日本のタイポグラフィックデザインと字形技術
Japanese Typographic Design and the Art of Letterforms P827〜 の翻訳文です
活字を適切に配列することで、文字の体裁を整える技芸であるタイポグラフィーは、審美的様式によって視覚的に情報を伝達する。本質的には関連しているが本文や内容とは異なる視覚的言語である字形は、主観性およびイデオロギーを印象づける。表現豊かな生来の書道の伝統や豊かな印刷文化を基礎に、日本のデザイナーたちは19世紀末ごろから、西洋の活字書体や国際的で専門の紙面構成技術に触れるようになって、急速にレタリング語彙を増やしていった。この論文では、現代の日本の書体および専門の広告領域と並行して発展していった第二次世界大戦前のタイポグラフィーの誕生を探ってみたいと思う。
日本の活版印刷のデザインを包括的に調査したものではなく、具体的な販売促進の文脈に使用されている活字体をいくつか例としてえり抜き、それを綿密に分析をすることで、活字で構成される重層的かつ効果的な視覚伝達方法を明らかにしようと思う。ここで使用する作品例には、ロゴマークのデザインからマスメディアの宣伝記事と多岐に及び、中には作者不明のものある。際立った日本語の歴史、文法、また形態学的そして美学的な面を用いることで、デザイナーたちは、現代の日本の視覚文化において、商品や企業だけでなく文化や国家のアイデンティティーを特徴づけるのに有益で強力な視覚言語を作り出すことができたのである。
日本の活版印刷のデザインを包括的に調査したものではなく、具体的な販売促進の文脈に使用されている活字体をいくつか例としてえり抜き、それを綿密に分析をすることで、活字で構成される重層的かつ効果的な視覚伝達方法を明らかにしようと思う。ここで使用する作品例には、ロゴマークのデザインからマスメディアの宣伝記事と多岐に及び、中には作者不明のものある。際立った日本語の歴史、文法、また形態学的そして美学的な面を用いることで、デザイナーたちは、現代の日本の視覚文化において、商品や企業だけでなく文化や国家のアイデンティティーを特徴づけるのに有益で強力な視覚言語を作り出すことができたのである。
書記言語改革議論
日本語の書き言葉は、中国語から派生した表意文字(漢字)、音節文字(ひらがな・カタカナ)、ローマ字化された文字(ローマ字)、数字の混合によって成り立っており、デザイナーにとっては、表現の可能性の範囲がたぐいまれなため、能力が試されることとなる。日本語の語義進化論は、何世紀もに及ぶアジア各国の他言語や西洋言語などとの異文化交流の介在によるものである。古代中国語から派生した日本語文字、独特な多音節や抑揚のある話し言葉に対応するための音声からなる二種類の補足的な音節文字の発達、および西洋語や英数字の筆記システムの導入などは、周知の事実である。むしろあまり知られていないのは、19世紀末から20世紀初期にかけての言語改革に関する議論であり、現代の書記言語の状況や発達を理解するうえでは同様に非常に重要である。標準化、視認性、利用手段は、日本国家の公共文化が加速する政治家や民間企業家たちにとっては、差し迫った問題であった。有名なデザイナーであり書体愛好家でもある原 弘(1903〜1986)が「書体の問題の前に、国字の問題という大きな壁が立ちふさがっている」とかつて述べたことがある。国の書記言語は何で構成されるべきか、といった発展可視的言語の社会的および政治的重要性の証拠となる議論が、現代字形発達の観念的背景を作り上げた。こういった議論は未解決のままだが、具体的なデザインプログラムの分析の発端として議論の価値は十分にある。
デザイン評論家の松岡正剛氏(1944年生まれ)によると、書き言葉は本質的に文化のエクリチュールであり、つまり発展する書き言葉は生活文化の具体例となる。このように混成言語である日本語は、日本の文化移植の過程を示している。日本と中国の弁証法的関係、後には日本とアジア他国や西洋との関係というものが、こうして言語学的特長として符号化された。西洋の国民国家との関わりよる影響や日本が新たに築き上げた国民国家の始まりである民族主義を通して日本が経験した現代化および近代化が、漢字を主体とする書記体系に多大な影響を与えた。漢字は、簡略化から廃止の提言と大きく異なる意見を持つ、いわゆる文化改革主義者たちの間で激しい議論の焦点となった。自分は熱心な国家主義者だと信じるが故に、国のためにと各々がそれぞれの目的を主張した。主に利用手段とマスコミの民主化に関する問題を懸念して、大阪毎日新聞の編集者として著名であり、後の内閣総理大臣となった原 敬(1856〜1921)などは、基本となる漢字の数を減らすことや、字のつづりの簡素化、そして日中後の使用を減らすことで書き言葉に口語体の使用を増やすといったことを提言する頑強な公共支持者だった。こうした意見に言語学者や政治家という広範囲にわたる著名人も賛同し、視認性を高めるだけでなく、商業用植字機への負担も大いに軽減されると期待されて、音節文字同様、表記文字の標準化および簡素化の必要性に強い関心を持った。アルファベットと数字だけで成り立つ西洋言語とは異なり、日本の植字機は常に出版物一つに対して何千という文字に対応しなければいけなかった。
