| 日光御成道 を歩く | 1.日本橋から上中里駅 平成23年11月12日 (土) 晴時々曇 | |||
| 日光御成道は徳川歴代将軍が家康を祀った日光東照宮へ社参(御成り)する街道であったことからこう呼ばれています。勿論一般の旅人の往来もあり、岩槻城下に通じていたことから岩槻街道とも呼ばれ、幸手宿で日光街道に合流します。 道筋に岩槻街道(日光御成道)説明板が各所に設置されています。それには、この街道は江戸の頃将軍が日光東照宮にお参りする為に通る道であることから「将軍御成道」といわれ重要な道路であった。 人形の町岩槻に通じている道路で岩槻街道と言う。現在の東京大学農学部前の本郷追分で旧中山道と別れ駒込へと直進し王子、岩渕を経て荒川を渡り岩槻へと向かう。 将軍は江戸城を発ち、岩槻に一泊、更に古河城、宇都宮城に泊って日光に入ったと言われている。将軍が通る時は警護が厳重で沿道に住む人達はたいそう不自由な思いをしたという逸話も残っている。 |
1.日本橋から 2.岩渕宿 3.川口宿 4.鳩ケ谷宿 5.大門宿 6.岩槻宿へ 7.岩槻宿から 8.幸手宿 |
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| 東日本大震災から8ヶ月、水戸街道の最終日に水戸市内で震度6弱の地震に遭遇し、気も心もすっかり参ってしまったつれにもようやく街道を歩く気力が戻って来ました。 しかし「まだ家からあまり遠い所には行きたくない」と言う意向を汲んで、今回は日光御成道を選択しました。 そして、これが何回目だろうか、再び日本橋にやって来て来ました。日本橋川の川面は小春日和の柔らかな陽を受けてキラキラと輝きながらゆったり、ゆったりと流れています。 日本橋を渡った北詰め東側は魚河岸跡。 近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸ッ子達の威勢の良いかけ声が飛び交う魚市が立ち並び、日に千両もの取引が行われる江戸で最も活気のある場所の一つでした。(魚河岸跡説明板より抜粋) 橋の先の三越でトイレを拝借。開店早々にトイレだけの”客とは言えない客”に三越も迷惑だったろうが、兎に角準備万端整えて10時15分に日光御成道を北へと歩き始めます。 三越の獅子像の前では晴れ着に着飾った七五三と思しき親子連れが記念撮影をしています。「そうかもうじき11月15日、七五三なんだ」。身近にそんな年頃の子供が居ないので全く忘れていましたがそんな時期なんですね。 三越の隣はどっしりと落ち着きのある大理石七階建ての三井本館。 三井本館の先の信号を左に入ると日本銀行です。この信号を右に曲がるのが日光街道で、平成21年12月6日には日光を目指してこちらに曲りました。 日光御成道はこのまま本郷追分まで直進します。 室町3(交)を渡った右手、新日本橋駅入口に長崎屋跡があります。 説明板によると、江戸時代の薬種屋、長崎屋は長崎駐在のオランダ商館長の江戸参府中の定宿になっていました。商館長の江戸参府は江戸時代初期から行われ、随行員にケンペルやツンベルク、シーボルト等の医師もおり蘭学に興味を持つ青木昆陽、杉田玄白、中川淳庵、平賀源内等々蘭学者、医師が訪れ江戸における外国文化の交流の場となり又、外国の知識吸収の場として有名になりました。 すぐ先右手に石町時の鐘・鐘撞堂跡と夜半亭・与謝野蕪村住居跡の説明板が並んでいます。 石町の時の鐘は江戸市民に時刻を知らせる為に撞かれ、近くにオランダ商館長の宿舎、長崎屋があったことから「石町の鐘はオランダまで聞こえ」と川柳に詠まれる程に市民に親しまれていたようです。 時の鐘は現在小伝馬町の十思公園に移設されていて、説明板のあるここから公園までの通りを時の鐘通りと呼ばれています。我々、十思公園には日光街道の道すがらに寄っています。 又、夜半亭は俳人早野巴人が時の鐘のほとりに結んだ庵で、巴人の内弟子だった蕪村はここに居住して俳諧の修行に励んだと。 