OVER LOAD

1944年6月6日。
今からちょうど60年前、連合国軍による大陸反攻「オーバーロード」作戦が開始されました。いわゆる「史上最大の作戦」です。
連合軍が投入した戦力は、兵員18万名、戦闘艦艇600隻を含む船舶5000隻以上、航空機4000機という膨大なものであり、人類史上最大規模の作戦でした。
ここでは、名前が有名な割には実態の良く知られていないこの作戦を紹介していきたいと思います。


1944年半ばの欧州戦線の状況
当時のフランスはドイツ軍にとって一種の保養所となっていました。連日空爆があったもののフランスから低地諸国(オランダとかベルギー)、ドイツ本国にかけてはすべてドイツの支配下にあり、レジスタンスの暗躍はありましたが概ね平穏だったためです。
そのためフランス駐留部隊は後から後から東部戦線、対ロシア正面に引き抜かれていくこととなります。東部戦線では1943年だけで208万名の将兵が戦闘力を失いました。戦闘力を失ったというのは戦死・行方不明・戦病死・立って歩けなくなるほどの重症などを指します。208万というと東京都の人口の五分の一に当たります。

東部戦線

東武野田線沿線

他の状況はといいますと、その東部戦線ではドイツ軍の超人的な防戦にも拘らずドニエプル川まで押し戻され、イタリアは三国同盟から脱落、日本は南太平洋で米軍との殴り合いで戦力を消耗し、絶望的な島嶼防衛線を繰り広げているという状況でした。
アフリカでは「砂漠の狐」ことエルヴィン・ロンメル率いるドイツ・アフリカ・カンプフグルッペ(DAK)が暴れまわったのも今は昔、モロッコ上陸「トーチ(松明)」作戦でドイツ軍は駆逐され、シチリアからイタリア本土上陸にかけての足がかりとされているような状態です。


上陸地点はどこだ?
で、こうなると連合軍の次の狙いはフランスであるのはこりゃもう火を見るより明らかな話なんですが、問題はどこに上陸するかという点です。
常識的に考えるなら北フランス。イギリスからはドーヴァー海峡を一跨ぎですし、アントワープやル・アーヴルといった大規模な港湾が存在するからです。またロンドンに猛爆を加えていたロケット爆弾「V1号」の発射基地もこの辺にありました。
また、その裏をかいて南フランスという手もあります。さらに、当時はドイツの占領下にあったスカジナビアのノルウェーということも考えられます。

北フランス

ですがまあ、どうやらいろいろな情報を付き合わせると連合軍がカレーにやってきそうだ、ということがわかります。カレーはドーバー海峡が最も狭くなるところですから援軍も送り込みやすい。ドイツ国防軍総司令部(OKW)も、フランス正面を担当するドイツ西方総司令部(OB−West)もそう判断します。西方総司令部の総司令官はカール・ルドルフ・ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥。陸軍最長老の貴族で、日本で言うと山県有朋とか乃木希典みたいな人でしょうか。

ルントシュテット元帥

カレー
べつにルントシュテット元帥がカレー好きというわけではありません。

ところが、連合軍はカレー上陸などまったく考えていませんでした。では何故、ドイツ軍は「カレーだ!」と思い込んだのでしょうか。
それは連合軍による徹底的な欺瞞情報のリークによるものでした。さもカレーを狙っているかのように見せかける無電の発信や、部隊の移動、挙句の果てには病死した英軍将校とカレー上陸作戦の計画書という偽文書をセットにして飛行機に乗せ、墜落させるというような真似までして「カレー上陸」という嘘八百を信じさせようとしたのです。
実は、上陸作戦というのは非常に派手ですが、大軍で攻め寄せればよいというものでもないのです。上陸したばかりの部隊は基本的に無防備です。戦車や装甲車といった装備もなく、10数キロの背嚢を背負ったまま波打ち際を浜辺まで突っ込まなくてはなりません。海水浴に行って、海から上がる時やたらと体が重い経験をしたことは誰でもあると思いますが、その状態でさらに服を着て、荷物を背負って、鉄砲を持って、浜辺からばんばん砲弾が飛んでくる中を歩くのですから並大抵のことではありません。
ですから、上陸作戦は基本的に奇襲を意識するものです。敵がしっかり防備を固めている浜辺に教習上陸するとなると、そのままあの世へ突撃する羽目になりかねません。
そこで連合国軍はカレー上陸をでっち上げ、そちらにドイツ軍の戦力を集中させようとしたのです。


