青梅街道 を歩く        .新宿追分から荻窪     平成27年10月24日 (土)   晴

青梅街道は、慶長8(1,603)年江戸城築城の為に使う御用石灰を、採取場の青梅成木村から江戸へ運搬するために、大久保長安の指揮の下、武蔵野原野を開拓して整備された街道で当時は成木街道と呼ばれていた。青梅街道の名は江戸時代中頃からの紀行文などに見らるようになります。
内藤新宿で甲州街道と分かれ、青梅を経由し甲府の酒折で再び甲州街道に合流することから、甲州裏街道とも呼ばれていました。
1.新宿〜荻窪 2.荻窪〜田無 3.田無〜東大和 4.東大和〜箱根ヶ崎 5.箱根ヶ崎〜青梅


新宿三丁目交差点に8時45分。この付近が甲州街道と青梅街道の追分で、追分団子店前の歩道に「新宿元標 ここが追分」と書かれた丸いプレートがはめ込まれています。これは甲州街道を歩いた平成19年12月4日に見ています。今回は追分団子も開店前で買えないだろうと、素通りしてまず新宿四丁目の先にある天龍寺を目指します。

天龍寺は立派な山門を備えた風格のある曹洞宗の寺で、訪れた理由は時の鐘(左)を見る為です。
説明文によると、元禄13(1,700)年に常陸笠間藩主牧野備前守貞長により寄進されたもので、現在の鐘は元禄13年の初鋳、寛保2(1,743)年の改鋳に続く明和4(1,767)年の3代目で、新宿区指定有形文化財になっています。
内藤新宿は江戸市内に遠く、登城する武士達の為に明け六つの鐘を30分早く撞いたと伝えられています。また、内藤新宿で遊興する人々を追い出す合図として「追い出しの鐘」と呼ばれたそうです。
やぐら時計も新宿区指定有形文化財で、時の鐘とともに牧野備前守が寄進したもので、この時計をもとに鐘を撞いたと言います。造られた年代は不明ですが、寄進されたのは現在の鐘と同じ明和4年と考えられます。

9時10分、新宿三丁目交差点に戻り、伊勢丹を右に見て新宿通りの旧青梅街道を北西方向へと歩き始めます。ちょっと行くと新宿追分バス停があります。このバス停の名も甲州街道と青梅街道の追分がこの付近だったことからのもの。



新宿東口広場の一角に馬水槽(右)があります。
東京の水道育ての親、中島鋭司博士が明治34年頃に欧米を視察した際にロンドン水槽協会から寄贈されたもので、大正初期まで荷馬車の馬がこれを利用していたそうで、新宿区有形文化財に指定されています。
前面上部が馬の水飲み場、下部が犬、猫用になっていて、裏面は人間の水飲み場になっていますが、元来は動物愛護の観点で造られたものだそうです。
東口広場ではイベン開催の準備中で、馬水槽も含め一帯がロープで仕切られていて、このロープを跨いだはやとちりに警備員がとんできました。事情を話して撮影したのがこの写真。昨今のセキュリティーの厳しさを目の当たりにしたひとこまでした。


新宿駅北でガード下を東から西へ抜ける道が旧青梅街道。入口からガード下にかけて青梅街道の宿場の紹介や、その昔と今の対比など説明や写真がいっぱい掲げられています。

ガード下を抜け、サラリーマンの憩いの「思い出横丁」へ、旧街道を外れて入ってみます。焼き鳥、ウナギなどの看板が軒を連ねる小路は、どの店も開店準備中で開いている店はありません。小路には配達の車が目立ち、人通りはまばら。


新都心歩道橋下交差点を左に曲がった左手のエルタワー西側の駐車場入り口に淀橋浄水場跡があります。明治31年から昭和40年まで東京の給水施設の中心であった淀橋浄水場正門跡です。

駐車場入り口の右手側に策の井(むちのい)跡(左)があります。
名水として知られていた井戸で、徳川家康が鷹狩の帰りにのどを潤し、策(むち)の汚れを洗ったことからこの名がついたそうです。


新都心歩道橋下交差点から青梅街道へ戻ります。この歩道橋で地図を片手にきょろきょろしている年配のご婦人がいました。助けてやりたいのはやまやまですが、おのぼりさん状態のはやとちりには何の役にもたちそうもなく、申し訳ありませんが素通りを決め込みます。