室町4(交)を越えた右手に今川橋跡処碑が小さな池の中に置かれています。池には4〜5匹の錦鯉がゆったりと泳いでいます。 すぐ先の桜井釣具店の会長は和竿作りで千代田区の無形文化財だと。 神田駅の脇で山の手、京浜東北、中央線それと東北・上越新幹線のガードをくぐります。 ![]() くぐった先で中央線が山の手、京浜東北線と分かれて左にカーブして行きます。その中央線の高架橋に沿って御成道も左へ曲ります。 所々道路に阻まれながらも高架橋脇を進むと万世橋際に出ます。橋の脇は旧万世橋駅跡。 その先はさいたま市(大宮)に移転した交通博物館跡地。目下ビル建設工事中で高架脇が通行できず工事現場に沿って迂回しながらすぐに高架脇に戻ります。 戻った高架橋下には御成道説明板(右)が置かれています。 御成道は筋違外広小路の東より上野広小路に至る道を言います。この御成道は将軍が上野寛永寺に墓参の為に通った道で日光御成道とは違います。 すぐその下には中山道の緑色の案内板があります。中山道の時に随分お世話になったもので、木曽の山道など懐かしく思い出されます。 昌平橋で神田川を渡り、湯島聖堂手前を右に昌平坂を上ります。聖堂をぐるりと取り囲む石塀は信長塀だろう。 本郷通りに出たすぐ右側が神田明神。お日柄もよろしく七五三参りの家族連れがいっぱい。七五三を祝ってか獅子舞が奉納され、法被姿のいなせな鳶の姿も目にとまります。 神田明神の門前、天野屋の甘酒を飲みながらちょっと休憩。中山道を歩いた時は店を出てそのまま本郷通りを行ってしまいましたが注意して見るとすぐ右に入る細い道があり、天野屋の塀に例の緑色の中山道の案内板があります。また、魔除けの鍾馗様(左)も。その細い旧道に沿って天野屋の塀がしばらく続きますが、中山道の案内板はその塀にいっぱい取り付けられています。 先程甘酒を飲みながら、天野屋て以外って小さな店だなと思っていたんですが、こんなに奥行きがあっったとはちょっとびっくりしました。 細い旧道をコの字型に曲ってすぐに本郷通りに出ます。 東京医科歯科大学を左手に見ながらしばらく進むと本郷三(交)で、左手角にかねやすがあります。 乳香散という歯磨き粉を売り出して大評判になって店です。享保15(1,730)年の大火後防火を目的に町奉行は江戸城から三丁目までに土蔵造りを奨励し茅葺屋根を禁止した。三丁目から先は木や茅葺屋根が続き、境目にあったかねやすが目立った為”本郷もかねやすまでは江戸の内”と川柳にも詠まれました。 交差点を渡った左手に本郷薬師があり、すぐに別れ橋跡・見返り坂見送り坂の説明板があります。江戸所払となった者がここで後を振り返り、見送りの人達と別れた所。 時は11時54分、時間的には丁度だし、この先での食いっぱぐれを心配する食い意地の突っ張った二人は目に付いた「カフェテラス本郷」に入ります。この日の日替わりランチはイタリアンハンバーグ定食でした。 ![]() 東大の塀とイチョウ並木を行くことしばし、東大の赤門に到着です。 赤門は文政10(1,827)年、加賀藩主前田斎泰に嫁いだ11代将軍徳川家斉の息女溶姫(やすひめ)の為に建てられた御守殿門です。 赤門前には樋口一葉ゆかりの、法真寺がこじんまりとあります。一葉が「桜木の宿」と呼んで懐かしんだ樋口家がすぐ隣にあって、一葉が4歳から9歳までの幼少期を過ごし、樋口家にとって最も豊かで安定した時期だったそうです こなたの二階より見おろすに雲は棚曳く天上界に似て、腰衣の観音様・・・と「ゆく雲」の一文にある腰衣観音(右)が本堂の左手に安置されています。 一葉忌が11月23日にあるので宜しかったらおいで下さいと、境内で一葉ファンかな?声を掛けられました。 東大の赤レンガ塀とクスノキそして街路樹のイチョウ並木はまだまだ続きます。東大正門を過ぎてしばらくすると言問通りと交差し、すぐ先が東大農学部門前で本郷追分になります。 左に曲った右手に本郷追分一里塚説明板があり、中山道は左に日光御成り道はそのまま右手方向に直進します。 |
