| 日光東往還 を歩く | 2.初石駅から梅郷駅 平成29年9月30日 (土) 晴 | |||
![]() ![]() 東武野田線初石駅を出て、日光東往還の初石商店会通りを歩き始めたのは9時55分。 西初石三丁目信号を過ぎた右手に見事な塀、築地塀というのかな、を巡らせた旧家(左)があります。。 初石二丁目に入るとたわわに実った姫リンゴ(右)の木が道路に突き出ているお宅がありました。 日光街道大橋で常磐自動車道を越えますが、自動車道は地下に潜っていて見えずごく普通の平坦な道で、橋を渡っている感覚はありません。 東武野田線に沿う静かな住宅街の通りは、突き当たりを直角に左に曲がりすぐに右に曲がる枡形道路になっています。 すぐ先の信号で日光東往還はまた左に曲がりすぐに右に曲がります。しかし城下町でもなく、しごく平和そうな街なのにどうして枡形道路があるんだろう。 と言いながら、我々は二度目の枡形に入らず、雰囲気の良さそうな線路沿いを直進します。往還からは外れますが。 雰囲気が良さそうと選んだ線路沿いの道は、クヌギやナラ、ヒノキ、イチョウなど様々な雑木が並ぶ遊歩道でほどなく江戸川台駅前へ出ます。 駅前広場でちょっと一息入れ、京葉銀行脇を左に曲がり、最初の信号を右に曲がり日光東往還に復帰します。まだ静かな住宅街が続く旧街道です。途中で今日のおやつにとつれが「流山××」なる洋菓子を買ってきましたが、お菓子も店の名も記録から漏れています。 ![]() ![]() 少し先の右手に大きな木が繁りその下に小さな祠があります。大きな木は流山市指定保存樹指定351号ソメイヨシノ(左)と祠は新四国八十八箇所廻り六十九番札所の大師堂です。 東深井に入ると歩道がなくなります。道が狭いし歩道はないししかも車は通るし、そぅ深井じゃなく不快だ。 右手に浄心寺があります。山門入口に「戦国時代の創建で(室町時代らしい)、本尊は阿弥陀如来。聖観音は60年に一度の開帳、境内には如意輪観音など石造物があります」と。脇に十九夜塔があります。 山門を入ると地蔵尊や如意輪観音などが多数並び、寛文13(1673)年とか天明2(1782)年などの元号が刻まれています。 本堂左手に馬頭観音があり、祠には如意輪観音など石仏が納まっています。 如意輪観音とその下に六地蔵が彫られた石塔(右)もあり、文化9(1812)年と刻まれています。 向かいは慈眼院です。慶長5(1600)年関ヶ原の戦いで石田三成の居城佐和山城が落城し、番頭山田上野之助は嫡子隼人を脱出させた。隼人は子の宇一郎と諸国を巡り関東に下り、宇一郎に医学を学ばせ深井の里(流山市東深井)に住んだ。慶長19(1614)年大坂冬の陣に隼人は馳せ参じ、夏の陣で討ち死。 喜庵と名を改めた宇一郎は医師となり、「佐和山城落記」を記述して戦死者の霊を弔い後世に伝えた。慈眼院の建立は定かではないが、喜庵の没後と推定される。 佐和山城落記には、山田上野之助が隼人に汝の他に誰が我が菩提を弔う、また三成の行方知れずを見届けてくれ、最後の人々の菩提も弔うべし、また時節があればこの恥辱をそそぐべしなど、と大阪落城一周年の元和2(1616)年5月に喜庵により記述されています。 山門入口には青面金剛と書かれた庚申塔、地蔵尊、如意輪観音などがずらり並んでいます。境内には新四国八十八箇所廻りの大師堂もあります。道路に出てからふと振り返ると境内できょろきょろしながらも気付かなかった大けやきが両寺院の境内に聳え立っていました。 少し先の右手にも大きなケヤキがありその下に新四国八十八箇所廻りの三十一番の大師堂(左)があります。小さなお堂ですが彫刻が見事です。 ![]() 東深井中学校を過ぎて、東深井中入口信号で流山街道を横断します。横断したすぐ左手に小さな祠と浅間大神の碑があります。祠は扉がぴったり閉ざされていて、覗こうにも覗きようがありません。 その奥に豪邸があります。かって名主か庄屋を務めていた、といった風情を感じさせる構えです。 旧道はすぐ先で突き当り右に折れます。右に曲がる手前、左手に八坂神社があり神輿が安置されています。この八坂神社、鳥居もなければ参道も狛犬もなく、道路に面してポツンと建つ神輿庫といった方が良さそうな感じです。 突き当りにやや荒涼と言うか殺伐とした場所(右)に赤い屋根の祠や石塔が沢山あります。左の祠は地蔵堂、右の赤い祠は御嶽山と書かれた碑があります。手前の成田山不動明王碑は道標になっていて、我孫子、花の井、青田、深井みち、などとあります。 祠や他の碑が正面を向いているのに、反抗的にそれらと90度向きを違えた薄っぺらい、伊勢代々神楽と刻まれた石碑もあります。 右に曲がり、流山街道に合流する直前で左折し、その先を右折して流山街道に合流し北へ向かいます。流山街道を横断して再び流山街道に合流するまで、右、左、右、左と四度も曲がりを繰り返すダブル枡形道路でした。またまた枡形、警戒心旺盛な深井です。 |
