金魚の寝言 〜ご隠居さん〜


第二十五号 2003年9月4日

 奥山さんは下駄作りが本業だがそれだけでは食っていけないのか新聞配達もしていた。わたしの次兄が夏休み限定で奥山さんのほんの一部だがアルバイトでやらして貰うことになった。それはハーモニカが欲しいという ことからだった。わたしたちの家から歩いて1時間ほどのところにある集落を受け持つことになった。兄はわたしにおまえも一緒にやるならやるがどうする?と言った。そのかわりハーモニカは共用にしてやると。
 わたしは暑いときに新聞配達なんか嫌だった。それにハーモニカなんて欲しくなかった。しかしわたしがついていかなかったら兄は出来ないことを知っていた。兄は極端なほどの恥ずかしがり屋で買い物に行くにもお使いに行くにもわたしがいなければダメだった。しかたなくついていくことにした。
 みんなは普賢岳を覚えているだろうか。噴火で多くの人の命がなくなったあの山である。その普賢岳の麓の集落がわたしたちの配達区域ということになった。夏休みの暑い中の配達はしんどかったが一つだけ楽しみがあった。集落のはずれに炭酸水が湧き出ているのである。毎日家を出るとき砂糖を持っていくのである。水筒の蓋のコップに何杯も即席サイダーを飲む。暑いときのサイダーということだけではなく出来たてのしかも地中から今湧き出たばかりのサイダーだから格別美味しかった。
 ついでに炭酸水で顔も洗う。なんだか毛穴がきれいになるような刺激がある。テレビで普賢岳の噴火の様子を観ながら「ああ、炭酸水が消える」と思った。実際には炭酸水はおろか人の命まで消えた。
 夏休みが終わると新聞配達も終わったがハーモニカがわたしたちの手元に残った。奥山さんの健脚は新聞配達で鍛えられたのは間違いない。それにしても百才を超えて女子アナの歩く速さより遅いとはいえ天草とか佐賀とかを走っている姿にわたしは涙ぐんだ(?)

 ご隠居さん

第二十四号 2003年9月2日

 冷夏の今年はことのほか残暑が厳しい。夏休みも残り10日ほどになるとツクツクボウシが鳴き出し山ほど残った宿題を急がせる。しかし今年はあまりツクツクボウシの鳴き声を聞かない。毎日ウォーキングしているが未だにクマゼミがうるさい。
 勝手に残暑なんていってるが今が本格的な夏で猛暑なんだ。とするとまだ慌てて宿題なんかしなくてもいいわけだ。おっとわたしは宿題なんてしなくてもよかったんだ。子供の頃のトラウマ(?)なのか夏休みの終わり頃、ツクツクボウシを聞くとやたら悲しかったことがよみがえり今でも悲しくなるということから抜けきらない。早い話精神不安定に陥るのである。これはいつになったらよくなるものか見当もつかない。引き揚げ者住宅の話に戻らなくてはならない。
 わたしの小道を隔てた隣に奥山さんという下駄作りの名人がいた。なんでも京城のデパートの下駄部門の主任だったらしい。狭い家に下駄の材料の四角に切った木を山ほど積んでいた。
 道具もかんなや鉈や鑿のほか見たこともないものがきれいに研がれて整理されていた。分厚い眼鏡をかけ魔法のように下駄が出来ていく様は子供心にも弟子にして欲しいほどだった。あらくたいわたしのために奥山さんは強い木で下駄を作ってくれた。それまで2,3日で割れていたのに割れなくなった。しかしそれまでのと比べても数倍重い。そのぶん走るとよく下駄がぶれてくるぶしを打つものだが痛さも数倍だった。そのことを母に 訴えても「おまえはあらっぽいのだからそのくらい我慢しなさい。」という返事しかかえってこなかった。
 奥山さんの小父さんのことはすっかり忘れていた。ある時テレビを何気なく観ていたとき「百才のマラソンランナー」が映されていた。歩いているインタビュアーの女子アナより遅い速度で走りながら「ビールが大好きです。」と答えているのは奥山さんだった。
 わたしが子供の頃とほとんど同じ顔だった。帰省した折り奥山さんが生活している養老院にビールを持って尋ねていった。「わしのしっとるこうちゃんは、こがん年はいっとらん」と言い張り認めて貰えなかった。しかし、ビールだけはうまそうに飲んでいた。

 ご隠居さん

第二十三号 2003年8月16日

 終戦記念日は空腹を思い出す日。小学4年のわたしは父の引く大八車の後についてカボチャの買い出しについていった。農家と直接交渉して買い付ける。大八車いっぱいのカボチャが当面の食料である。
 父はこれで飢え死にしなくて済むという安心感からだろうか落ち着いた顔つきをしている。しかし、わたしは情けなかった。これで来る日も来る日もカボチャ責めが決定したことを意味しているからである。我が田舎は芋どころ、芋の粉で作っただんごも主食だった。
 芋の粉団子がどのようなものか見当がつくだろうか?最近食べる芋や石焼き芋から連想して「美味しそう」なんていってくれるな。真っ黒なのである。それを「くろダゴ」といった。今では芋の粉で作った「ろくべ」というスパゲティのような食べ物が観光用に人気しているが所詮代用食なのである。米は盆と正月に遠足と運動会以外は口にすることはできなかった。遊びの魚釣りは遊びではなかった。生活そのものだった。
 栄養状況が極端に悪く大抵の人が体力がなく病気になるとひとたまりもなかった。そのころ肺結核が猛威をふるい不治の病だった。わたしは三男だが長兄、次兄が二十歳の声を聞くや相次いで死んだ。従兄弟や伯父、伯母をはじめ親戚の者を合わせると何人死んだか分からないほどである。
 わたしは人のものでも食い生命力があるのかまるまると太っていた。しかしやはり栄養失調なのか「鳥目」になった。夕方になると見えなくなるのである。道にある小石も見えなくてけつまずいて転けるのを見て父は「鳥目」だといった。近所の谷口さんはウナギ釣りの名人で毎日一匹ずつ分けて貰うことになった。わたしは肝だけを食べ身は父が食べる。家族が多いので誰の口にも入らない。
 わたしも身を食べたいが肝を食べているので「おれも食いたい」なんていえない。一月ほどウナギの肝を食べ続けるうちに鳥目もよくなった。兄たちの死はわたしの内に影を落とした。
 わたしも二十歳が自分の寿命だと思うようになった。二十歳が近づくのが気味が悪かった。だがあるときふと思った。「みんなが死んでいく中で生き残ったんだからおれはとてつもなく強いのかも知れない」その日を境にわたしはいじいじと考えることを止めた。それは60年の安保闘争のさなかだった。大学生になっていた。
 子供の頃は何でも食える物は食った。池で蛙を釣っては食い、山にウサギの罠をかけてはウサギを食いというぐあいだった。畑のトマトやよその果物なども取って食べた。
 しかし決まりがあった。同じ部落の物は盗ってはいけないというものだった。誰云うともなく決まった不文律だった。
 今日は16日、「地獄の釜の蓋が開いてるので泳いではいけない」といわれているので子供達はコッソリと泳ぐ。閻魔様に足を引っ張られたらどうしょうと心配しながら。