追分を直進するとすぐ左手に将軍御成り道・岩槻街道の説明板があります。 文京学院大学を過ぎた左手に正行寺があります。門を入った突き当りの古いお堂に赤い帽子を被って納まっているとうがらし地蔵はせきの病に霊験があらたかだそうです。 又この付近は江戸時代に植木屋が多かったことから小苗木縄手と呼ばれ、これが変じてうなぎ縄手と呼ばれていたと。 このすぐ先、向丘一(交)を右に入るとツツジの名所根津神社があります。しかしツツジに時期外れの今は素通りです。 右手の浄心寺前には茶色の衣をつけた大きな布袋様が。自慢の大きな腹を突き出して。そしてその先、左手の天栄寺門前には駒込土物店跡と江戸三大青物市場跡碑(左)が建っています。 土物とは泥の付いた野菜の事で、ここは神田、千住と共に江戸三大市場の一つだったと。 ![]() 常泉寺は十一面観音菩薩が本尊ですが扉がぴったり閉まって御尊顔は拝せません。 しかし境内の石憧六地蔵や線刻地蔵菩薩像(右)など珍しい物を見ることができました。 この先も長元寺、大林寺、十方寺、潮泉寺など右に左に寺が多い寺町通りです。 ![]() そんな寺町の一角、左手の南谷寺は江戸五色不動の一つ目赤不動(左)で知られています。 元和年間(1,615〜24)万行和尚が伊賀赤目山で黄金造りの小さな不動明王像を授けられ、諸国を巡り今の動坂に庵を結んだ。寛永年間(1,624〜44)鷹狩りの途中動坂の赤目不動尊に立ち寄った三代将軍家光から現在の土地を賜り、目赤不動尊とせよとの命を受けこの地に移り、一層庶民の信仰を集めた。 剣を持ち、怒りに燃えた形相ながら、南谷寺・赤(文京)、龍泉寺・黒(目黒)、教学院・青(世田谷)、永久寺・黄(台東)、最勝寺・黄(江東)、金乗寺・白(豊島)と共に、五色不動として江戸庶民に親しまれています。 ちょっと暗い堂内に目め凝らしたんですが、兎に角薄暗くて、目玉は赤だったんでしょうが黒っぽく見えるだけでした。 ![]() 右手に吉祥寺(右)があります。 大田道灌が江戸城築城の際井戸の中から吉祥の金印が発見し、城内に一宇を設け吉祥寺と名付けたのが始まり。明暦の大火後の明暦3(1,657)年に現在地に移転しています。 また、吉祥寺(武蔵野市)はこの門前にあった商家の人々が移り住んだ町だそうです。 山門をくぐると真っ直ぐな長い参道の右手奥に二重塔が見え、次に左手の大仏様が目にとまります。 その大仏の手前にお七、吉三郎比翼塚があります。 比翼塚とは愛し合って死んだ男女を一緒に葬った墓のことらしい。我々は中山道の初日、白山の円乗寺にあったお七の墓を見ていますが、千羽鶴や花がいっぱい飾ってあって今でも多くの人がお参りに訪れているらしいことがわかります。 境内の更に奥には二宮尊徳墓碑もあります。尊徳の墓は日光街道の今市宿、報徳二宮神社にもありました。しかし今これを書きながら気が付いたのですが、神社にお墓があるのも珍しいのでは。お吉と言い、尊徳先生と言い有名人は、あちらこちらに墓がありますね。本人達がどう思っているは知りませんが。 少し先の右手に富士神社(左) があります。富士神社は本郷(東京大学構内)にあったが、そこが加賀藩邸となってしまい現在地に移転した。東大の旧地名は本富士村だったそうで、旧地名が地図に残っていないか東大の付近を探すと、本富士署と旧地名の警察署がありました。 神社の境内に入ると御神木のカヤの木が聳え立ち、社は数十段の石段の上。久しぶりの街道ウォークに疲れたらしいつれは「ここで待ってるは」と石段を上る気配なし。 石段を登った鳥居の脇には講中の碑が数基置かれています。いずれも鮮やかな真っ赤な文字が目にしみるようです。 幕府が置かれてからの江戸は人口が増大し特に野菜不足をきたし、江戸近郊では換金作物として野菜作りが盛んになり、この付近でのナスは「駒込なす」として庶民に親しまれた、との説明板もあります。 左手昭和小学校前にも将軍御成道・岩槻街道説明板が立っています。 ![]() 上富士前(交)では信号無視して横断している自転車の若者に、「赤信号だ、横断するな」と交番からマイクで大きな声での注意が。 