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印刷美術17号通刊52号昭和59年版掲載より
   
矢島周一 関連一覧
『図案文字大観』 大正15年 3月 初版
『図案文字大観』 昭和13年 第10版
『図案文字大辞典』
『新式の図案文字』
『図案文字の解剖』
『現代商業美術全集』 7実用看板意匠集の執筆
『現代商業美術全集』15実用図案文字集の執筆
『商業美術月報』 第18號
『広告文化 16号』 -紀元2600年奉祝記念-
水野利八・麻生久人・矢島週一他 大阪広告協会
日本デザイン小史 昭和35年 ダヴィッド社
『カリグラフィーとレタリング』
(図案文字幾何学的書法カリグラフィー)
『タイポグラフィの変遷とデザイン』
『図案文字ー図案文字大観』 復刻
矢島周一 Wikipedia
商業美術の今昔
矢島周一のギャラリー
Bridge to Heaven (Japanese Typographyic Design and the Art of Letterforms P827〜)
同上Page827からの和訳        (訳:C.H)
其の他リンク先
ぬいぐるみ・着ぐるみ制作工房
叶迴M社(代表取締役 矢島千船)
書 誌 情 報 グラフィック社
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昭和初期の欧米コマーシャル・アート
現代商業美術全集1(世界各国ポスター集) より
1926年版 PENROSE ANNUAL VOL28  より
1934年版 PENROSE ANNUAL VOL36  より
1935年版 PENROSE ANNUAL VOL37  より
其の他
校閲者の工学博士武田五一 について
図案家 安東欧寸
『商業美術展ポスター集成』 商業美術聯盟
大正・昭和初期の新聞廣告 『なにわの新聞広告100年』より
戦時下の新聞廣告 新聞3紙より
『広告文化 16号』 より
商業美術茶話 矢島週一
戦時下の新聞広告 木暮仁輔
広告頁に祈る 波多野修作
広告は賣る事のみにあらず 竹田津吾一
故矢島周一氏のアルバムより
昭和12年 〜 昭和15年
(昭和15年以降は師弟の伊佐治氏が引継ぐ)
故矢島周一氏のアルバムより
昭和14年頃
矢島周一の遺徳
 商業美術の普及運動、グラフィックデザイナーの草分け「故矢島周一氏の遺徳を顕彰」を紹介する。 
 矢島周一
氏がオルグ活動を行い、…、第一回の会合を昭和2年11月頃に大阪実業会館で開いたわけです。その時集まった方々は藤井清、松田風湖、栗原弟彦、上村鉄羊、小畑六平、斉木原泉、坂口正次、一木某、多田北鳥、等十数名、それにアウトサイダーとして、清水修竹、波多野修作、森田茂樹、飯守勘一、田附与一郎諸氏、そこへ東京からかけつけた濱田増治氏の面々でした。翌年1月に同じ実業会館で設立総会を開いて、名称も大阪商業美術家協会とし、事務所を両替町の藤井清方においたわけです。それ以後、第一回展を開くための準備をすすめるかたわら毎月研究会を開き昭和3年8月には協会の機関紙「商業美術」を創刊しました。そうして、昭和3年9月1日から5日まで大阪三越で第一回展を開きました。出品点数は100点ほどあり、冷房のない広い会場も人で埋まった大盛況でした。恐らく日本最初の商業美術大展覧会でした。私はその時、立体紙ポスターを出品したわけですが、これなどは立体企画の日本では最初ではないでしょうか。…、商業美術家協会の創立以前の図案家はみじめな日陰者でした。それで図案家の向上運動、普及運動とを兼ねた一大革命運動でしたね。…商業美術協会が出来てから、いろいろなグループによる協会や連盟は雨後の竹の子のように出来ましたが、それらはみな小集団ですね。東京、大阪を結んで数都市の団体と連携していたのはやはり商業美術協会だけだったでしょう。しかし昭和16,17年頃になって戦時色が強まって来た時、それらの集団はすべて解散させられ、大阪では産業美術連盟というものに1本にまとめられました。その初代委員長に私が推挙され、翼賛会の文化委員にも推されました。しかし、それも昭和18年頃になりますともうデザイン活動は出来なくなりましたね。…、

                 印刷美術6号通巻41号(昭和48年)商業美術の今昔  座談会掲載より内容抜粋
故矢島周一氏の遺徳を顕彰

  明治28年2月岐阜市に生

まる。岐阜高等小学校在学

中より、絵画、語学、書道

をよくし、大正5年家業を

廃するや、人生50年を3分

し、30才までを勉学、40才

まで活躍、50才にして結実

と宣して印刷美術界に入ら

れた。商業美術の各団体の

役員の他に岐阜県人として

も活躍。府立聾口話学校で

も教鞭をとり、各地の講師

にも派遣され、名実ともに

商業美術界の長老であった.。

 故矢島周一氏は、郷里岐阜で印刷図案界に入り、早くも大正12年大阪、内安堂寺町でヤジ

マスタジオを開設、図案業を営む。独自の積極的経営法で当時門下生30名以上を超す大阪

唯一の大スタジオとなる。大正15年「図案文字大観」を出版、ベストセラーとなり、全国的に喧

伝さる。

 早くから商業美術界の振展に努力し、東京の浜田増次氏と共に大阪商業美術家協会を興し、

その第一回展を三越で開催。その後、各地の商業美術団体と連係、昭和5年には当協会の前

身である印刷基本美術家を結集、発起人会を開催した。

 爾来、大阪商業美術家協会や大阪広告協会の役員として展覧会開催に盡力。昭和7年、朝

日会館の第一回展を始め、毎年協力参加、協会にも多大の功績を輿えた。戦時中は全大阪宣

伝美術協会委員長として大阪府翼賛会に協力したか、戦時下、営業は成り立たず、スタジオは

解散した。

 昭和23年、戦後再開したが、当時は営業も商業美術運動も大阪と岐阜とのかけ持ち時代で

あった。28年、西区に事務所を移し、潟сWマスタジオとして法人で再開。30年、戦後協会第一

回展に続いて毎年展覧会の発展に盡力され、44年、協会創立功労者として表彰された。 51年

、念願の「図案文字幾何画的書法カリグラフィ」を発刊したか、運悪く出版元の火災に遇い、陽

の目を見なかったのは残念であった。

 戦前、戦後を通じ、営業以外に商業美術界振展のために協力された点は筆舌に現わすことも

出来す、併せて協会のために全力を盡くされた点は大きく、ここにその業績を讃え、氏の遺徳を

顕彰するものであります。

 

竹 本 楢 治 郎

印 刷 美 術 協 会

   

理事長

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