すぐ右手に常円寺があります。山号を福聚山、通称成子と言われる。前の通り、成子坂はここからきているのだろう。本尊の三宝尊は水戸光圀寄進の新宿区指定文化財らしい。境内入口右手に便便館湖鯉鮒作三度たく米さえこわし柔らかし思うままにはならぬ世の中の狂歌碑があり、これは区指定史跡で太田蜀山人の筆です。日本銀行や東京駅を設計した辰野金吾やロシアとの通商にあたった、筒井政憲などの墓もあります。、

隣が常泉院です。浄行菩薩は六根を清めてくれます。富士登山などで六根清浄と唱えながら登っていますが、六根とは「目、鼻、口、舌、身、心」なんだそうです。無知を恥つつ水かけ祈願。
鬼子母神堂もあります。

坂を下りかけた右手に成子天神社(右)があります。マクワウリの産地だったとの説明板もあります。はやとちりの小学生時代は「美味いな〜」なんて常に食べていたんですが、今では甘いメロンに押されて、栽培している農家もないのでは。

力石が7個あります。40貫とか58貫とかの重さで虎松、喜太郎、亀次郎などの名が刻まれています。これを持ち上げたのだろうか。神社の奥の富士塚は新宿区の文化財。説明板によれば、大正9(1,920)年に築かれた区内で最も新しい塚だが、約12mは区内最大規模とのこと。
往時はかなり見晴らしが良かったのだろうが、今山頂からの眺めは、見上げるばかりのビルの群。
文化13(1,816)年の狛犬が西側参道にありました。それほど年代物でもないのに、どっちが頭か尻尾なのか定かでないほどに傷んでいます。


坂を下った成子天神下信号の左手に成子子育て地蔵尊(左)があります。享保12(1,727)年に建立、天保年間に再建した。しかし戦災で昭和20年に壊れてしまい昭和26年に再建されたそうです。
説明文に近隣住民のよりどころになっているとありますが、戦災で消滅した地蔵尊を再建したことを考えても、近隣の方が大切にして敬っていることが良く分かります。


坂を下って神田川に架かる淀橋を渡ります。淀橋の名は、三代将軍徳川家光が名付けたと言われています。昔このあたりで中野長者と呼ばれていた鈴木九郎が財産を地中に隠すために人を使ったが、他人に財産が知れることを恐れ手伝った者を神田川に投げ込んだ。行くときは九郎と橋を渡った者が帰りには見えなくなったことから「姿見ずの橋」とか「いとま乞の橋」と呼ばれていました。
鷹狩の折に訪れた家光がこの話を聞き、「不吉な話で良くない。景色が淀川を思い出させることから、淀橋に改めよ」と命じこの橋名になったと。



その中野長者鈴木九郎が屋敷跡に建てた寺が成願寺で、中野坂上交差点の南300mにあります。鈴木九郎は慈しみ育てた一人娘の死を悲しみ、そして罪もない者を殺したことを悔い、仏門で余生を送るがために建てた寺です。
蓮池鍋島藩の墓域には藩主の五輪塔など十基の墓が並んでいます。その右奥には鍋島地蔵が建っています。


成願寺から戻る途中の百円ショップダイソーを右に入った朝日が丘公園に象小屋跡があります。享保13(1,728)年に徳川吉宗に献上するためにベトナム象が連れてこられた。浜御殿でしばらく飼っていたが、エサ代や大人になって凶暴になったことから払い下げることにしたが、貰い手がいなかった。後に浜御殿にエサを運んでいた中野村の源助に下げ渡され、ここに象小屋を建て飼育していたそうです。
当初は、珍しいので見物する人が多かったらしいが次第にあきられたらしい。源助さん、象の糞を疱瘡やはしかの薬だと言って売っていたらしいが、効能はともかく服用した者こそいい迷惑。

中野坂上から先に進むと右手に宝仙寺(左)があります。寛治年間(1,087〜93)源義家開基の寺で、本尊は義家が後三年の役に護持していた不動明王です。
寛政13(1,801)年建立の三重塔があったが戦災で焼失し、平成4年に奈良法起寺の三重塔を模して再建されています。その前に古い石臼を積み重ねた塚があり、脇に中野町役場跡碑が建っています。