この時代に、近代郵便制度の父といわれる前島 密 (1835-1919)などの、日本語は日本のアルファベットとして音声文字のかなを使用して漢字は一切廃止するべきだという、より極端な意見も表面化された。役者、政治家でもあった末松
謙澄(1855-1920)は、さらに一歩先に進んでカタカナのみを日本語の主たる表記文字とし、西洋文章のような横書き式にすべきだと提案した。口中清涼剤有名な仁丹の創立者として、また広告業界の先駆者として知られる森下 博 (1869-1943)などの著名な実業界のリーダーたちは、カナモジカイを設立し、改革が国際化の重要な手段になると信じ、こうした言語改革様式を追及した。カナモジ会のメンバーは、漢字というものが、日本が近代国家の国際社会秩序に本格的参入するにあたって直に支障をきたすとみなしていた。こうした提案はかなり急進的に思われるかもしれないが、ちょうど同時期に韓国民族主義者たちも同じように漢字を廃止しハングル文字を国の公用文字として使用することを提唱していたということを留意しておきたい。
その他の日本の知識人たちは、かな文字を提唱者に対しローマ字を日本語の主たる表記とするべきだと反論し、その問題をさらに吟味するためローマ字会などを設立した。数多くのローマ字の種類や活字を発展させたこのグループのメンバーには、夏目漱石(1867-1916)や北原白秋(1885-1942)といった有名な小説家・詩人が含まれており、その活動に文化的正当性に大いに貢献した。何年も後、詩人の石川啄木(1886-1912)が、個人日記をローマ字でつけていたことが判明した。話し言葉と書き言葉のずれに対する強い反感よって、こうした活動は急速に加速し『言文一致運動』を促進した。またそれにより最終的には現代文学や多くの活字媒体で口語体の日本語が普及することとなった。
日本の初代文部大臣である森 有礼(1847-1889)は、漢字廃止よりもさらに極端な提案をした。英語を日本語の主たる表記とするべきだと提案し、アメリカの言語学者に日本の公用語の役割を果たす簡易化した英語を開発するよう相談していたほどである。こうした極端な改革全てに対して強い抵抗があったのは言うまでもない。漢字保護主義者は、穏健派でさえ不可欠だと感じたある程度の文字改革でさえ阻止した。激しい論争を招くような明らかに標準化されていない様々な言語学の領域は手付かずのままであった。
書体デザインとレタリング
何世紀にもわたり、中国や韓国そしてヨーロッパから日本へと活版印刷はいく度となく導入されていたにもかかわらず、何千もの文字を個々に鋳造成型するのにかかるコストや相対的な不便さが原因で19世紀末まで広く普及しなかった。明朝体(文字通り明王朝)は、今でも使用されている昔ながらのアジアの書体である。明朝体はその名が示すよう、活版印刷が普及した明王朝時代に中国で広く使用された。日本の活版印刷の先駆者である本木昌造(1824-1875)は、中国の明朝体は日本語の書体として開発した(図1参照)。明朝体の顕著な特徴の一つに、楷書における筆の止めを様式化したウロコと呼ばれる横線の終端につく小さな三角形の装飾があげられる。これは西洋のタイポグラフィーで使われる文字の小さな装飾のセリフと似ている。明朝体は、導入以来継続的に使用されており、長年にわたって細いものから太いものまで様々なバリエーションが生じた。明朝体の強力な支持者たちは、他の全ての書式を排除し明朝体を国家書式として導入するよう努めた。
図 1
デザイン史家の川畑直道氏は、これらの活動を公式刊行物に当初ドイツ書体を採用し第三帝国を特徴づけるとされたドイツ国家資質を植えつけ、また同時にその一方で表向きはあまりドイツ書式ではない書体使用を禁止したドイツ労働者党の人種的文化運動に例えた。一見無制限に思えるデジタルフォントの今の時代ですら、明朝体はいまだにほとんどの日本の文書作成ソフトで標準デフォルトフォント設定となっており、日本の印刷文字の大部分の視覚的特性を明確にしている。
図 2
活字開発の難しさやそれにかかる費用のほかにも、書道の力強さを十分に模倣できなかったため、コンピューター時代のデジタルフォント到来まで、日本の革新的で表現的な字形デザインの大部分は、実際鋳造活字書体よりもむしろ川畑が「書き文字」と呼ぶ、手書きデザインによる印刷文字であった。戦前の商業デザイン研究の全盛期であった1920年代の日本では、短期間、大阪の口中清涼剤会社仁丹の森下博氏のために広告をデザインしていた書体デザイナーの藤原太一(1920〜30年代活動)が、表現力豊かな手書きの字形に対して新たに「図案文字」という言葉を作り出した。三越百貨店の重要なデザイナーであり、商業デザインの著名な公共支持者であった杉浦非水(1876?1965)は「字体の図案化」について書いていた。