エルヴィン・ロンメル登場
1943年の末、ヒトラーはロンメル元帥をしてB軍集団の総司令官に任命します。この軍集団はオランダからロアール川河口まで、要するにドーバー海峡の沿岸全部を防衛する任務を与えられているものでした。
ロンメル元帥はこのとき51歳、普通の陸軍の感覚としては51歳の元帥は若すぎます。40代半ばで社長になるようなものです。彼はアフリカで立てた戦功からヒトラーに贔屓にされていたのです。ですがこの人物にはもちろん問題もあって、兵隊には優しいけれども将校にはとんでもなく辛くあたる、とか、補給のことを何も知らないとかがあり、ヒトラーによる贔屓もあわせて国防軍主流派からは嫌われていました。

ロンメル元帥

西方総司令部や国防軍総司令部は連合軍来寇を1944年の春ごろと考えていたので、ロンメルに残されていた時間は短いと思われました。そこで彼は大慌てで沿岸防備を開始します。そこで彼はシェルブールやサン・ローといったノルマンディー地区の防備が薄いことに気づき、連合軍はこの地区に上陸するだろうと予想します。当然ルントシュテット元帥との見解は違うわけで、西方総司令部を部隊に激論が繰り返されることになります。
実はロンメル元帥とルントシュテット元帥とでは、防衛作戦の構想それ自体も異なりました。
ルントシュテット元帥は海岸線は所詮守りきれないと判断し、上陸した敵軍を内陸部で機甲部隊によって撃破する、ドイツお得意の機動防御を考えていました。これは進出した敵軍を戦車や装甲車を中心とした快速部隊で痛打し、返す刀で別の部隊を叩き・・・というようなものです。
いっぽうロンメル元帥は連合軍の圧倒的な制空権のもとで、昼間に機甲部隊を移動することは無理で、従って機動防御など不可能であると結論付け、部隊の大半を海岸近くに貼り付けての水際防御を主張しました。
また両者とも、自分の作戦構想を実現するには機甲部隊の数が足りないと、機甲部隊の増勢をヒトラーに要請しましたが、結局作戦構想が固まらないという訳のわからない理由から増援はされず、機甲部隊は内陸とも海岸ともつかない中途半端な位置に拘置されることになりました。

タイガー戦車
一両で数十両の戦車を足止めするほど強かった。

タイガー魔法瓶
便利。


誤算の嵐
1944年3月、ヒトラーは突如、「霊感が働いた」とかなんとか言い出して、ノルマンディーとブルターニュが危ないとやり始めます。が、その神のお告げだかなんだかのお陰でスターリングラードその他で偉い目にあっている将軍連中はまったく信用しません。これもノルマンディー地区の防備が遅れた一因でしょうか。
霊感はともかく、6月に入るともう「いつ来るかいつ来るのか」という状況になりました。ノルマンディー地区はロンメルが大量の資材を使って防衛体制を固めていますが、何しろ戦争も五年目に入っていますから資材が足りません。例えば、彼が1億個要ると計算した地雷はまだ600万個に満たない数しかありませんでした(それだけでもたいした数ですが)。
西方総司令部は六月はじめ、次の満潮のときが連合軍の来寇する時期だと判断します。満潮時のほうが海岸を突っ走らなくてはいけない距離が短くなるからです。で、次の満潮はというと海軍によれば6月15日。なーんだまだ大丈夫じゃないかとロンメル元帥はベルリンに戻り、ヒトラーにもう一度資材と部隊の請願をしにいきます。他のB軍集団幹部も内陸部で作戦会議をすることにします。これが6月4日。
ところが、この6月15日というのはカーン地区の満潮で、ノルマンディー地区の満潮は6月6日だったのです。
誤算といえばノルマンディー上陸作戦に際してイギリス本土に駐留していた連合軍は、米軍21個師団153万3000名をはじめ39個師団であったのですが、ドイツ側はこれを70個師団と誤認していました。これは例によって連合軍の欺瞞作戦が成功したためです。
6月5日は天候不順、というかとんでもない嵐であったため、前線の指揮官たちも「まさか今日は来ないだろう」と第7軍司令部のあるレンヌ、サン・ローの南のほうで図上演習を行っていました。
パリの総司令部気象班は6月5日の天候は風力5〜6、波は4〜5度で雨天という絵に描いたような嵐が3日ほど続くだろうと予想しました。
この様な天気だと、テレビ局のキャスターが岬で「すごい風です!」と生中継しようものならカサはすっ飛ぶメイクは剥げると大変なことになります。
総司令部は風力が4以上だと上陸作戦は無理、と判断しました。その判断自体は妥当です。気象予報が当たっていれば。
確かに、6月5日に連合軍は来ませんでした。
彼らは6月6日、数百隻の戦闘艦艇を押し立て一時好転した空の下、ノルマンディー沖に現れたのです。