宝仙寺の塀沿いに西へ行くと左手にやままさ醤油醸造所のレンガ塀が移築保存されています。明治32(1,899)年の建造と思われ、当時味噌、醤油醸造とそば粉製造は中野の代表的地場産業だったようです。そして、この付近が中野の商工業の中心地だったようです。

その先突き当り気味に明徳稲荷神社があります。慶応3(1,867)年の手水鉢は火山岩を利用して作られています。

街道に戻った先に慈眼寺があります。天文13(1,544)年創建と伝えられ、境内の氷川堂には15代住職覚順和尚が祀られています。納骨堂や鐘楼はインドか中国を感じさせます。尤もインドの寺院も中国の寺院も見たことがないので感覚的にですが。

本堂左手の庚申塔や馬頭観音などの石仏群は青梅街道沿いなどにあったものが道路拡幅工事などによりここに集められています。南無阿弥陀仏と六字名号が刻まれた馬頭観音は、左あふめ道、右いくさみちと刻まれ道標になっています。元は青梅街道と石神井道との分岐する三叉路にありました。


歩いている歩道の前からも後ろからも自転車がひっきりなしに行き交います。平坦な道だからと、駅までちょっと距離があるので、自転車利用者が多いのだろう。後期高齢者のはやとちりは、真っ直ぐ歩かず右へ左へと蛇行するらしい。「自転車が来るわよ」とつれにたびたび注意されるしははなはだ迷惑な自転車だ。


鍋屋横丁交差点で交差する道路は、鍋屋横丁。横丁とは呼べない広い道で、この付近に鍋屋と言う茶屋があったことからこう呼ばれました。横丁は妙法寺への参道になっていたことから大いに栄えていたとのことです。


鍋屋横丁から600m程の右手に北野神社(左)があります。小さな社殿にそぐわないほどの大銀杏が聳え立っています。江戸時代からここにあり、東は追分、鍋谷横丁から西は高円寺押出、金灯篭周辺から望見できた、とあります。
大きな榧(かや)の木もあり、年配の女性が実を拾っています。炒って食べるとアーモンドのようで美味しい、とのこと。拾うのを協力しがてら我々もたった5粒だけど持ち帰り炒めました。ほのかな香りと歯ごたえは酒にあうな。今度また出会って、覚えていたら拾って来よう。覚えているかな?

この神社付近で中野区から杉並区に入ります。向かいに新渡戸文化短大の案内板を持った学生がいます。学校案内かな?。おそらくと思いながら聞いたんですが、やはり新渡戸稲造氏が創始者だそうです。

しばらく先の左手に蚕糸の森公園があります。案内板によると蚕糸試験場の跡地に、昭和61年に造られた公園です。枝垂れ桑が植えられていますが、蚕糸試験場時代に桑の品種改良用に集めた中にあったものを観賞用として残したようです。
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環七を高円寺陸橋下で横断し、700m程先の左手に清見寺があります。案内板に、寺前の青梅街道は江戸時代初期に開かれた杉並地域の基幹道路で、現在でも生活上、産業上に重要な役割を担っている、と。また明治の一時期に小学校の分校が置かれていたとも。


その先、成田東4交差点を左折した先に、海運寺があります。その西隣が天桂寺(右)です。源平一の谷の戦で薩摩守平忠度を討ち取った源氏の武将岡部六弥太忠澄の子孫で旧田端村領主、岡部吉正が慶長年間に創建した寺で岡部氏の菩提寺。杉並の地名は岡部氏が青梅街道沿いに植えた杉並木に由来すると言われています。

余談ですが、はやとちりは平成19年10月に中山道深谷宿で平忠度の墓と岡部六弥太の墓を見ています。

街道に戻り、杉並木ならぬイチョウ並木を北西へ進み、天沼陸橋信号で左に青梅街道から外れます。すぐ先がJR中央線荻窪駅でここが今日のゴール。午後2時30分、19,594歩でした。
疲れているが、甘いものでも買って帰ろうと、駅付近をうろついたんですが、和菓子の店どころか洋菓子店もなく疲れを倍加させてしまいました。駅のホームで気がついたんですが、駅の反対側のほうがお店がいっぱいありそう。


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