ポスターデザイナーの矢島周一氏(1895-1982)による1926年初版発行『図案文字大観』の前書きで、東京帝国大学(※
1)教授の武田五一氏 (1872-1938)は、「美しいタイポグラフィーは商品価値を販売促進するのに効果的な方法だ」と主張し、「現代の商品に合う新しい字形」を訴えた。
※
1
原文訳の東京帝国大学は京都帝国大学の編集ミス
図 3
人目を引く字形は、江戸時代にすでに視覚伝達には極めて重要であり、現代デザイン定義者たちは、新製品の消費拡大を促進するためにこういった表現の可能性の拡大と多様化を目指した。その過程で、拡大する一般消費者に商品の特性を伝えるという、デザイナーの創造的な媒介者としての重要な役割が強化された。
デザイン関連の商業出版は1920年代から1930年代にかけて急成長した。これらの出版物は著しく多量のレタリング文字概要で、多くは日本で第二の都市であり商業活動の中心地である大阪で出版された。これらは表向き、日本の図案本印刷の長い伝統の延長である原典としての使用目的で商業小売業者、デザイナーに向けた業界誌だった。実用デザイン訓練やその応用を専門とする多くの増版を含む出版物の部数が、その需要と有効性の認知度を証明する。
1926年出版の矢島氏のベストセラーには、2000字もの標準漢字が10書体、さらに80書体のカタカナと20書体のひらが収録されている。(図2参照) グリッド上に規則正しく文字集合を配列することで、矢島氏は様々な美的特性を比較し、体系的に相対的比率を分析した。究極的には、結合、再結合可能な一連の字形を作り出すことを期待して、書体を構成要素に分解することに関心をもち、矢島は1928年出版の『図案文字の解剖』でさらに掘り下げ、比較構成で分析した漢字とかなを抽象化し幾何学的にデザインした。音素表現のひらがなとカタカナ「あ」を多様に置換配列した例のページでは、同じ文字が有する幅広いバリエーションと大きく違う美的特性が示されている(図3参照)。太細、角度、曲線のある文字、判読可能なものから走り書き調、シンプルなものや装飾的なものまで、その比較は多種多様におよび、選択にあふれている。こういった方法によって、美的反応をいくつかの決まりや規則へと順序だてることで、視覚反応をあらかじめ方向づける試みである。
図 4
1925年出版の藤原太一『図案化せる実用文字』には、何ページにも及ぶサンプル文字が様々な手書き様式で収録されており、「歳暮大安売り」や「電灯具装飾図案」などの宣伝用語の手本が示されている。(図4参照)見開きページの左側には、「日曜附録」を垂直配列し、反対のページには1週間の曜日を7つの違うローマ字書体で横書きされている。(図5参照)書体はすべてとてもわざとらしく、角度のあるものもあれば丸みを帯びたものもあり、それぞれの書体は特徴的な装飾体で、中には小さな模造のハートが行にちりばめられているものもある。視認性や標準化などを追求することはやめ、これらのデザインは、今日大正ロマンとして一般に知られるようになった、美的思潮を反映する主観的叙情主義や感受性を強調した。この思潮は、汎ヨーロッパのアールヌーボーの精神運動の装飾的そして詩的心象から影響を受け、めまぐるしい個人主義の時代が到来した日本の大正時代に繁栄した。アールヌーボー自体、日本の美的感覚やジャポニスム運動に強い影響を受けたため、日本のデザイナーたちは事実上既になじみのある装飾感性に魅了されたということになる。彼らの作品は、華麗な花柄のデザインや大量の装飾書きが際立っており、上品さや豪華さのイメージを最大に伝えた。
図 5
今や世界的に有名な化粧品会社の資生堂は、大正ロマンに最も関わりのある企業の一つであり、山 六郎(1897-1982)や山名文夫(1897-1980)が開発した上品で曲線美のタイポグラフィーに代表される。山氏、山名氏共に、当初は中山太陽堂(現クラブコスメチックス)が設立した出版社・プラトン社に勤めており、そこで山氏が最初に、当出版社の文芸誌『苦楽』、『女性』、『演劇・映画』のタイトル書体にヨーロッパのアールヌーボーや分離様式書体を思い起こさせるとてもわざとらしい漢字書体を開発した。これらの文字は、主にパリの影響を受けた流行の服装を身にまとった官能的な女性の線描画と一体化した。近代的装飾感性を強く助長することで、活字は視認性を極限にまで高め、表現力のある装飾書きや変形したストローク比率を重視した。この特徴的な様式は、後続の日本の映画産業の広告デザインに多大な影響を与え、キネマ文字として知られるようになった独特なレタリングの下位ジャンルの基盤となった。山名氏は、高級なクリームやパウダーの販売促進を行うため、程なくしてこの美学を資生堂に取り入れた。繊細な女性美を十分に表現したデザインは、女性客をターゲットにしたものであった。現在の資生堂が強調する日本美人のエキゾチックなイメージとは異なり、1920年代の資生堂は、空想的な欧米のライフスタイルの豪華なイメージに基づいた企業理念を高めた。国際的なファッションで素敵な長椅子にゆったりもたれる有閑女性は、視覚的に柔軟な印象を与えた。