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東深井信号を過ぎた左手に青面金剛と書かれ文字の下に三猿が彫られた庚申塔(左)があります。左のだみち、きのさきみち、右なりた、ふせとある、道標を兼ねた文化12(1815)年のものです。すぐ先の右手には壊れかけた赤い小さな祠があります。稲荷神社らしいがはっきりはしませんが。 ![]() しばらく先の左手に駒形神社(右)があります。 入口に小金牧に因んで建てたのだろう、さまざまなポーズの野馬を描いた大きな石碑が置かれています。 拝殿前の碑に、この付近には野馬放牧場の小金牧があり、良馬の産地として知られていた。駒形神社の創建は、応永6(1399)年で誉田別命(ほんだわけのみこと)を祭神として、六百有余年地域の産土神として崇敬を受けている。 社伝によると、源八幡太郎義家が奥州出陣に立ち寄り、愛馬を繋ぎ憩われた椋の木の後裔が鳥居左手に残されている、と。残念ながら駒繋ぎの椋の木は気が付きませんでした。 境内の左手奥に小さな富士塚があります。石段が7段あるのですが、2歩で頂上へ到達しそう。頂上には浅間大神と大山津見命の碑が建っています。 富士塚の左手に文字だけだったり像が彫られたりの庚申塔が七基、不動明王や侍従大権現などと書かれた石塔も並んでいます。 左手に新川郵便局を過ぎた先に祠があります。この祠もいかなる神様が祀られているのか?。脇に御嶽坐×と書かれた石塔もあります。少し先には祠に入った馬頭観音があります。 左手に運河駅を過ぎ、利根運河(下)に架かる運河橋を渡ります。そして利根運河の土手、運河水辺公園で小休止です。 ![]() ![]() 江戸時代初期に利根川は水害を防止する目的で、関宿で銚子へ至る利根川と東京湾に流れ込む江戸川に分流された。 結果、東北の太平洋岸と江戸を結ぶルートとして、房総半島を回るルートとは別に利根川を遡り、関宿経由で江戸川から江戸へ入るルートができた。 利根川ルートには途中に浅瀬があり、大型船が通過できず荷を積み替えたりの手間があった。また関宿経由は距離が長く、陸路でショートカットする場合もあった。 物流量が増えた明治になり、この陸路部に運河を通す計画がたてられた。明治19(1886)年オランダ人技師ムルデルの指揮で工事に着手、明治23(1890)年に工事が完成した。それが利根運河で最盛期の船運は年間約37,600隻にもなったと。 しかし明治29年に現常磐線、明治30年に現総武本線が開通して船運は急激に衰退してしまった。 その後、運河は洪水対策として改修され、この周辺は運河水辺公園になっています。 さて街道に戻ろうとした道端に祠を見付けます。祠の隣に可愛いビリケンさん(右)がいます。とんがり頭に吊り上がった目、そして足を投げ出した例のポーズで。足の裏をなでてやると幸運が舞い込むと言われます。しかしここで足裏をなでてから約1年、未だ幸運が舞い込みそうな兆しはなし。 ところでこのビリケンさん、今年(2018年)の4月に不心得者により倒された、のニュースが報じられました。が、その後どうなったのか心配です。 昼飯と地図に載る店まで行ったが、居酒屋っぽくどうもの感が。途中にあった幸楽苑まで戻ります。 |
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![]() 江戸川病院を過ぎた左手、ライオンズガーデン野田梅郷の隣に木彫りの仏像が祀られた祠と、享保12(1727)年の六十六部供養塔(左)があります。すぐ隣に5基の石塔(右)が並んでいます。右から二番目は長い立派なあごひげを蓄えた格好良い翁の像です。 その隣は元文2(1737)年の青面金剛像の庚申塔、更に隣は文字で猿田彦大神で明治5(1875)年のもの。一番左のは風化により表面がすっかり削られて文字は読めません。 この五つの石塔ですが、ボロボロのがある一方、ほとんど傷んでないのもあります。材質の差が長い間にこんなにもなるんですね。 電柱に史跡山崎貝塚の標識があります。その角を左に曲がると正面に山崎貝塚跡(下)があります。 山崎遺跡は馬蹄形をした貝塚を伴う集落で、広さは12,900uもある。縄文時代の中期から後期にかけての土器、石器、石斧、耳飾り、土偶などが出土され、貝層からは、シジミ、ハマグリ、アサリ、マガキなど貝類の他に獣骨なども出土され、当時の食料事情を知る貴重な資料になっている、と。マガキやハマグリ、それに獣肉とは、はやとちりの口には滅多に入らない高級な貝を食べていたようです。 端から一望する貝塚はだだっ広い畑のようですが、足元に目を落とすと小さな貝殻がいっぱい散らばっています。こんなに散らばっている貝殻や、この広さから推してかなりの人が暮らしていたのだろうことが推測されます。 |
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![]() 山崎貝塚 |
