青梅街道 を歩く        .箱根ヶ崎から青梅    平成27年12月20日 (日)   晴



10時15分に箱根ヶ崎駅前から歩き始めます。駅前に馬の水飲み場(左)が復元されています。荒涼とした原野であった田無から箱根ヶ崎間で水路の確保および馬継立場開設により地域の発展をもたらした小川九郎兵衛の大きな功績を讃えるものだ。
馬の水飲み場に薄い氷が張っています。出がけに寒さは感じましたが氷が張るほどではなかったんですが。ここ、かなり北なのですね。


箱根ヶ崎信号を左折した左手の酒屋に「どぶろくあります」の貼り紙が。「この前に気が付いていたら買ったのに」と言うと、つれが「気が付いていたけれどどぶろくなんて飲まないと思って」と。ちょっと残念。

歩き始めた電柱に「青梅街道」の表示があります。すぐに八高線の踏切を渡り、二股を左に行きます。右への道路は岩蔵街道。瑞穂松原信号で左からの道と合流し直進します。信号左手茶畑の奥に白い漆喰造りの蔵が見えます。


国道16号線と交差する箱根ヶ崎西信号を過ぎた東長岡信号の左手に東善院があります。境内の左手に北向き地蔵尊が祠に祀られています。脇に珍しい馬に跨った地蔵尊があります。甲冑こそ身に着けていませんが、馬に跨り右手に錫杖、左の手の平に如意宝珠を載せた姿はまさに勝軍地蔵尊(しょうぐんじぞうそん・左)そのものです。

はやとちり、北国街道で小諸から上田への途中の田中宿で甲冑姿で軍馬に跨る勝軍地蔵を初めて見ました。悪行や煩悩を破り勝という仏と説明されていました。更にこの地蔵尊に祈れば戦に勝つ、と鎌倉以降武者の間で古くから信仰されていたようです。

境内の椎だか樫だか大きく広げた枝葉の中でさかんに小鳥が囀っています。つれが双眼鏡で探しますが葉に邪魔されて見つけられないと残念そう。大きな枝垂れ桜もあり、その時期には素晴らしいだろう。

新町境信号で青梅市に入ります。この信号を右に入る道は伝馬道。江戸時代初期の開拓者吉野織部之助等により、成木から八王子、小田原へ向っていた古伝馬道を江戸へ向かう道として青梅街道に合流させたそうです。

ガソリンスタンドのレギュラーが108円になっています。ずいぶん安くなったもんだ、とここで感心していました。しかしその後100円を切りましたが、原油価格は不安定。最も、月200q走るかどうかのドライバーにはあまり関係ありませんがね。

工業団地入口信号を過ぎた左手にコメダ珈琲があります。この店を結構気にいっているつれは「早いけど、入ろうか」に当然のように頷きます。ミソカツサンドともう一つサンドイッチ(左)を注文しますが、運ばれたそれぞれがボリュームたっぷりでとてもじゃないが食べられそうもありません。思い出せば中山道を各務ヶ原から歩いた時に初めてコメダ珈琲に入り大盛すぎる氷あずきに目の奥や脳天をキンキンさせながら格闘したことを思い出します。

つれは,シロノワールと言うデザートまで注文していて、これは何とか胃袋に。しかしやっぱり、サンドイッチの半分は持ち帰りにさせてもらいました。持ち帰ったのを途中どこかで食べたのですが、何処だったか思い出せません。
昼にはかなり早い時間だったにもかかわらず、待たされたこともあって店を出たのは12時25分。

新町桜株交差点の右に庚申塔馬頭観音(右)があります。庚申塔には右江戸道、馬頭観音には左川越道と刻まれているそうで、道標になっています。

交差点の南東側は青梅東武新町土地区画整理事業完成記念広場で青梅東武新町土地区画整理事業案内板が設置されていて整理事業施工前と施工後の土地区画状況図が描かれています。

新町桜株交差点を過ぎた少し先に東禅寺(左)があります。入口に六地蔵と天保5(1,834)年の庚申塔がある。二つ目の山門をくぐった先の石灯籠は宝暦(1,751〜64)と読めた。

新町交番前の道路脇左手に小さな笹本家井戸跡碑、その先には塩野家井戸跡碑があります。この先あちらこちらで井戸跡碑を目にします。
水不足に対処するためにどの家庭でも井戸を掘ったのだろうと推測します。

御嶽神社入口信号交差点の右手に大きな常夜灯があります。その交差点を右に曲がった先の大井戸公園に青梅新町の大井戸(右)があります。
東京都教育庁の資料によると、吉野織部之助は、水がないために開発が遅れていた武蔵野に新田を開発して集落を作ります。その開墾と同時に井戸を掘り、この大井戸は新町開墾の象徴と言われていました。しかし平成の発掘調査により、出土物などからこの大井戸は江戸時代より以前に掘られた可能性があることが分かってきた、と。