図 6
包装紙やパッケージは、長期にわたって日本では販売促進の媒体である。江戸時代から、顧客は上品な包装紙を取っておいて再利用したりするため、促進効果は継続した。(アクセサリー代わりに最近人々が持ち歩く、ブランドが識別できるロゴつきのおしゃれな買い物袋に似ている。)パッケージは、無言のセールスマンと言い換えられる。長年にわたりいく度かの反復を経て創られた資生堂の象徴的包装紙は、資生堂の画像広告に目立って使用されている物憂げにもたれかかる上品なフラッパー像のイメージを呼び起こす特徴的な細長いSの字を使ったローマ字化されたブランド名が特徴である。(図6参照)生き生きと図案化された資生堂の花椿マークは、左上に配置され、漢字のロゴは右下部分に細く繊細な字体で描画されている。上品さや優美さを表現するために、ローマ字のブランド名と組み合わせている。3つの別々のロゴが旋回する花柄や赤の唐草模様の中に浮かんでいる。
商業美術の新興分野で、字形デザインやの広告コピーの紙面レイアウトの重要な役割は、広告デザイン業界すべてにおいて明らかだった。デザイン評論家の浜田増治(1892-1938) が編集に携わった『現代商業美術全集(全24巻)』(英タイトル:The Complete Commercial Artist, 1928-30)のような貴重な業界誌は、そのうちの丸2巻を字形デザインとレイアウトに費やしている。近代の表現豊かな活字体を極めて重視しているにもかかわらず(図7参照)、これらの業界誌にはそれでもなお急増する国内消費者市場に継続的に関連する初期の活字体も評価されていた。
図 7
過去は現在へと意味を持ち続けるが、江戸文字が20世紀まで持続的に使用され続けていることほどいい例がほかにないだろう。それらのいくつかは、活字書体へと標準化されている。
浜田氏編集の前出書に、既存の日本語書体の例が紹介されている。江戸文字の見本集(図8参照)には、二種類の『髭文字』(図8のaとf) が掲載されている。
図 8
その名前が示すよう、文字の最後に髭のような筆跡があるのだが、これは『飛白』という黒い墨の筆跡の中に白い点画のかすれを強調する技法を真似た書体である。髭文字は、夏場に通りのあちこちで見かけるかき氷の看板から法被の背中の文字にいたるまで、今でも商業分野で幅広く使われている。もともとは店主が来ていたこの半被は、紋章が印刷されており、現在では主に祭りでの時に見かける。元来江戸時代との関連から髭文字が、恒例の書体として符号化された。
髭文字は、日本酒銘柄の『白鶴』や『大関』などの製品ラベルのデザインとしても見やすく目立つ。日本国内外市場が発展し、地方の製造業者が国内ブランドへと変わっていくのに、酒銘柄のアイデンティティは現代のイメージチェンジを必要とせず、変わっていない。日本酒の製造は実際のところ高まる消費者需要に応えて変化しているし、発酵して作られるはずの酒に直接アルコールが加えられるという純粋主義者は頑なに反対する論争を呼ぶ手法が行われているにも関わらず、酒のイメージは、例えばビールやワインのような日本にまだ新しい飲み物とは違って、何世紀にも渡る発酵や醸造伝統の関連性によって強化された。活字体を使って商品を従来のものへと符号化することで、企業の品質規格に対する消費者の信頼感を高めた。
決して日本酒だけが江戸を起源とする日本の商業ではなくかったし、日本酒メーカーだけが髭文字を会社のロゴに使用する現代の企業だったわけではない。産業改革者の三越百貨店は、17世紀に三井越後屋として呉服店を開業した。現在の三越の商標文字『越』(越後屋に由来し、また三越の「こし」)の字は、丸に囲まれた髭文字で書かれている。(図9参照)越後屋はすでに江戸時代にはしゃれた広告主であり、ロゴが印刷された景品などを提供したり、有名な歌舞伎役者を雇っては、さまざまな自社製品を宣伝した。
図 9
また販売促進活動には商品配置などの例もあげられる。例えば、木版画で有名なデザイナー歌川 国貞(1786-1865)は、江戸美人を目立つ屋号やロゴと共に店頭ののれんに描いた。