 ご隠居さん

第二十二号 2003年8月15日

 今日は終戦記念日。同時にお盆である。子供にとっては終戦記念日よりお盆の方がはるかに大事だった。
 我が田舎島原地方では初盆の家に関わりのある者は灯籠を仏様に供える。なぜかその殆どが切り子灯籠である。初盆の家の格や規模によって違うが普通の家で何十個、ちょっとしたところでは何百個の灯籠を貰うことになる。
 それを精霊船で流すのだが金持ちはその家だけで船を造ってしまう。今でも盆には帰省する者も多いが、昔は殆どの者が里帰りしていた。それだけ人の交流が活発になり、田舎にも活気が出る。
 盆にはどんなに貧乏でもどの家にもスイカと饅頭だけはあった。日頃腹を減らしているわたしにとっても、盆の間だけは何の心配もいらなかった。
 去年まで真っ黒になって遊んでいた近所のにいちゃんがおしゃれして帰ってくる。言葉はいつのまにか東京弁になっている。頭にシラミをわかせ、子守していた近所のねえちゃんがお化粧をして、大阪弁をしゃべりながら帰ってくる。
 その姿の変わり様を見ながら、子供達は都会に憧れる。お土産に貰うおかしは駄菓子屋で買うそれとは随分違う。そのお菓子をほおばりながら「なにがなんでも都会に行ってやる。そして一旗揚げて故郷に錦を飾る」夢を見、決意を固めるのである。
 お盆は仏事だが子供にとっては信仰なんて関係ない。新たな夢を見る 文化なのである。いつも腹を減らしているわたしの夢は食い物屋しかうかばない。それもレパートリーが貧弱だから、夢も貧弱だった。せいぜいカレー屋かコロッケ屋ていど。それでも夢があった。年を取るにつれ夢はなくなっていくものか大学生になる頃は何一つなかった。
 それはともかくわたしは坊さんが嫌いだった。盆には当たり前だがその坊さんが来る。なぜ坊さんが嫌いかと云えばある時わたしの親と坊さんがわたしを養子にくれとか、宜しく頼むとか話しているのを聞いてしまったことによる。わたしは自分が腕白のガキ大将で何一つ云うことを聞かないからだと思っていた。
 その話はわたしの兄が二人も死んでしまい、立ち消えになり真相は分からない。盆と兄たちの命日は坊さんに会わないように、わたしは逃げ回っていた。
 今夜、船を流した後沖を流れる精霊船を襲い、積んであるスイカやご馳走を強奪するのがまた楽しみであった。その時の仏罰が今当たっているのかも知れない。わたしたちは海賊の血が流れているのかもしれない。

 ご隠居さん

第二十一号 2003年8月12日

 立秋も過ぎ明日はお盆の入り。長崎は佐田まさしの歌で有名な精霊流しが行われる。
長崎のそれは賑やかで華やかでお祭りである。チャンコンチャンコドーイドイ、のかけ声の中、銅鑼は鳴り響く爆竹はそこかしこではじける。それはそれは賑やかである。
 しかし我が島原地方は竹と藁だけで作られた精霊船を各部落ごとで作る。それを酒の入った若い衆が担ぐので他の部落と鉢合わせたり、道の 順番争いですぐに喧嘩沙汰になるのである。それがまたスリリングで何事もない年は「今年はつまらんかった」と子供には不評である。
 若者に担がれた精霊船は決められた海岸で僧侶の読経の後海に流されるのである。早い船はまだ明るさの残る頃に流されるが、最後の船が流される頃には夜も白み始めるのである。夜通し沖合を提灯(切り子灯籠)で飾り付けられた船が流れていく様は幻想的でさえある。
 我が引き揚げ者住宅でも精霊船は作られた。作る日は12日だった。その日子供は朝から大張り切りだった。
 大人の指図で近所の農家に藁を貰いに行くもの、山に竹を切りに行くもの、仏の花を山で摘み船に飾り付けるもの、みんな充実感でいっぱいの顔をしていた。
 大人は子供達を地域ぐるみで教育していたのである。今年は誰が担ぐのか、指揮は誰かで子供の話は持ちきりだった。
15日の夜ともなると子供達は精霊船の後をついて「ナマイド、ナマイド」のかけ声をかけてついて回った。
 船作りの指揮は大工の松川さんだった。松川さんは大工だけあってこだわるのである。竹が細いと怒られたり飾り付けが下手だと怒鳴られたりだった。それがまた子供にとっては楽しいのである。
 ある年松川さんは一言も怒らなかった。わたしたちは「おかしかね。松川さんはどうしたとかなあ。あんな松川さんはつまらんね」と噂しあった。
 松川さんは次の年には仏になって船で送られてしまった。なんでも「酒を飲み過ぎて腹が焼けてしもうた」ということだった。次の年の船作りの前にみんなで松川さんの墓参りをした。しんみりしたのは一時ですぐにいつものような賑やかな船作りが始まった。

 ご隠居さん

第二十号 2003年7月29日

 野球狂時代がどんなものか想像がつくだろうか?ともかく凄い。猫も杓子も野球だった。といっても猫や杓子が野球をしたわけではないが。川上、青田、大下の全盛時代。
 テレビがない時代だがラジオにしがみついた。しかしそのラジオも良く聞こえない。なんでも3級スーパーとか云う代物だが電波に文字どおり波があって、大きくなったり小さくなったりだった。
 それでも自分の家にあればいいが、よその家でなってるラジオに聞き耳を立てていた。日曜日ともなれば場所の奪い合いで、学校の運動場は四隅でやっているので、当然のことながら外野手は混じり合ってゴチャゴチャしている。ボールが飛んでこようものならみんなが追いかけることもよくあった。わたしたち子供は大人に命ぜられて朝早くから場所捕りに云った。花見時の新入社員と同じである。
 しかしそのことに不満はなかった。下手くそでも大人達の野球はまるでプロ野球を観るようだった。わたしたちの部落と同じ引き揚げ者住宅の新山チームには阪急ブレーブス(今のオリックス)の元選手がいた。
 歳は分からないがかなり年配だったがともかくよく打った。我が方には わたしの従兄弟で京城中学のレフトだったのがおる。甲子園には出ていないが、神宮大会には朝鮮代表で出たそうである。歳は30才を少し超えていただろうが、元野球部のことよく打った。この両チームの強打者の競演だった。草野球だが子供達にとっては巨人や阪神と変わりはない。瞬く間にクラブチームや、職場チームが数多くでき彼らはユニフォームを着て格好いいのである。
 我が部落のオッさんチームは股引や作業着にどた靴。勝てるはずがない。「野球は服装でやるのではない」と強がりを云ってみても試合開始の時ホームベースをはさんで整列したときから勝負はついているようなものである。ユニフォームチームは胸を張っているし、股引チームは下を向いているのである。
 股引チームは3度ほど大敗をして情熱をなくし解散してしまった。わたしたちは将来の川上を目指して来る日も来る日も野球に興じていた。バットは山から切り出した木を削り、ボールはコルクを凧糸で巻きその上から帆布をかぶせてつくった。見かねた近所の種やさんがサトウキビの苗をくれた。山を開墾してサトウキビを植えてそれを売ったらボールやバットぐらい買えると云うことだった。
 次の年の夏にわたしたちはボール何個かとバット2本と革のグローブ1個買った。グローブは日替わりで持ち帰り抱いて寝た。グラウンドは近所のお金持ちの庭だった。
 初めのうちは嫌がられて追い払われたが、追われても追われても子供達が舞い戻るのでお終いには諦めて何も言わなくなった。
 考えてみれば自分の庭を近所の子供とはいえ占拠されるのだからたまらないだろう。しかし今と違い昔の人たちは心が広かったのだろうか。怒られ追い払われているころは悪態ばかりついていたが、何も言われなくなったら庭の草引きや、風呂の水くみなどを手伝うようになった。
 10年ほど前に帰郷した折りにそこに寄ってみたら代も変わり庭にはアパートが建っていた。1塁ベースの後ろにあった梅の木は切らずに残っていた。梅の木の根本にあった猿の腰掛けは一回り大きくなっているように見えた。

