最近はWikipediaでも検索できます。サイトを始めた10年以上前とはネットの環境も替わり、ずいぶん便利になりました。さらに詳細をご存じの方がいらっしゃいましたらお知らせください。
松浦には当時、肥前御厨という町がありました。嵯峨天皇の14子が源の姓を初めて授かりその3代後に源頼光 という有名な人物がいます。その4男が御厨という姓の始祖だそうです。七世紀にその先祖が盤井の乱を制圧し、 もともと御厨庄がおかれていたのですが、難波に御厨家が興るとただちに九州の国造となったようです。 ちなみに御厨とは天皇家の大内蔵のことで、各地の港におかれた渡部(わたるべ)を統括する御三蔵をさしたと思われます。 ここで御厨は神戸、難波(東大阪)、和泉、奈良、伊勢、熊野とあった勢力から初めて九州まで分家を出し、天皇家の 貿易権益を一手に管理する大家となりました。また東へは伊豆や房総半島へも勢力を拡大します。(千葉にも室町時代まで 御厨城があったとか)武田信玄に滅ぼされた諏訪一族もこの流れを組んでいます。 ということは有名な真田一族とも深い関係にあった筈です。伊豆にも御厨一族の名残が感じられる場所が幾つかあります。 御厨の旗指物は古代から白となっていました。シンボルカラーですね。これから大阪府和泉の地名の起こり(白い水)泉州が生まれています。 古くは海洋民族白苗族とのつながりが感じられます。実際御厨家の力は瀬戸を通り、大陸からインドシナ半島まで広がる海運民族を 支配したことにあるようです。 肥前御厨家は30あまりの支族を生み、歴史の表舞台にも何度も登場します。佐賀の竜造寺家とは敵対し、後に鍋島家の傘下に入ります。 竜造寺家の子孫の伊佐江家(諫早家)を差配するためという名目で諫早へ佐賀藩目付として赴任しますが、これは事がおこれば 徳川幕府の直轄地長崎をうかがうためであったとされます。そのため島原の乱の折には幕府側ではありましたが静観の構えでした。 御厨の蔵には昭和18年頃まで当時の武具などもあったそうです。諫早御厨家の下屋敷は大村にあり、更に佐賀県武雄に 縁者が移住して長崎天領制圧の布陣をしいていたようです。佐賀の御厨家全体ではちょっとした大名に匹敵する3万石の禄高を 持っていたといいます。諫早御厨家は明治時代はじめに男子が絶え、諫早の名家市川家から養子を受けました。 市川家の有名人としては脚本家の市川森一(だから私とは又従兄弟)がいます。ワイドショーでおなじみですね。 というわけで、私は長崎県諫早市の生まれです。諫早には当時3、4軒、御厨という家がありましたね。御厨家の上屋敷は 厚生町にあり今は大きな病院がたっています。