越後屋はプロモーション戦略の革新者であり続けたのだが、書体を通して江戸の伝統を意識的に維持した。顧客が靴を履いたまま買い物できる屋内展示技術を開発した最初の百貨店として三越は、常に現代の流行の火付け役であったため、単に使用範囲を定めるはずの江戸文字を、完全に従来の企業向けのものへとややこしくした。似たようなアイデンティティは、髭文字のロゴと大文字のローマ字や三越のデザイン主任であった杉浦非水によって創り出されたいくつかの表現豊かな手書きの漢字にいたるまでのさまざまな書体を使った企業名を一体化させることで表現された。(図9参照)三越の現代のアイデンティティは、洗練された新しい大建造物や上品な装いの客が描写されている宣伝資料によって増幅された。呉服事業の拡大のため、百貨店は様々な時代様式の復活を積極的に宣伝した。三越と戦前の日本の消費者市場について説得力のある研究論文で神野由起は、1905年に結成され極めて注目すべきた諮問文化研究機関『流行会』やこの会のPR誌『時好』を通して、センス構築における三越の中心的役割を説明している。三越は、莫大な収益をあげた江戸時代の元禄風模様のキャンペーンを起こし、それが1904-05年の日露戦争勝利直後に幅広く『元禄ブーム』へと発展した。急激な洋風物の需要に並んで、着物や伝統的な飲み物、食品、菓子といった和風物に対する変わらぬ魅力によって、『日本趣味』として知られるようになったマーケティングの別個の部門が発足された。このマーケティング部門の重要さの証拠として、浜田増治は日本趣味の分野に丸一巻を費やし、デザイン展示やパッケージの初期形式に関する美的参考を特徴とした宣伝である
図 10
企業のロゴマークや企業理念は、それぞれの企業によって多種多様であった。
競争の激しい消費者市場では、メーカーは世間一般のイメージを通して差別化する必要があり、活字体である視覚的言語は、そのアイデンティティーを明確に伝えるのに大いに役立った。花王石鹸で人気のメーカーの前身、長瀬商店は、革新的な企業が印刷広告で展開した洗練された宣伝技術の典型的な例である。1932年の花王石鹸の小さな広告カレンダーに、漢字、ローマ字、そしてカタカナが3方向へ4種類の字体で描かれている。新年に忠実な小売業者に配布されたカレンダーは、企業の宣伝と共にその主力商品である花王固形石鹸を原 弘がデザインした新たな近代的バーミリオン系の赤のパッケージの構成中心部に目立つよう表示することで、直接紹介するという二つの販売促進機能を果たした。
原の特徴的なパッケージデザインは、公開デザインコンペによって1930年に選ばれ、『新装花王』の大規模な販売促進キャンペーンの一部として、1931年には製品化された。カレンダーは、固形石鹸の画像を開く形で、各月のページになる。
ブランド名の花王石鹸は、行書体で石鹸の中央上部に書かれている。この名前は、中国の詩にあてはめて、「百花の王」である牡丹の美しい香りを引用して創られた複合語である。しかし、文字の組み合わせは、日本の消費者にはあまり分かりやすくはなかったため、右から左へ水平に書かれた漢字と共に、右側に縦にカタカナで書き表された。読み方を示す符号で知られるルビやふりがなは、漢字の上か横に書かれる音訳の注釈である。これは、多くの漢字には、いくつもの読み方があるためである。普通のフォントサイズより小さく印刷されているルビ(19世紀にイギリスの5.5ポイントサイズがルビと呼ばれていたことにちなんでいる)は、通常ひらがなで書かれるが、先ほど挙げた例のようにローマ字やカタカナで書き表されることもある。
歴史学者によると、ルビの使用は8世紀に編纂された日本書紀や古事記などの日本最古の書物に遡るが、これらのルビは単に漢字の別の読み方を示したものに過ぎない。現在のルビは、漢文を訓読みと呼ばれる日本の話し言葉に由来する読み方で示すためにかな文字が創られた9世紀以降に、一般的に使用されるようになったと考えられている。ルビは江戸時代に最も広く使用されたが、教養が飛躍的に高まると、現代の大衆新聞や雑誌での使用が目立つようになった。振り仮名新聞として知られる仮名だけで書かれた新聞すらあった。
ルビの使用は、言語改革のもう一つ別の論点でもあった。論争は、ちょうど花王石鹸の広告が製作された1930年代の半ばに頂点に達した。欧米留学経験のある反対者の一人、作家の山本有三
(1887-1974) などは、このような注釈は特殊なものであり、世界のどの言語にも存在しないと論じた。ルビ使用反対者はが難しい漢字の使用を存続させたり、文語体と口語体を一致させる言語改革の障害としてたちはだかると感じていた。また、読む際に役立つ記号として、弱点の表れである粗野な文化的支えで、ページを雑然としたものにすると捉えられていた。一方で支持者は、ルビの使用は教養を広める上で重要なものであり、大切な補助的手段であると推奨し、これにより弁証法的に文書で使用できる意味を伝えることで理解を高め、こうして文脈上の注釈の一種として役割を果たす。この機能は、ルビがしばしばメタ原文解説の短縮方としての役割を果たす現代の用法で実証されている。廃止論者が1938年に日本自治省にマスコミの刊行物、新聞そして教科書でのルビの使用を避ける正式勧告を発表させるのに成功させた一方で、ルビはそれでもなお目に見えて公的領域で規模を縮小してグラフィックデザイナーの有利な戦略的手段として存続した。