 ご隠居さん

第十九号 2003年7月21日

まだ梅雨は明けていないみたいだけど、子供達は夏休みになっている。夏休みに梅雨が明けていないという現象は最近のことである。数年前も梅雨明けが宣言されない年があったみたいだが、けじめがつけられないのは人間世界だけのことではなさそうだ。
 夏休みの夕方には蛍捕りに出かけたものだ。土手には月見草が咲き乱れていた。しかし、わるがきにとっては蛍なんて一度か、二度捕ればもう飽きてしまう。「夢のお花の月見草」なんて感傷に浸ってはおれなかった。わるがきたちは「ホタルとりにいこう」と誘い合ってはビワを盗りにいった。「きょうはどこのホタルを盗る?」なんていわなくても、昼間にちゃんと下見を済ませてある。
 盗っても目立たないところ、食べ頃に熟れているところがインプットされているのである。それも二三度続くと母には分かってしまう。「高木さんところのホタルはとってはだめよ。あそこのおじさんは恐いから半殺しに合うよ。」などと忠告してくれる。
 ある時友達が「ホタル盗りに行こう」と誘いに来た。手ぶらで出かけようとしたわたしに母は「ホタルかごは?」といって、母がいつも買い物に持っていく竹で編んだ大きな買い物かごを渡してくれた。
 教師になって職員会議で「そいうことははやく芽を摘まなければドロボウになります。」なんていう先生がいる。「わたしはドロボウになってません」と叫びたくなるがニヤニヤして「田舎の人はみんなドロボウかもしれませんね」という。
 今のアメリカだったらひょっとしたら銃で撃たれるかも知れない。という現実もある。 難しい。

 ご隠居さん

第十八号 2003年7月14日

世の中は野球狂時代を迎えていた。野球ゲームが雑誌の付録にあって、わたしは巨人軍の「オーナー」になった。
 わたしの兄が阪神、親友のみっちゃんが南海、というように自分の好きなチームをとることになった。50年経った今でもわたしは巨人ファンだし、児玉君の中日ファンは変わっていないし、みっちゃんも南海は無くなったが、ダイエーファンを続けている。
 終戦後のつらさを紛らすためか、戦争で野球が出来なかったのを取り戻すためか大人達も日曜日には学校の運動場で野球に夢中になった。しかしわたしの長兄はまだ旧制の中学を出たばかりの若者なのに、野球を知らなかった。
 ある日、他の引き揚げ者住宅と対抗試合をすることになった。わたしの父がショート、長兄はライトだった。長兄は試合に出して貰えるということで前の晩からやたら張り切っていたが、なんせ野球を知らない。わたしはそれが心配だった。
 心配は的中するものだ。フォアボールになった兄は、一塁まで歩いていけるということを知らない。他の人たちが「一塁に行け」と叫ぶのを見て全速力で一塁まで兄は走り出した。その顔つきと走る姿を見て応援しているわたしは恥ずかしくなった。そのうえ、兄はあろうことか一塁ベースにすべりこんだのである。みんなが大声で笑うのがわたし自身が嗤われたようで逃げ帰りたかった。それで終わればまだ兄は剽軽ぐらいで済んだだろ うが次の打席で、振ったバットにボールが当たりセカンドゴロになった。兄は慌てた。一塁に走りかけて何を思ったのか、ホームベースに戻ると三塁に走り出した。見てるみんなが驚いた。「一塁だ。一塁だ。」と叫ぶので兄はうろたえた。どうしていいか分からないままにアウトになった。
 その夜、わたしは二十歳近い兄をなじった。殴られても蹴られてもなじらずにおれなかった。本当に大変だったのはわたしのほうだった。近所の悪童達はそれから一年近くことあるごとに「こうちゃんの兄ちゃんは、喜劇役者になるとよかばい。」とからかった。野球をして遊んでるときなどもたまには反対の方へ走ったり、フォアボールなのに一塁にすべりこんだりして「こうちゃん、兄ちゃんに野球ば教えたか?」と言っては笑い転げた。わたしも半泣きになりながらも一緒になって笑うより仕方なかった。
 嘘の話のようだが、まったく事実である。文化とはそういうもので、知っている者にとってはなんでもないことが、知らない者にとっては大事件である。わたしも高校の時、初めて都会に行き、ざるそばなるものを友人と一緒に食べにいった。話に聞くざるそばがどんなものか食べてみよう。ということになったのである。
 でてきたざるそばの食べ方が分からない。そばの上にだしをぶっかけた。ざるに水が溜まらないということは知っているが、ざるそばの食べ方を知らなかっただけである。

