで線路沿いを行きます。しかしその先にはもう案内板が出てきません。そのうえ付近は新興住宅地になり、地図と現場はかなりな変貌を遂げています。だいたいの見当で線路沿いを左折すると突き当りにおおたかの森一号公園(左)がありました。 ここも上野牧の中だろう、公園の真ん中に馬の像があります。子供を遊ばせていたお母さんに、確認して公園の反対側を出て、その先で通りがかりの方に再度確認しようやく一本杉の下のオランダ観音(右)にたどり着きました。 オランダ観音というから、大船の観音様みたいに大きな観音像を想像していたのですが、そうではなく小さな祠に2基の馬頭観音石塔が祀られているだけ。 徳川幕府は馬の改良を目的として、早くからオランダを経由して、大きく力強い葦毛のペルシャ馬を輸入していました。小金牧に放牧されたペルシャ馬は、気候や環境になじめず、日本の馬とも大きさなどからなじめず、次第に狂暴になり農作物を荒らしたり、人にも危害を与えるようになった。見かねた牧士により狙撃され、馬は十太夫新田の沢で水を飲みながら息絶えたと伝えられます。後年、憐れんだ里人がオランダ観音を祀ったと言います。南西のつくばエクスプレス沿いに十太夫の地名があります。 オランダ観音のそんな曰くなど知らずただたんに見物に来ただけの二人ですが、オランダ観音にこんな悲しい物語が秘められていることを知り、ちょっぴり感慨にひたりました。それと祠の中の2基、右側がこの悲劇により建立されたオランダ観音です。 帰路東武野田線の踏切を渡ると行きがけに見た、3基の庚申塔の向かいに小さな祠があります。祠の中は紙がいっぱい置かれ、その一枚に大正七年の文字が見えます。しかしその紙が何を意味するのか、また何が祀られている祠かは知れません。 ふれあいの森、流山市初石公民館を過ぎます。そして少し先、流山初石郵便局の向かいに地蔵尊(左)が二つ並んでいます。何の説明もありませんが、傷み具合からかなりの年月を経ていて、最近交通安全にと建立したのではないことは間違いありません。 すぐ先、右手が東武野田線初石駅で今日はここまで、午後2時10分、18,610歩で歩みを止めます。 初石から東武野田線(東武アーバンライン)で柏へ、常磐線に乗り換えて日暮里へ、そして京浜東北線に揺られ居眠りをしながら横浜へ連れ帰ってもらいました。 |
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