視覚言語の巧みな展開によって、花王のカレンダーはあらゆる分野を占めた。外来語として外国に関連する商品の名前にふられるカタカナのルビは、しばしばひらがなよりもカタカナで音訳された。このように製品の新鮮なニュアンスや欧米の化粧品や現代の衛生状態との特有な関連性を強化した。パッケージや台紙の上下に描かれたローマ字
“Kao
Soap”は、丸みを帯びたループ状で、まるで歯磨き粉のチューブから搾り出して書かれたかのようで、陽気でリズミカルで軽快な文字は、製品に近代的で上品な雰囲気を植えつける。筆記体で書かれたブランド名とその資料は、石鹸と長年の親中詩的想像力を結びつける。図案化されたローマ字は、国際的な雰囲気を強める。カタカナは欧米やこの衛星用品の現代ルーツを強化し、その販売促進は保健福祉の政府のキャンペーンの恩恵を受けた。
この分析をさらに進めると、「品質本位」という小さな漢字のキャッチフレーズが、非常に単純化されたサンセリフのゴシック体でブランド名の真上右端に右から左へかけて黒く印刷されており、機械審美が、長瀬商店が製品の品質に関する消費者の信頼感を確保するためにの広範な宣伝活動で宣言した高品質の機械化製造を連想させる。このような正規化、合理化された装飾のないセリフ書体は、商品生産に似た性質に帰属する。ゴシック体はシンプルでクリーンなであったため、広告で純度99.4%とうたわれた花王石鹸は、確かに高純度であるということを強調した。消費者、あるいはデザイナー自身が公然とこれら様々なを暗示的意味を認識していたかどうか、また活字体の視覚的文化化があまりにも完成したものであったため視覚的言語が無意識の状態で機能していたのかを分別することは不可能である。
花王のカレンダーはまた、日本の字形は自由な方向性を持ち合わせていることを表している。この方向の自由性はモダニズムの試みという形でのみ欧米のタイポグラフィックデザインに使用されるようになった。多方向性は日本語の多言語的特質にはつきものであり、エディトリアルデザイン(紙面構成)を介してコミュニケーションの可能性を増やしてくれる。編集レイアウトのページにまず最初にとりかかる際、日本のデザイナーは、文字を縦書きか横書きか、そして右書きか左書きのどちらにするかいう問題に直面する。美的選択をする上でのこの大きな個人の自由がまた、それぞれの設計決定が昔も今もなお、観念的そして美的趣旨の負担になり、デザイナーを大変苦労させる。
20世紀を通じての標準化の再三の試みにもかかわらず、文字の方向性は未だ未解決の問題であり、ほとんどの教科書は横書きであるが、多くの大衆雑誌や新聞は縦書きである。言語学改革論者が上記で議論したように、20世紀初期の近代化支持者たちなかには、縦組みの廃止を推奨したほどである。日本では、横書きは欧米を連想させるものであったため、近代性の象徴であった。戦後、横書き提唱者たちは、人間の目が横ならびであることを根拠に、的外れな生物学的議論を交わした。横書きと近代性のつながりは、明治政府になっても失われず、1872から1883にかけて日本の通貨を縦向きから横長のものへ変更するという大胆で象徴的な措置をとった。
こうしたデザイン上の選択の継続的な文化的影響は、ここ近年1998年の長野冬季オリンピック宣伝用資料をめぐって、日本の委員会が漢字とローマ字で書かれた多言語の宣伝資料を縦書きか横書きのどちらで印刷するかを決められなかったという難局に例示される。長野冬季オリンピックのテーマ『国際性』を、印刷文字でアジアを符号化して表現する責務があった。紙面構成の主任を務めた原研哉(1958年生)は、推進委員会に国際的な意見を強調するべく全て横書きにすることを提案したといわれている。最終的には、青葉 益輝(1939年生)の公式ポスターは、左から右へローマ字で書かれていたものの、原がデザインした開会式用の公式3ヶ国語ポスターでは、漢字は縦書きでローマ字は横書きという組み合わせで描画された。原のレイアウトは、図形要素を巧みに使うことで、縦、横の活字のバランスがよくとれていた。例えば、ページ上部の視覚焦点である大きな見出し文字の『御柱』は、長野で何世紀にもわたって行われている柱を立てる祭り行事である。冬季オリンピックの開会式に行われたこの祭りでは、8本の木柱がメインスタジアムの四方へ立てられた。プログラムに描かれた縦の四組の赤い柱が、日本語の文字を支え、ローマ字列と並ぶことで、視覚的にページを一体化するメカニズムとして機能している仏教と神道の宗教行事に基づく極度に屈折した国家主義的要素により、開会式は日本人らしい美的光景であった。しかしながら、全世界の観客が利用しやすくする必要性から、紙面構成はよりシンプルで見やすい活字書体、そして包含性を保ちつつ日本の要素を識別、明確にした分離平等のレイアウトを選んだ。このデザインは、国際主義を背景に高度に精密なタイポグラフィー本質主義を象徴している。