 ご隠居さん

第十七号 2003年7月12日

 やっさんのお向かいに宮田さんという鍛冶屋さんがいた。この小父さんもやさしかった。歩く姿は「老人」だったが、ふいごを引いたり、鉄を打つ姿は、なんだか名人に見えた。「なんば作りよっと」と聞くと「こうやって鍬を作るんだ」「これは鎌だよ」と歯のない口をモゴモゴ言わせて答えてくれた。
 その宮田さんの奥さんは髪の毛は殆ど白髪で笑ったこともなくわたしたちが宮田さんの仕事場に座り込んで見ていると、「こらぁ、帰れ」と箒を振り上げた。その姿はまるで鬼婆のようだった。子供達は即座に「鬼婆」と名付けた。わたしたちが「鬼婆」と言っていることを宮田さんは知っていた。
 あるときわたしたちが「宮田さんはどうしてお婆さんと結婚したと?」と尋ねた。宮田さんは「今は鬼婆だけど、昔はいい女だったぞ」とニコニコしていった。
 ある日、何があったのか、何もなかったのかは忘れたがすれ違いざまに 「鬼婆」と言った。鬼婆は口が耳元まで裂けて(本当にそう見えた)髪を 振り乱して追っかけてきた。わたしは家に逃げ帰り押入の中に隠れた。まもなく鬼婆が玄関先に来てわたしの父に「今帰った子供を出せ」と叫んでいた。
 父は「子供は帰ってない」と答えた。「下駄がある」と鬼婆が言った。父は「今日は靴を履いて出かけた。」と嘘をついた。そのやりとりを押入の中で聞きながらわたしは「お父さんも嘘をつくんだ。」と思った。
 その日からわたしは宮田さんの仕事場に行けなくなった。道ばたで宮田さんに会うと「気にせんでもええ。」と言ってくれたがわたしは鬼婆が本当に恐かった。今度捕まったら食われてしまうと、思いこんでいた。  宮田さんの打った鍬は使いやすくて丈夫だということで注文も多かったみたいだけどいつのまにか引っ越していなくなってしまった。大人達は宮田さんは頭の血管が切れて死んだらしいといっていたがわたしたち子供は誰もそのことを信じていなかった。
 仕事しているときの宮田さんは生き生きとして若かった。「こんな引き揚げ者住宅なんかでなくて、もっと立派な仕事場で宮田さんは仕事をしている。死んだのは鬼婆の方だ」というのが子供達の定説になったが、わたしは密かに「あの鬼婆は死なない。500年くらい生きる」と思っていた。

 ご隠居さん

第十六号 2003年7月5日

 大八郎の師匠が誰か分かった。近所のヤッさんというおじさんだった。ヤッさんは安田さんというおじさんである。なんでも外国航路の船長さんだったらしい。50才過ぎで(多分)いつもランニングシャツ一枚でニコニコしていた。ヤッさんの怒った顔をわたしは否全ての子供達はみたことがない。ニコニコしてなにやらぶつぶつ独り言をいつも言っているし会話が噛み合わないので子供達は「ヤッさんは頭がおかしいのだろうか」と噂しあっていた。
 大人達の話によるとヤッさんは「梅毒で頭をやられている。」ということだった。バイドクがなにかわたしたち子供で知っているものは誰もいない。ある時みんなで辞書を引くと梅の毒と書いていた。気の毒にヤッさんは「梅を食べ過ぎて、頭をやられたに違いない。」というのが結論だった。
 そのヤッさんはきのこ採りが好きでいつも山に行っていた。大八郎もヤッさんについてやまにいくうちにきのこの沢山生えているところや、食べられるものと、そうでないものの区別が分かるようになったということだった。ヤッさんが一人で山に行ったときよく松茸を採ってきた。わたしたちが「こんなに沢山松茸をどこで採ってきたの?」と聞くとヤッさんはニヤニヤして「向こうの島」というだけだった。
 ある時わたしたちはヤッさんが山に行くのを確かめてコッソリ後をつけた。そんなときはヤッさんは決して松茸のある場所には近づかない。弟子の大八郎も松茸の巣は教えて貰えなかった。大人達はヤッさんのことを馬鹿にしていたが、わたしたちこどもは好きだった。ヤッさんの話はチンプンカンプンだったが面白かった。誰かが「ヤッさんは馬鹿のふりしてるけど本当は天才なんだ。その証拠に難しい算数問題を(高等数学?)してい るのを見た」といった。大人達の言うことよりわたしたちはそのことの方を信じた。

 ご隠居さん

第十五号 2003年7月3日

 美智子ちゃんはたしかに「おかあさま」と言った。引き揚げ者ばかりだから言葉は共通語が多い。しかし、おかあさまはよすぎる。聞くところによると何でも美智子ちゃんのお父さんは満州総督府の高級官僚だったらしい。とするとおかあさまもしかたがないか。引き揚げ者は朝鮮、満州、ジャワ、スマトラ、等々世界各地からだった。そして嘘か本当か大方のものが引き揚げる前は外地で良い暮らしをしていたと言い張った。
 美智子ちゃん姉妹の顔立ちや彼女たちの“おかあさま”の立ち居振る舞いを見ると肯けるが大八郎、新助兄弟は怪しかった。彼らの父親が南洋でゴム園をやっていて“召使い”が30人はおったと言い張った。それでは完全にお坊ちゃんではないか。しかし大八郎の顔は食べかけのおにぎりだし、新助はねずみのミイラ顔だしどうみてもお坊ちゃんにほど遠く彼らの父親といえばいつみても小汚い恰好で焼酎を飲んでくだまいていた。母親は乳飲み子を抱き胸をはだけて「ダイハチロウ、ダイハチロウ」と怒鳴っていた。大八郎はお坊ちゃんではなかったが、得意能力の持ち主だった。 食べ物を探すことに掛けては、天才だった。ミカンの頃にはどこのミカンが甘い、あそこはすっぱいと言い当てるし柿なども甘柿か渋柿かを一発で見分ける。その調子でどこからか食べ物を調達してくるのである。そんな時だけ「大ちゃんは凄い」とちゃんづけで呼ぶ。
 みんなが腹を空かしてる時だからお坊ちゃんも、お嬢ちゃんもなく大ちゃんに教えられ食べ物を探してさまよったものである。キノコの鑑定なども出来るようになった。果物を探してくるのは分かるが、大八郎はまんじゅうとかおにぎりを持ってくる。米の飯など盆と正月、遠足の時以外には食べたことがない時代に米のおにぎりを持ってくるからにはなにかいわくがあるにちがいないと誰もが思うがそれを口にすると食えないので食ってからわたしは聞いた。「共犯でもいい」と一大決心して「どこから盗んできた?」初めは貰ったといっていたが、みんなして「米の飯なんかくれる人などいるわけない」と問いつめると「墓に置いてあったから貰ってきた」という。
 「それでは泥棒ではないか」と食べるだけ食べて正義ぶってはみるもののなんだか後ろめたい。「大丈夫だ。ちゃんと仏さんに断ったから」という大ちゃんの一言でみんなも安心した。否、安心したというよりもそれ以上追及しない方が良いという「大人の解決」を身につけていくのである。