そんな注意を無視して若者は平然と走り去ってしまいました。こんな輩が多いので我々もよっぽど注意して歩かないと、ど〜んとぶつけられないとも限りません。 すぐ先の左手が六義園(右)です。特別名勝に指定されている回遊式築山泉水庭園の六義園は、徳川綱吉の側用人柳沢吉保により造園され、明治になって三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が購入、のちに東京に寄贈されています。 今回は寄らなかったのですが平成21年3月に来園した時、入口近くのしだれ桜の見事さに目を奪われたものです。 庭園もゆったりと広大で、東京に居る事を忘れそうです。(写真は平成21年) 山手線や宇都宮線を高架で跨ぐ駒込橋を渡り、右手に駒込駅を過ぎます。 左手に大国神社がありますが目下改修工事中です。その先の下り坂は妙義坂です。 右手に見えた駒込図書館でトイレをお借りします。二階に上がってすぐに目に付いたトイレに入ったんですが、落ち着いて眺めると身障者用です。気が付いた途端に居心地が悪くなってしまいましたが、まずは誰も来なくて良かった。気分一新、スッキリとして妙義坂に戻ります。 ![]() 坂の途中の左手奥に妙義神社があります。妙義坂の名もこの神社に由来するもので、日本武尊が東征の際この地に陣をしき、のち白雉2(651)年に社を建て白鳥社と号したと。この故事通りとすれば豊島区内最古の神社と言えます。 大田道灌が戦の前に度々戦勝祈願をして勝利をおさめていることから、戦勝の宮とも呼ばれていたそうです。 境内には駒込の農民によって寛永19(1,642)年に建立された庚申塔もあり、地域の信仰の拠点になっていたようです。(写真は大田道灌戦勝祈願所跡と庚申塔) 元に戻って坂を下りながら振り向くとつれの姿が見当たりません。振り向いた所にあったショーケースのアンティークカメラを眺めてながらしばらく待ったんですがやって来ません。 どうしたのかと、少し戻ると婦人服の店で品定めしながら入っておいでと手招きしています。 洒落たお店で、気に行った品が多く目移りして困っているらしい。我がアドバイスはほとんど参考にはならなかっただろうが、この季節にふさわしいジャケットを一枚手にして店を出ます。 ![]() 左手に旧古河庭園(右)があります。 古河庭園は明治の元勲陸奥宗光の別宅でしたが、次男が古河財閥の養子となって古賀家に所有が移りました。その後隣接地を庭園としたのが始まりです。 ここの”バラ園を見学”するが今日のメインだったんですが、一週間程遅かった。 つれが良性発作性頭位眩暈なんぞと言う病に罹って目を回してしまい、2週間遅らせざるを得なかったからです。しかしほんのわづかですがまだ咲いていたので本人も満足した様子でした。 石造りの洋館の下には心字池を中心として、四季折々の花が楽しめる日本庭園が広がります。 ![]() 少し行くと右手に平塚神社(左)があります。この付近は平安時代に豊島郡を治めていた郡衙(ぐんが=郡役所)のあった場所で、平安末期には豊島太郎近義が治めていました。 奥州征伐から凱旋しこの地に逗留した源義家、義綱、義光は鎧と観音像を下賜した。 近義は義家の没後、この鎧と観音像を埋め平らな塚を作り、更に社を建て義家兄弟を三所大明神として祀り城の鎮守とした。 これが平塚神社の起源であり、平塚の地名の由来のようです。 神社脇の坂道を下ると上中里駅です。 京浜東北線もこの付近迄来ると分かりませんね、こんな駅があったんだ(失礼ながら)が正直な気持ちです。 それはさて置いて、久しぶりの街道歩きですっかり疲れた二人、この駅を今日の終点とします。 到着時間15時20分、19,141歩でした。 上中里で乗ってしまえば横浜までは一直線。新子安を過ぎたあたりでつれに肩をつつかれるまで全く気が付かず、良い気持に寝入っていたはやとちりでした。 |
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