活版印刷規格の世界基準に対する国際性や認知された必要性は、1920年代のヨーロッパのモダニストデザイナーたちに、簡易化した見やすい装飾のないタイポグラフィー(サンセリフ)を提案しようという気にさせた。こういったデザイナーたちの根拠は現代の合理化された機械生産精神を示す必要性に基づいている。機能主義や透明性が目的だった。活字を基本的なものに単純化し要素的な形にすることが、この目的を達成するための対策であった。ドイツのバウハウスのタイポグラフィーは、この傾向の最も代表的なものであり、ヘルベルト・バイヤー、ヨゼフ・アルバース、ヨースト・シュミット、ヤン・チヒョルトやラースロー・モホリ=ナジといったデザインに関わる重要な人物と関連していた。
図 11
日本のモダニストや前衛的芸術家の新たなタイポグラフィーに関する他の談話に対する貢献について述べてきたが、マヴォという美術系統グループやそのリーダー村山知義(1901-1977)
は、こういったタイポグラフィーの新生理論の解釈や日本の活版印刷のレイアウト戦略に力を尽くした。1924年1925年にかけて刊行された名祖雑誌で、マヴォは文字と画像による構成の表現潜在力やダイナミックな斜めや逆さまの印刷、さらにはページを直交配向に分解するといった非対称なレイアウトを探求した。この雑誌は、新たなタイポグラフィーの機械的に作られた形を規格化する衝動と表現力にあふれる手書き字形の変わらぬ魅力の間に存在する動的緊張関係を反映していた。
日本では新しいタイポグラフィーは単化文字として知られるようになり、1930年代に様々な日本のデザイナーたちに受け入れられた。このデザイナーたちの中で顕著であったのは、花王石鹸のパッケージデザイナーである原弘だ。東京府立工芸学校の印刷科の卒業生である原は、日本のタイポグラフィー研究のリーダー的存在でもあり、1932年には東京印刷美術家集団を結成した。同年、原はヤン・チヒョルトの重要なタイポグラフィー宣言『基本的活版術』をドイツ語から日本語に訳している。読みやすさの観点から小文字の使排他的な使用といった新しいタイポグラフィーの基本前提に対して疑問を持つ一方、原は翻訳書の前書きで日本のデザイナーたちに字形の伝達潜在力をもっと真剣に見直すよう呼びかけた。原は、後に(モホリ=ナジが“typophoto”
と呼ぶ)文字と写真を一体化するエディトリアル構成を推奨し、日本工房、中央工房、東方社などのデザインスタジオの同僚と1930年代半ばから戦時中にかけてポスターデザインや絵画グラフなどに積極的に用いた。1935年報知新聞後援の第三回スナップ写真懸賞募集の原のポスターデザインは、明確さを最大限にするため書体は飾り気のない幾何学的なものだった。(図11)各々の文字のストロークは調節されていないが、ストローク端には装飾アクセントはなく四角くなっている。青と赤の文字とかな文字は、等間隔に配置され全体的にほぼ同じ均衡ではあるが、若干斜め向きにして活気づけるレイアウトとなっている。色つきの活字体はまた、劇的に彩飾されたモノクロ顔写真の自然な形の断片に重ね合わさることで、画像の柔らかな曲線の輪郭と文字の精密な角度が対照をなしている。
完全な透明性と機能主義のための読みやすさと文字の簡素化の促進は、規格標準化のこの過程を補強する補強する観念的価値を避けるためのものである。すなわち、明確さを得るために失ったり排除されるものは何かということである。そしてどういった価値観が明確さ自体の概念を表すのか。ベアトリス・ウォードが1932年に書いた影響力のある論文でタイポグラフィーを『クリスタルのグラス』だと表現したことをケイティ・サレンがその分析で指摘したように、機能的透過性の主張は、字形は決して中立的なものでも透明なものでもないため、観念的価値観などないという事が偽りであることを示す。ウォードや新しいタイポグラフィーのその他の支持者による機能性、機械美学、合理主義の道徳的美徳の擁護は、別の明らかな言語方言は除外した。規格化および正規化はいわゆるデフォルト設定を創りだし、その過程でそれが主観的な手書き装飾の字体であろうと、故意的な歴史的書体であろうと別の方法を周縁化し、病的なものとした。
この文化的規格化は決して全体的なものではなく、多くの方面で反論された。一般的に、例えば浜田の複数巻からなるデザイン大要のような業界誌には、新しいタイポグラフィーは、チヒョルトのような純粋主義者が嫌うような併合の欧米やアジアの歴史的な活字の例がちりばめられていた。浜田は興味深いことに時には日本の書体と新しいタイポグラフィーを組み合わせたりもした。図8を参考に2ページにわたって考察した髭文字の江戸の見本集で、見開きのページに定型化されたフーツラサンセリフの文字が抽象的装飾要素と共に幾何学的なエディトリアルレイアウトで表示されている。(このページには、ドイツ語で「文字は広告それぞれの魂」と記されている。)こうした並置は、現代の日本の分岐的レタリング特質の積極的共存を完璧に表現している。