 ご隠居さん

第十四号 2003年7月1日

 わたしが小学2年生の春、引き揚げ者住宅に当たったと両親や姉兄達が喜んでいた。急増する引き揚げ者のための住宅が山を切り開いた造成地にこれまた急造のバラックが建てられた。6畳と3畳の二間で二個一の住宅である。そこに親子7にんがひしめき合って暮らした。台所もない。玄関の土間が台所にもなった。天気の良い日は外で煮炊きをして雨の日は玄関が台所になるのである。トイレは便器もなくただ穴が長方形に切られているだけである。
 大人達の話ではこの急造のバラックは10年ももたないと、作った 大工が話しているとのことだった。さすがにこれでは不便だということで冬が来る前にこれまたバラックの台所を作った。屋根はトタン葺きなので雨の日は話し声も聞こえないほどだった。気が付いたら天井もなかった。
 隣とは杉板一枚で仕切られているだけなので隣の話し声はもちろんのこと、寝言や歯ぎしりまで聞こえる始末である。それでも他人の家で小さくなっているよりどれほど嬉しかったことか。
 家のすぐ近くを島原鉄道が通っている。そのころは鉄道が交通の中心ゆえ本数も多く汽車が通るたびに吃驚したもんだ。家から10メートルほど向こうを汽車が通るのだから、寝ているときなどは頭を轢かれる思いだった。
 島原鉄道といえば汽車一号の「義経」が一番遅くまで使われていたらしく、上野博物館に行ったとき昭和15年まで島原地方を走っていたと書かれていた。終戦直後の島原鉄道の汽車は「義経」でこそなかったが、よく似ていて煙突が細くて長く汽笛もピーと甲高い。
 話を戻そう。引き揚げ者住宅は二期にわたって造られ、合計80戸程あった。引っ越したその日わたしはちょっと散歩に出た。ところがどれもが同じ造りなので帰る家が分からない。えい、ままよとばかり入り込んだ家のちゃぶ台が我が家のとよく似ていた。
 そのちゃぶ台の上にふかした芋がざるにいれて置いていた。わたしは迷わずその芋をほおばった。そこへ人声がして家人が帰ってきた。
「おかあさま、芋泥棒ですよ。」という声がした。おかあさまと呼ばれた人は口に手を当てて「ホホホ、まあ可愛い泥棒ですこと」そこには女の子ばかり3人いて、美智子ちゃんが一番上で9才、泰子ちゃんが6才もう一人4才の子がいたが名前はどうしても思い出せない。ともかく友達第一号で姓は鈴木さんといった。

 ご隠居さん

第十三号 2003年5月14日

先日長寿日本一の村へ行って来た。
さつまいもの植え付けをしてきた。鳴門金時ですぞ。
収穫がうまくいけばみんなに焼き芋をご馳走しよう。それにしても雑草の強いこと。「雑草魂」なんて褒めすぎの何物でもない。草引きに手を焼く物のことを考えない言いぐさです。
最近はイノシシや猿の被害が甚大だと近所のお婆さんが言っていた。 「むかしのシシはぁ、人間ともうまくやれたのにぃ近頃はぁ、シシまでぇ言うことをきかんようになってしもうた。」となげくお婆さんは哲学者の顔だった。
 ところで相談だが家のひさしが朽ち落ちて雨で壁がやられる心配がある。修理をお願いできないだろうか?

 ご隠居さん

第十二号 2003年4月8日

 春が来た。私の春は和良行きから始まる。和良も花こそまだだが、そこここに春があふれていた。土筆も蕗の薹も顔を出し春の日の下でのどかさを演出していた。我が家のサクランボの枝には多くの蕾がスタンバイしていた。
 春の陽気にうかれながらもわたしはしっかりと畑仕事をした。耕し畝を作りジャガイモの植え付けをした。ことしはメークイン、男爵、むらさきいも、アンデス、の四種類を植えてみた。収穫は七月の初め頃だが今から心待ちにしている。
 まだ陽光があるうちに風呂に入り窓から山や畑を眺めるのは最高に気分がよい。平和である。イラクで多くの人が死んでいってる事実さえしばし忘れる。次元が違うのである。
 ところで和良村が長寿日本一になった新聞記事は見ましたか?わたしはなんだか自分が長生きしてるような気になりました。

 ご隠居さん

第十一号 2003年3月16日

 日課の散歩コースに狭山池周回コースがある。天気が良い日はかなりの人が歩いたりジョギングしたりしている。
 一周約3キロ程の絶好なコースである。野鳥も多く観られなかなか楽しい所である。最近はなぜか川鵜が多く観られるようになった。
 その川鵜のことだが20〜30羽が池の中の石の上で一列になって休んでいる。中には羽を広げて乾かしているのもいる。しかしいつ見ても彼らはみんな同じ方向を見ているのである。一羽たりとも後ろを見ているものはいない。
 この統率のとれた行動にわたしは些か羨ましさを感じるのである。時にはクラスの子供達に一糸乱れぬ行動をやらせてみようと夢を見ることもあった。しかし、それはかなり恐い顔をしなければできないのである。 川鵜の中に優れたリーダーがいるわけでもないだろうに、なんでだろう?

 ご隠居さん

第十号 2003年3月13日

 今日も日課の散歩に出た。横断歩道で「とおりゃんせー、とおりゃんせー」のメロディーがなっている。ところが「ここはどーこの」というところで音程がはずれるのである。いつも気になっているのだがいっこうに良くなる様子がない。
 ところが先日沖縄に行ったとき、我が近所の信号機よりもっと酷い音痴信号に出くわした。喜んで良いのやら、嘆いたが良いのやら、いまだに困っている。
 沖縄と言えば数多くのすばらしい歌手もでているし、言い歌も沢山ある。沖縄の方が歌が下手ということでもない。しかし、納得もいった。
 沖縄の歌は全体が音程がはずれている。小学校以来西洋音程に慣らされたわたしたちにはなかなか歌えないほどだということ。それにしてもどこに行っても、信号の曲はとうりゃんせだし、音程がはずれているのはなんでだろうー。

 ご隠居さん

第九号 2003年3月9日

 6日〜8日沖縄に行って来た。ツアーで少しばかり忙しかったがそれでも効率よく回れたと思っている。わたしにとっては初めての沖縄。なぜか沖縄に縁がなかった。戦後60年もたってるのに、どうしてもセンチメンタルになる。
 沖縄は我々の世代には激戦地、ひめゆり部隊ということを思い浮かべるのは仕方のないことだろう。あちこちと観光をしたけどやはりひめゆりの塔には涙を禁じ得ない。二十歳にも満たない娘達が大人達に裏切られ、見捨てられて若い命を散らしたことを思うとき切なさで胸が張り裂けそうになる。
 その年代の教え子達を思い浮かべながら記念館館内を回った。わたしもその時代に教師をしていたら同じように教え子達を欺き戦場に送ったのだろうと思えば、なおのこと胸は張り裂ける。平和な時代に平和運動や反戦運動をしてきたとはいえ、時代が違えばどうだったか分からない。
 イラクをめぐり今またきなくさいので、さぞや沖縄は騒々しいかと思いきや静かだった。基地周辺をバスで通過したがなにごともないようだった。
 沖縄=激戦地という意識ばかりでは沖縄の人にとっても迷惑なだけだろうがやはり忘れるわけにはいかない。わたしの父も沖縄か台湾行きを薦められたそうだが、朝鮮の師範学校に勤めた方が給料が良いと言うことで、朝鮮に行ったらしい。運命の分かれ道はどいうとこにあるのか分からない。
 沖縄は天気も悪く涼しかったが、大阪は凍えそうに寒かった。