![]() 十社子安観音 |
![]() 海福寺 |
街道に戻って午後1時です。 話は戻りますが、利根運河を渡り昼食を摂った付近で流山市から野田市に入りました。毎度頼みにしている「町の達人」(地図・千葉県版)が今日は歩きだしからずっと三万分の一の縮小になっていて、分かりずらく苦労していました。ですが、野田市に入るや野田市観光協会にお願いした「野田市観光ガイドマップ」が大いに役立ち活躍しています。 左手に十社子安大明神(上)の祠があります。左脇に小さな雷神宮の石祠、右脇にはこれも小さな侍道社の石祠があります。しばらく先の右手に墓地があります。明浄寺が移転して墓地だけが残されたそうです。 すぐ先、「老人ホームここち野田」のある十字路を左に入ると突き当りに海福寺(上)があります。天正18(1590)年徳川家康が江戸に入ると、家臣岡部長盛は下総山崎に入封し堤台城を築いた。海福寺は、慶長4(1599)年その城域に長盛と母が先祖の霊を弔うために創建したと伝えられています。 境内に東日本大震災の復興を願う阿弥陀如来像が建っています。七福神の起源についてと題する説明板もあります。それによると徳川家康から相談を受けた、天海僧正が仁王般若経の中の七難即滅、七福即生から七つの福を与えるを思いつき、徳川家康が祀り始めた、が諸説の中でも有力だと。この説、すぐに忘れそう。それと七福神ですが、大黒天、弁財天、毘沙門天はインドの神様、布袋和尚は中国の人、寿老人と福禄寿は中国の伝説の星の化身、日本の神様は恵比寿さんだけだそうです。 |
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![]() 街道に戻り、緩くカーブしながらの坂道を下ります。野田聖華幼稚園の運動会が終わったらしい、園児がその母親や父親とともに道路にあふれています。最近は両親の祖父母もくるので、園児一人に付け人六人と言われますが、歩いている人は若い人ばかりです。まさか、人数の制限はしていないでしょうが。野田市山崎信号の右手にブロック塀にはめ込まれた祠があり地蔵立像(左)が祀られています。延宝3(1675)年のものです。 その隣は、黒板塀とツツジの生垣の奥に立派な門が見えます。塀や門の上から庭木の緑が枝を覗かせるお屋敷です。 通りに面してもお屋敷の黒板塀(右)が延々と続きます。かっても今も山崎宿の名士であることは間違いないでしょう。 山崎宿を検索していて面白い話に出会いました。新選組の永倉新八と原田左之助は大の仲良しだった。江戸城無血開城を知った二人は、靖兵隊に加わり日光東往還を日光を目指します。途中山崎宿で原田左之助が所用で隊を離れ、それによりここが二人の別れの地になったそうです。永倉新八は長生きし板橋宿に近藤勇、土方歳三の墓を作ったことは中山道を歩き知りましたが、原田左之助はどんな生涯を送ったのか。 山崎信号の先からは道路が広くなっています。その広い道路の交差点両側に新しい常夜灯が設置されています。右手奥に梅郷駅が見える交差点です。常夜灯に説明文が。山崎宿は日光東往還最初の宿場で、野田市内には他に中里宿、関宿宿がありました。日光街道は将軍の社参の折や、参勤交代、旗本など多くの通行がありました。 東往還は将軍社参の折、警護する諸大名が休憩、宿泊したとの記録があります。山崎宿のは特定の本陣や脇本陣はなく、その都度名主や問屋場などが協議して、本陣、脇本陣的な休憩、宿泊場所を決めました。 文化3(1806)年の山崎宿絵図に道路中央に秋葉常夜灯が記されていて、昭和初期にそれを復元します。しかしそれも老朽化し梅郷公民館に移築するとともに、山崎宿を後世に伝えようと、新たに常夜灯を設置しました。(平成26年1月吉日) ![]() 信号の右手に福寿院(左)があります。応永12(1405)年の創建だそうで、山崎宿本陣に指定されたこともあるようです。 長い参道の途中に如意輪観音と六地蔵、地蔵菩薩立像があります。本堂左手には、新四国八十八箇所の大師堂らしき祠があります。が、札所番号がありません。その裏側にも十九夜塔、庚申塔、百万遍供養塔等の石塔が並んでいます。 参道を戻る途中右手に祠が見えます。秋葉神社(右)です。由緒碑によると、正式名称は秋葉山三尺坊大権現で剣難、火難、水難の神と言われるが、特に火伏の神として信仰が厚い。明治初年の神仏分離政策により現在の秋葉神社となりました、と。分離政策により福寿院と分れたのだろうと推定します。 梅郷駅西口信号が今日のゴールで、午後1時40分、13,997歩でした。 梅郷駅へ行こうとすると、街道のかなり先にファッションセンターしまむらの看板を見付けたつれが寄ると。結果は、目ぼしいものもなし。疲れを倍加させてトボトボ梅郷駅へ。 |
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