日本で広まったその多くは実質手書きだった新しいタイポグラフィーの魅力にも関わらず、表現力豊かな特に映画広告のキネマ文字のような活字デザインは、戦前期にかけて発展し続けた。しかし当時はこのデザインは、文字の形式自体を根本的に見直すことなく、標準文字に単に装飾の飾り書きを加えただけの何度も繰り返す装飾的なワンパターンの一種に陥ったと考えられていた。この流行の広告スタイルに応えて、1929年に松竹キネマに入社した河野鷹思(1906-1999)は、程なくデザイン業界中で広範囲にわたって模倣されることになった独特で風変わりなスタイル考案した。河野は、多数の映画向のポスターや出版広告を手がけ、その中で色々な文字の太さ、バランス、比率などを使用した。こういったスタイルは、1931年松竹製作の映画『青春図会』(図12)のプロモーション用雑誌広告の魅力的な不恰好で抽象的なデザインの中で示されている。
図 12
河野のレタリングスタイルは、戦後のデザイナーたちの間では戦後の時代になっても揺るぎない魅力であった。こうしたスタイルは、欧米のタイポグラフィーモダニズムにおける合理化や規格化の推進よりも、意図的なアシンメトリーの活用や日本的美学に帰する不完全性を重要視したため、デザイン歴史学者たちには、区別して和製モダニズムと見なされていた。
戦前の商業広告の一層幅広い分野での奇抜なレタリングを使用する河野のスタイルの普及は、森永製菓主催の1930年代半ばから後半にかけての名流競演会用の小さなパンフレットで明らかにわかる。(図13参照)この作者不明のちょっとした印刷物は、タイポグラフィックデザインの複雑な振り付けや複数の言語使用域に同時に語れる能力をありありと明らかにしている。パンフレットの表にはシンプルで意図的に不恰好な書体で『森永 名流競演会』の題字が配置されている。文字のストロークは短めで意図的にぎこちなく子供っぽくしている。また、大げさで不完全な比率にして内部的にバランスをとっている。その結果が、ユニークな遊び心である。タイトル字下の赤い箱の中には、『Morinaga’s
show』のアルファベットの文字がシンプルな小文字の筆記体が鳥の挿絵と共に書かれている。
森永ミルクチョコレートの広告であるパンフレットの裏の文字は、何種類もの書体が使われており、パンフレットの表とは鮮明な対象を成している。森永ミルクチョコレートバーが、特徴的な金色のセリフ体で書かれたローマ字の社名と共に、右上に浮かんでいる。その真下には、逆さまになった天使が(創立者である森永太一郎のために)TMの文字を握っているトレードマークが描かれている。中央には、森永ミルクチョコレートのブランド名が、ボリューム感を放つ文字端が面取りされた太い漢字とカタカナの描かれており、パンフレット下部分には、おそらく有名な商業写真家である堀野正雄氏(1907-2000)によって撮影されたであろう二人の若い女性の笑顔が映し出されている。若い女性の髪は、まるで走っていたかのように乱れていて、それが健康と活力を放っている。まだ健康不良であった日本人に、健康的なカロリーを供給する栄養補助食品として販売された森永ミルクチョコレートは、上部の赤い四角部分に白い明朝体の文字で、『健康美つくる青春食品!』とうたわれている。日本の家族や若者に訴えかけることで、森永は、そのセールスポイントの基本である健康、活気、そして楽しさを様々な字体の統合によって、宣伝することができた。
図 13
結び
1920年代から30年代は、日本に近代のプロのデザイン分野が出現した時代である。ビジュアルアート(特に芸術と応用美術の間)での増加する分業は、専門知識の幅広い組織化をもたらした。消費者市場の急速な拡大と同時に、デザイナーたちの間で新しいプロ自己意識が芽生え、マスメディアが国家的かつ商業的な目的のための字体による伝達潜在力に対する広範な関心に火をつけた。日本のデザイナーたちは、日本語の言語的な多結合による巧みな統合によって、芸術的、主観的、かつ観念的な意味を伝えた。有名なグラフィックデザイナーである田中一光(1930-2002)は、こうした多結合を以下のように、別のつながりで表現した。
『日本人は箸とフォークを巧みに使い分けることができる。どちらを選ぶのかなど、難しいとは思わない。これらは、生まれたときから共存している二種類の道具にすぎない。日本人は、朝食に和食を食べ、昼食に中華、そして夕食には欧米人が食べる物とまったく同じ本格西洋食を食べる。西洋式バスタブにつかり、そして畳の部屋で寝る。これらはどれも特別な習慣ではないのだ。』
今日の日本人は、異文化調理習慣によって変化した日常生活を過ごすのと同様にまた、タイポグラフィーや書体デザインによって見やすくされた多言語に駆り立てられるダイナミックな視覚文化の中で暮らし、それを創り続けている。
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