 ご隠居さん

第八号 2003年3月3日

 夜汽車はすし詰め状態で西へ西へと向かった。行き着く先に故郷があるという。故郷と言ってもわたしには未知の土地。できることならこのまま脱走したかった。多くの友達を思い出していた。
 なかでも朝鮮人部落の友達が最も懐かしく思い出された。そこが北朝鮮なのか韓国なのか何という土地なのか、何も分からない。それを知っている身内はもう誰も生きていない。それほど時が過ぎたということだけど、わたしには鮮烈な思い出として残っている。
 何時間汽車に乗ったのか、すっかり明るくなった駅に着いた。そこが 島原だという。なんとも田舎町だった。うらぶれた気分になった。親戚の家に転がり込み、さんざん迷惑がられて、数日後に貸間を探しそこへ引っ越したときには、家族みんなで喜び合ったものだ。
 やがて学校へ行き始めたが、初日からけんかの連続だった。みんなして「引き揚げ者、引き揚げ者。」とはやしたて「貧乏、貧乏 乞食。」と取り囲んでははやしたてる。そいうことより言葉がいっこうに分からない。
 わたしが何か言うとドッと嗤う。わたしは外地育ちだからきれいな標準語。嗤われてわたしは腹立ちまぎれに「この田舎もの」と叫ぶ。田舎の子にとっては田舎者という言葉がこたえるらしく、そこで喧嘩になるのがおきまりだった。
 多勢に無勢勝てるはずもない。しかしわたしは相手が一人になったとき やっつけるという戦術をとりトーナメント方式で勝ち上がっていった。いつのまにか「あいつには逆らうな。」ということになりわたしも仲間入りが出来た。
 わたしはそれまで思ったこともなかった、喧嘩でも、勉強でも、かけっこでも田舎者には負けられないということを身につけた。いじめられたときは腹も立ちつらくもあったが感謝もしている。苦節数ヶ月でわたしは立派な田舎者になった

  −完−

 今、北朝鮮のことで報じられているようなことはつい半世紀前の日本でもあったことで人ごとに思えない。たとえば鬼畜米英といい、アメリカをやっつける絵を描いたり食料が無くいつも飢えていても、「欲しがりません勝つまでは」と言ったり。
 「おなかが空いた。」といえば「兵隊さんのことを考えなさい。」という返事しか返ってこない。少しでも軍部批判でもしようものなら憲兵に引っ張られたという。
 拉致家族は涙が出るほど気の毒だが、日本も数十万の朝鮮人を強制連行し炭坑等の肉体労働に駆り立てるようなことをしてきた。そのなかの多くの家族は未だに故郷に帰ることも出来ずに望郷の念に涙している人も多い。否、「故郷」という言葉にアレルギーを持つ人もいると聞く。
 わたしは北朝鮮の社会主義を100パーセント信用しないが人民には何の罪もない。独裁政治を打倒して、「人民による人民のための政治」を確立することを願っている。
 国民学校の図画の時間は戦争の絵ばかりを描かされたことを思い出している。

 ご隠居さん

第七号 2003年3月1日

 8月も終わり頃、いよいよソウルから引き揚げることになった。父は残務整理で残らなければいけないということで母と姉兄二人わたしそれに妹の6人でそれぞれがリュックに荷物をつめただけの、着の身着のままだった。
 妹はまだ3才なので母は妹を背負うと、荷物なんてほとんどもてない。わたしも1年生、持ったところでしれている。これから何が起こるのかわたしには分からない。
 わたしはほとんどピクニック気分だったに違いない。しかし、駅はいつも出征兵士を見送りに来た雰囲気と違いやたら怒号が飛び交っていたのを覚えている。
 我が家族は何か怯えているようにも感じられた。おそらくこれまで抑圧されていた朝鮮人と日本人の間での小競り合いがあったのであろう。わたしたちの詰め込まれた列車は貨車だった。今度は無蓋車ではなく窓も何もない真っ暗な箱だった。発車と同時に戸が閉まると後は何も見えない。
 人の遠慮がちなひそひそ声と、赤ん坊の泣き声だけが人の存在を示していた。どこかの女の子が「オシッコがしたい」と叫んだ。お母さんらい人の「我慢しなさい。」と困ったような声を聞くと、わたしも小便がしたくなった。「ぼくもオシッコがしたい。」というと兄たちが「我慢しろ」と怒ったようにいい母が「またおまえはまねをする。本当におまえはオッチョコチョイなんだから」と言ったので周りの人がドット笑った。
 母はわたしの顔を見ると口癖のようにオッチョコチョイと言った。たしかにわたしは落ち着きのない子だったがなにも公衆の面前で親が子をなじることもあるまいに。
 まもなく汽車はどこかの駅に停まった。田舎だったので疎開先の駅だろうかとも思ったがみんな同じに見えるので分からない。トイレに並んだが人がやたら多くて順番が回ってこない。しかたがないので草むらにすることにした。発車のベルが鳴るのにまだ止まらない。やっとの事で出し終わったときは、汽車はゆっくりだが動き始めていた。家族の乗っている箱はどれか分からない。
 どこかのおじさんが手を伸ばしてくれたので家族とは別の箱だけどやっと乗ることが出来た。この時のことは30才過ぎまで夢に見た。汽車が少しずつ速くなり家族もどこか分からなくなってわたしは、たしかに「もういいか」と諦めかけたような気がする。
 そうなっていたら今頃は残留孤児として身内を捜し回っていたのだろうか。次の駅で家族と「再会」することができてホットしたのも束の間「オッチョコチョイ」という罵声だけが待っていた。わたしを打たれ強い子に育てようという家族愛だと思いたいが、たんなるミソッカス、わたしはそういう環境で育った。
 汽車はやがて釜山についた。  つづく

 ご隠居さん

第六号 2003年2月28日

 戦争も日韓併合も子供のわたしには何の関係もない。その村での友達は みんな朝鮮人だがいろいろな遊びを教えて貰い限りなく幸せだった。
 わたしの兄は体が弱くみんなとはあまり遊ぶことなく本ばかり読んでいた。朝早くからスイカ畑に行きよく冷えたスイカを食べ、日が昇ると川に行きウナギやナマズを獲り、蒲焼きにして食べた。また朝鮮の遊びも沢山 教えて貰った。しかし、幸せは長くは続かない。
 ある日突然父が来た。今思えばその日は8月15日だったに違いない。父と伯父と兄はなにやら話しみんなして泣いている。話の切れ切れに、戦争に負けたらしいことが分かった。
 なんでそんなことが悲しいのかわたしにはわからない。「明日帰るぞ。」と父が言った。わたしは嬉しかった。居候の身から解放される。 しかし困った問題があった。聞けば朝早く帰るという。みんなにお別れを言いたかった。
 頼んで頼んでやっと昼過ぎの汽車にして貰うことが出来た。初めはみんなして「ダメだ。」という。「だったら、僕一人で帰る」ということに父は困ったらしい。
 明くる日、わたしたちは帰途についた。汽車には違いないが客車などではなく、貨車。しかも無蓋車。まるで豚か牛なみ。突然の夕立でずぶぬれ。しかしその後の夕日が美しかった。
 日が沈む頃、あちこちで提灯行列が始まった。韓国にしてみたらその日は独立の日だったのだ。時折石つぶてが飛んできた。それまでの日本による圧政に対する恨みは相当なものだったに違いない。子供のわたしにはなんのことかさっぱり分からないことであった。
 京城(ソウル)の駅で荷物を受け取るとき、二つあった荷物が、一つ紛失していた。家に帰り着くとそのことが家族の大きな話題になった。家族はみんな「朝鮮人が盗ったに違いない。」と言った。わたしは一緒に遊んだ友達やその家族を思い出してもみんな優しくておおらかだし「それは絶対無い」と言い張った。そして一人だけ犯人を思い出した。
 「荷物を盗ったのは誰かぼくは知ってる。」「だれ?」「伯父さん」 母にきつく叱られた。伯父は母の兄弟達の長兄で誇りでもあったのである。
 なんでもあとで聞いたことによると国定教科書の理科の編集委員の一人だったそうである。そういえば伯父は手製の望遠鏡で絶えず星を眺めてはなにやらかいていた。
 しかしわたしにいわせれば、なんぼ理科の権威か知らないが教師としては失格だと思っている。ましてや伯父さんなんて認めたくもない。半世紀も前に死んだというのに今思い出しても顔が歪むような気がする。それはともかく叱られても「伯父さん犯人説」を撤回しなかったことでとうとう物置小屋に入れられてしまった。   つづく。