青梅市教育委員会の資料では、吉野織部之助の開村記に5か所に井戸を設けたことが記されていて、その内の2ヶ所が現存してその形状は大井戸とは大きく異なっている、とあります。つまり、吉野織部之助により掘られた井戸は、大井戸ではないが新町村開墾の象徴であることに間違いはないということです。

はやとちりはこの大井戸と同じらせん状に掘られた井戸、七曲井を平成25年5月に鎌倉街道上つ道の狭山市で見ています。それは平安時代に掘られたと考えられ江戸時代まで使われていた、とあります。青梅新町の大井戸がいつ掘られたのかは今後はっきりするでしょうが、武蔵野では平安の昔からこの工法で井戸を掘っていたようです。

この公園は大井戸だけではなく、牡丹も有名らしい。団体を引率するガイドさんが「もう終わってしまいましたが」と説明していたのを脇を通りながら小耳に挟みます。成る程、周りを見まわすと、公園の一画にかなりの株数の牡丹園がありました。
公園の更に奥に赤い鳥居が見えます。御嶽神社です。新町開拓の祖、吉野織部之助が新町開拓と同時に大和金峰山権現を勧請して元和2(1,616)年に御嶽大権現と称して創建した村の鎮守様。


街道に戻った少し先の右手に茅葺入母屋造りの旧家があります。旧吉野家(左)です。慶長16(1.611)年から、吉野織部之助により開墾された新町村の名主を代々務めた吉野家住宅で、現在の住宅は安政2(1,855)年に建てられたもの。昭和51年までは住居としていたそうですが、現在の14代目は裏手に住まわれています。

少し先右手に鈴法寺公園があります。鈴法寺跡です。
鈴法寺は武蔵国幸手に創立されたが、鈴法寺20世月山和尚が吉野織部之助と同じ忍城主成田氏の遺臣の子だった関係で慶長18(1,613)年に新町に移転した全国に2ヶ寺しかない普化宗の総本山。
普化宗は中国の唐代に成立した禅宗の一派で虚無僧の姿をしていることで知られています。江戸時代初期には幕府の庇護もあり大いに栄えたが、後には浪人の隠れ家ともなり幕末になり幕府の干渉を受け、明治4(1,871)年普化宗の廃宗に伴い鈴法寺も廃寺、明治28年に焼失しています。

廃宗の際、鈴法寺の観音堂と「武叢禅林」と書かれた扁額を東禅寺に移転しているそうです。扁額は市の重要文化財になっています。東禅寺はさっき寄ったばかり。しかしその時にこの事実を知らなかったので残念ながら扁額はおろか観音堂さえ確認していません。

野上交差点に差し掛かります。旧青梅街道は大曲りと称してこの付近から大きく右に曲がっていたそうですが、その道は消滅しています。やむなく野上交差点を右折し二つ目の信号を左折、少し先の霞台第二住宅西信号を過ぎます。旧青梅街道の大曲りは野上信号からこの信号に向かって通じていたと推定されます。すぐ先の二股を右に行くと右手に道間公園があり、ここでちょっと一息入れます。

その先、東梅市民センターを過ぎて十字路を右折すると右手の民家の庭先に蝋梅がもう咲いていまて、風下ではほのかな淡い香りが漂よいます。東青梅5北信号を左折しすぐに右斜めに入ります。その二股の角に天明6(1,785)年の南無阿弥陀仏と刻まれた名号碑(右)があり、右江戸道、左川越道と彫られて道標になっています。脇に説明板が立っているんですが、文字は完全に消滅しています。折角設置したのなら、メンテナンスもしてもらいたい。

東青梅三丁目自治会館を過ぎた右手の旧家に釣瓶井戸があります。今はもう使っていないようですが。すぐ先右手に青梅六万部薬師堂があります。天正18(1,590)年師岡城落城後の疫病流行の祓いと戦死者の追福を祈願して法華経六万部を読誦書写して創立した。堂内には本尊の薬師如来と日光、月光両菩薩、地蔵菩薩、十二神将が置かれています。

東青梅北口信号で左手からの道と合流して右に曲がるとすぐ先が成木街道入口信号です。信号を右に入る成木街道を行くと、前述の師岡城址があるそうです。地図を見るとそれらしい所に師岡神社があります。しかし、おそらくそこだろうと推測しただけでそのまま信号を直進します。間もなく青梅線の踏切を渡ります。そこに周辺案内図がありますが、この地図南北が逆転していて見難いものだ。

勝沼信号を右に曲がり、青梅線を越えた先の自然石の石段を上った小高い所に乗願寺があります。乗願寺は正安2(1,300)年の開山と伝えられる古刹で、相模原市当麻の無量光寺の末寺。阿弥陀如来を本尊とし、寺宝として三田綱秀が用いたと伝えられる兜の前立てと旗指物があり、青梅市文化財に指定されています。石段の下に庚申塔が石橋供養塔の台座に乗っているのを帰りがけに気付きます。