 ご隠居さん

第五号 2003年2月27日

 最近のテレビで北朝鮮のことを報じてない日はない。多分本当のことではあるだろう。しかし、わたしにはマスコミにも問題があると思われる。ついこの前まで日本でも同じようなことが行われていたことを忘れているとしかいいようながない。
 わたしには北朝鮮の弁護をするいわれはなにもない。そもそもわたしは北朝鮮を社会主義の国と認めていない。むしろ社会主義に敵対するものとさえ思っている。
 わたしは京城(現ソウル)からの引き揚げ者である。日本帝国主義が 朝鮮を植民地化していた頃、わたしの父は役人として統治に手を貸していた。終戦の年、わたしは国民学校に入学した。(そのころは小学校ではなかった)入学して二ヶ月ぐらいして戦争は激化し学校は閉鎖され疎開することになった。わたしは伯父が(母の兄)田舎の校長をしていたのでそこに5才上の兄と行くことになった。(親戚のないものは集団疎開だということだった。)
 そこは朝鮮人部落で日本人は伯父夫婦と同じ学校の教師の一家族だけだった。わたしはその伯父が嫌いだった。笑った顔など見せたこともなければ冗談の一つも言ったこともない。わたしたち兄弟がちょっとでも騒ぐとめがねの上から睨み「静かにしなさい」小言をいった。
 ある時わたしは寝小便をした。伯父は「一年生にもなって寝小便するとはなさけない。」と今考えるとおよそ教師らしくない思いやりも何もない冷酷な言葉だった。「わたしは地図を書いて国土を増やしている。」といった。伯父は「そういうふうにすぐ誤魔化すやつはわたしは嫌いだ。」と言った。
 わたしは情けなかった。伯父のところに行く前に母は「家みたいにわがまましてはダメよ。伯父さんは厳格だからね。」と言い聞かせていた。わたしも居候の身であることを少しは自覚していたので「良い子に」していたのに「おまえは嫌いだ」と同じ意味の言葉をいわれ、「ぼくも伯父さんのような恐い人は大嫌いです。」と言い返した。兄がびっくりして思わずわたしを肘でこずき「すいません。わたしからよく注意しておきます。」とあやまりわたしをその場からつれだした。
 そういう兄にも不満だった。ここは一緒に闘うべきだと思った。伯母さんは優しい人だがやはり伯父の前では何も言えなく、後で「ゴメンネ、我慢してね」と言ってくれた。わたしはどんなに叱られても反発する力は持っていたが、優しい言葉に弱かった。泣けて泣けてしかたがなかった。
 伯父は教育者とはいえないほど意地悪でもあった。ある時滝壺で投網を使って鮎を沢山獲ってきた。それを肴に酒を飲み始めた。わたしには一匹しかくれない。わたしは「もっと欲しい。」と言った。「寝小便たれにはやらない。」という言葉が返ってくるとは思わなかった。しかしそれを言われると返す言葉もない。
 ある夜、伯父はベロベロに酔っぱらって帰ってきた。伯母とわたしたち兄弟の三人で伯父を布団までかかえていった。その夜事件は起きた。伯父が寝小便をしたのである。
 大人のしかも酒を飲んだ後の寝小便たるや臭いし、量がはんぱではない。布団は当然のことながら全部捨てるし、畳も三枚ほど替えた。わたしはその日からそのことを脅しの材料に使った。わたしの友達は伯父の学校の生徒だし、わたしの大好きな若奥さんの夫は伯父の部下の教師だし。「あのことを言うからね。」の一言でわたしは優位にたつことができた。
 また明日に続くがこれだけは今日のうちに言っておきたい。本当にいい村だった。なにもない。赤茶けた畑、瓜やスイカがごろごろところがって いる。
 友達の家にはにわとりが放し飼いになっている。小川やため池があり、「入ってはダメだ」とはだれも言わない。そういうところにはどこかの年寄りがいてたばこをくゆらしながらみている。ソウルという大都会から行ったわたしには大変なカルチャーショックだった。その村で夏の暑さを初めて知った。   つづく。

 ご隠居さん

第四号 2003年2月26日

 昨日の寝言は長かった。しかしまだ続く。
 片岡さんのいない学校はつまらなかった。従って成績の降下は速かった。だがわたしは彼女に多くのことを教わった。太宰治や中原中也の文学、それまではせいぜい少年少女世界文学全集。音楽ではロシア民謡のほかにもクラシック音楽も、ピカソやセザンヌまでも。
 学校はもうわたしにとっては勉学の場ではなくなった。文学少年に変身した。わたしは同志を探してはお喋りしていた。もうかっての硬派の面影はどこにもなかった。見事な軟派である。勉強勉強と言っていた頃には気が付かなかったが、文学好きなやつ、音楽好きなやつ、おるもんだ。みんな自分の好きなことには饒舌だ。勉強中は下向いてるやつもよく喋る。実に楽しかった。
 学校は勉強するところと思っているときには、逃げ出したかったが、目的を変えたら生き生きとなった。成績が下がることなんか目ではなくなった。良い大学(そんなもんがあるのかどうかしらんが)に行けなくてもなんの後悔もない。むしろそういうことを放棄してからの方が、充実していた。
 本当に勉強が面白くなったのは大学を卒業してからのことであった。 やらされる勉強で無くなったからだろうと思っている。

   ご隠居さん

第三号 2003年2月25日

 学校は楽しいか。楽しいとすれば何が楽しいか。楽しさなんて人それぞれ違うでしょう。
 わたしの場合、勉強が楽しいとは思わなかったが、スポーツ感覚で模擬試験の結果が、何位だったとか誰それに勝ったとかいうのがおもしろい時期があった。何も考えずそんな調子の時は、成績も良かった。
 しかし高校一年の秋頃なんのために勉強するのか深刻に考えた。答えなどあるはずのない悩みだった。そういうことを考えるときはだいたい成績は下がるものと相場は決まっている。わたしもご多分に漏れず急降下した。学校がこれほどつまらないとはかって思ったこともなかった。学校なんて止めようかとも思った。しかし何をするあてもないし、ズルズルと学校に通った。
 高校二年の夏の頃だったろうか。大相撲の巡業がやってきた。午後の授業をさぼってみにいった。驚いた。目の前に学校の有名人ミス弁当がいるではないか。彼女は一学年上でクレオパトラも楊貴妃も勝てまいというほどの美人。なぜミス弁当というかといえば彼女は弁当を二つ持ってきて一つは午前中にもう一つはみんなと同じ昼に食べていたそうだ。
 午前中の分は休み時間の時もあれば授業中の時もある。(名前は片岡さんといった。)片岡さんは授業中に食べるときも実に堂々としていたという。美人で成績抜群の片岡さんに注意する先生はいなかったらしい。それでも生徒指導の先生が一度だけ顔を引きつらせて「君はなぜ今頃飯を食うのか。」と咎めたという。片岡さんは「腹が減っては戦が出来ません」と応えたそうです。
 ある時新聞部が片岡さんのことを記事にした。それは好意的な記事だった。そして賛否を問うた。それまでは片岡さんの隠れフアンはおったが、一躍校内の有名人になった。わたしは目の前の片岡さんに驚き思わず「あっ、ミス弁当さん」と叫んでいた。わたしは片岡さんをよく知っているが片岡さんは学年も違うわたしのことなど知るはずもなかった。「あんたの名前は?学年は?」ということから「一緒に見よう」ということになった。彼女が耳元で「補導がきとるけん気をつけんばよ」と囁いた。その時彼女の髪からフェロモンが立ちのぼり一瞬のうちにわたしを虜にした。それからは約束しては屋上での「デート」が続いた。
 わたしは学校が楽しくなった。しかも猛烈に。生き甲斐さえになった。うまくしたものでそうなると成績も上がる。以前ほどではなかったがいいとこまで挽回した。片岡さんの弁当二個には訳がある。彼女は列車通学で学校まで二時間かかった。彼女の家から最寄りの駅まで歩いて一時間、そこから学校まで汽車で一時間。提灯を持って家を出て駅に預けて帰りにまた持って帰る。汽車ではひたすら眠るらしい。弁当なんか食べる暇はない。と言っていた。冬休みに彼女の招待で彼女の家まで一晩泊まりで行くことになった。着替えのパンツと洗面具だけを風呂敷に包み家を出ることにした。
 母は「どこに行くとね」と訊いた。わたしは困った。まさか「女の家」というわけにもいかずとっさに応えた。「家出するけん」「あ、そうゆっくり」彼女の家は大きな農家でピアノが座敷に据えられていた。その時代にピアノを持っているのは医者か旅館の娘ぐらい。駅から一時間も歩くとさすがに山の中。その集落でひときわ大きな家だった。彼女はその家の一人娘ということだった。両親は彼女の美貌からは想像できない容貌。お父さんはまるで熊、お母さんは狐、遺伝子の組み合わせはかくもうまくいくものか。
 ひとのいい両親は井戸から何杯も何杯も風呂に水を入れ沸かしてくれた。沸いたところで風呂に入れと言う。風呂は広い庭の端にあり、屋根と三方に壁があり入り口は戸もなにもない。続きに馬小屋があり時折馬がブルルと声を出しては壁を蹴る音がする。わたしが風呂に入りしばらくすると片岡さんが来て「火ば燃やすけん」と焚き口に座った。火をくべながら片岡さんはロシア民謡「カチューシャ」を教えてくれた。わたしが覚えた最初のロシア民謡はカチューシャだった。
 これが青春なのかなにかは分からないが、片岡さんと知り合ったおかげで学校生活に張りが出た。三月が来た。片岡さんは卒業してしまった。驚いたことに片岡さんは東大に入ったということを新聞で知った。後で知ったことだが医学部だったらしい。世の中には賢いひともいるもんだ。片岡さんからは勉強の匂いはしなかった。それにしてもあの大きな家はどうしたんだろう。

 ご隠居さん

第二号 2003年2月24日

 時のたつのは早いなあ。もう三月。デパートやスーパーで「灯りをつけましょぼんぼりにいー」という曲が流れている。きれいな詞だと思う。わたしはすきです。
 しかし大学時代から気になっていることがある。2番の詞で「お嫁にいらしたねーさまによくにた官女の白い顔」というところがある。わたしは子供の時から自分のお姉さんがお嫁にいったと思っていた。しかし、多くの友人達は自分の家に嫁いできた兄嫁のことだというのである。
 わたしの頭の中にはそういうことはまったくなかった。「いらした」という言葉には行くということと、来るということがある。作詞者のサトウハチロウは良いとこの人だから自分の姉さんに「いらした」という敬語を使ったんだと思っていた。わたしなら「ねえちゃんはよめにいった。」というところだが。
 毎年毎年雛祭りが来るたび悩んでいる。さて、みんなはどう思う?

 ご隠居さん

第一号 2003年2月23日

 近所のお寺に梅を見に行ってきた。梅の花が咲く頃、思い出すことがある。と田舎通信(9)に書いた。そこで楽しいことばかりでなく、苦い思い出もあるとも書いた。今日はそのことを書いてみよう。
 その日はいつもになくメジロが多く獲れた。しかも立派な姿形の雄も多くいた。少年達は興奮していた。そのときわたしはある重大なことを思い出した。
 むかし、学校では学芸会というものがあった。二部公演である。土曜日は全校生徒のために公開された。そして、日曜日が一般公開になっていた。わたしは準主役級の重要な役だった。わたしの出番は午後である。ところがメジロ獲りに夢中になって昼を過ぎたことに気が付かなかったのである。ハッとしたときは遅かった。それでも学校へ駈けていった。プログラムは進行していた。
 担任の女の先生は泣きそうな顔をしていた。わたしの周りを取り囲んだ 男の先生達は口々にわたしにあらんかぎりの罵倒を浴びせかけた。「無責任だ」「ろくでなし。」学年の恥だ。」等々。「おまえはろくな人間にはならない。」と言い切る先生もいた。泣きたかった。しかし、泣くのは一生のなかで三度、と教えられた「軍国少年」は堪えた。
涙が落ちないように目を大きく開いて先生の顔を見た。それは先生を睨むようになったに違いない。軍隊帰りの若い先生が「その顔はなんだ。反抗的だ。」というような意味のことをいって、大きな手でビンタを張った。それからはその先生には反抗を続けた。
 わたしはそんなことで番長になった。そして反抗は組織的になった。苦い思い出の顛末である。わたしは教師をしながら心のどこかで、教師を信用していないものがあった。権力的だったり、権力におもねったりするものに異常に反応するのは先のようなことが「トラウマ」として残っているのかもしれない。それも、もう終わった。これからは静かに生きていくようにしよう。なぜなら怒りすぎは心臓に悪いから。

  ご隠居さん。