三田綱秀とはどんな武将だったのか調べました。鎌倉時代から続く名門で勝沼城を居城としていましたが後北条氏に滅ぼされます。勝沼城は師岡氏の居城となり師岡城と呼ばれるようになります。師岡城は天正18(1,590)年の豊臣秀吉小田原攻めにより廃城になったと考えられています、三田氏を調べた結果、ついでに師岡城についても知る結果になりました。

街道に戻ったすぐの右手に勝沼神社入口があります。勝沼城主三田長綱により正安3(1,301)年に創建された歴史ある神社ですが、青梅線を越えたかなり高台に見えるのでパスします。

街道沿いに連子格子の旧家や蔵造りの家など点在し宿場情緒を漂わせます。マンホールの絵柄は青梅に因んだ梅に鶯です。

その先宗徳寺がやはり青梅線を越えた先にあります。枝垂れ桜の古木が印象に残ります。

右手に野菜の無人スタンドがあります。おあつらえ向きの場所にあってくれたとつれはしばらく足を止め慎重に品定めをしています。


秋川街道と分岐する住江町信号を過ぎます。この付近からはやとちり若かりしころの映画の看板が、そこここの壁面にあふれます。これで古き良き昭和を演出しているそうです。が、はやとちり個人の印象としてはただただゴテゴテした印象を受けただけ。古き良き時代を演出するのなら、もう少し先江戸時代まで遡って欲しかった。

右手に住吉神社があります。参道両側に露店が立ち並んでいて、たいそうな人だかりです。個人が手作り品を持ち寄り、月一度第3日曜日に開催している「青梅手作りいっぱい市」だそうです。竹籠に手を伸ばしたが、値札を見て伸ばした手を引っ込めます。
神社へ上る石段ではギターの弾き語りをやっていて、かなりの人だかり。その脇をすり抜ける勇気も、そしてそれほどまでして行く必要もなく歌声を背中に引き返します。

この付近から映画の看板が更に多くなります。赤塚不二夫会館や昭和レトロ商品博物館もありますが、横目にして素通りします。博物館のすぐ先の白木屋呉服店とか青梅駅前を過ぎた図書館入口信号の先にある油屋の看板が掛かる店や隣の店など情緒ある商店も点在しています。くどいようですが、はやとちりとしてはこういったお店の方によっぽど魅力を感じます。

青梅坂下信号で右手に別れる道は小曾木街道で、すぐに急な上り坂になっていて険しさを窺がわせる街道です。信号を過ぎた少し先の右手に旧稲葉家住宅(左)蔵造り2階建ての母屋と門が並んでいます。
稲葉家は江戸時代に青梅宿の町年寄を務めた材木問屋で後には青梅織物の問屋として青梅でも有数の豪商でした。母屋の造りは1階店舗部分は間口いっぱいに土間を持つ土間形式で防火戸の収納部となる袖壁を左右に持ち、2階部分は土戸で守られた窓を持つ豪壮な登梁様式になっています。この様式からの推定で江戸時代後期に建てられたと考えられています。

すぐ先左手に南無大師遍照金剛の大きな碑があります。そこを左に坂を下ると右手に金剛寺(右)があります。
金剛寺は承平年間(931〜937)平将門が馬の鞭としていた梅の枝を地にさして、「我が望み叶うなら根付くべし、その暁には必ず寺建立を奉ずるべし」と誓った。この枝が見事に根付き葉を茂らせたのがこの寺の由緒だそうです。
その将門伝説を持つ梅の古木の実は季節が過ぎても黄熟せず青いままの為「あおうめ」と称せられ青梅市の名の由来になったと言います。

青梅村などを支配する代官だった高室四郎左衛門尉昌直など近在の名士18名が寛文6(1,666)年に寄進した市指定文化財の銅鍾も入口付近にあります。この梵鐘は将門伝説を伝える金剛寺縁起が刻印された貴重な最古の文献だそうです。

街道に戻り先に進むと道は右に曲がり、突き当り気味に左手に熊野神社があります。森下陣屋跡です。天正18(1,590)年徳川家康が関東に入国して、八王子に代官所を設けその出張所として森下陣屋が置かれ、陣屋の鎮守として祀られたのが熊野神社です。神社左手に聳えるシラカシは陣屋が置かれた時に熊野神社の境内に植えられたもので、樹齢400年を超える青梅市天然記念物です。

この陣屋跡は青梅宿のはずれにあります。旧青梅街道はこの先多摩川に沿って甲斐の国に入り、大菩薩峠を越え甲州街道に合流するのですが、はやとちり一行としての青梅街道は「江戸城改修のための石灰を運んだ道」、としてここ青梅宿の陣屋跡で青梅街道踏破になります。到着時間は13時05分、19,419歩でした。

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