連合軍の作戦準備
ノルマンディー上陸「オーバーロード(大君主)」作戦を指揮するドワイト・アイゼンハワー大将が指名されたのは1943年のクリスマス・イヴ。トーチ作戦、シチリア島攻略作戦、イタリア本土攻略作戦を成功させた手腕を買われてのことです。

アイゼンハワー大将
この写真は大統領の頃のものです。

オーバーロード作戦は米英混合部隊によるもので、当然各級指揮官にはアメリカ人もいればイギリス人もいます。この連合軍総司令部の陣容は以下のようなものでした。
総司令官:アイゼンハワー米陸軍大将
副司令官:テッダー英空軍中将
参謀長 :スミス米陸軍中将
参謀副長:モーガン英陸軍中将
地上軍司令官:モントゴメリー英陸軍大将
海軍司令官:ラムゼー英海軍中将
空軍司令官:レイ・マロリー英空軍大将
で、この面子が面倒な連中が多く、アイゼンハウアーに最も要求されたのは作戦の構想力でも戦略立案能力でもなく、人間関係の調整能力でした。
なにしろモントゴメリーといえば尊大この上なく、歩く天動説みたいな軍人です。すべての味方は自分の引き立て役だと考えているフシのある人物です。
また部下にはジョージ・パットン中将がいます。映画「パットン大戦車軍団」に出てくる人ですが、この人は「無能な味方より有能な敵のほうがマシだ!」とのたまい、戦場で精神消耗し野戦病院に収容された兵士をぶん殴ったりする人です。
で、この二人がとんでもなく仲が悪いうえに、嫌味を言うために生まれてきたとしか思えないウィンストン・チャーチル英国首相が年がら年中口を挟み、尊大なことではモントゴメリー以上のフランス至上主義者であるド・ゴールが自由フランス軍も作戦に参加させろと喚きたてるという修羅場でした。私であれば胃に穴が開きそうですが、というか書いているだけで胃が痛くなるのですが、アイゼンハワーはこの1癖どころか癖で出来ている様な面子を纏め上げることに成功します。さすが、大統領になるような人は違います。
1944年の正月にアルジェの総司令部を引き払いイギリス本土に移動したアイゼンハウアーの最初の仕事は「いつ上陸するか」を最終的に決定することでした。
アイゼンハウアーの作戦構想では、陸軍39個師団をはじめ海軍部隊、空軍部隊、輸送部隊、後方支援部隊など合計400万名に達する兵員と1000両以上の戦車を含む50万台の車両、150万トンの資材を必要としていました。この人員資材を集めるために作戦期日は当初の5月から一ヶ月延期されることになりました。
作戦当日は上陸船団の隠密接近のための長い暗夜、空挺部隊の降下のための遅い月の出、上陸直前の準備砲撃のための約40分間の日光が望ましく、海岸の水中障害物を突破するためには夜明けの干潮時間が望ましいとされていました。
これらの諸条件を同時に達成するには、6月5日から7日までの三日間が最適であるということがわかっていましたが、当日の天候がどうなるかわからない、というのが最後の不安として存在していたのです。


D-DAY −1
6月4日、あまりの荒天に5日の決行を諦めたアイクは、悪天候は6日には一時好転するという気象情報をもとに、午前4時15分、6月6日の上陸作戦を決断します。D-DAYが決定されたのです。、
D-DAYとはDooms-DAYの略であり、聖書に出てくる「審判の日」のことです。
この日、英国のラジオ放送BBCがヴェルレーヌの詩を流します。
秋の日の ヴィオロンの 溜息の
身に沁みて ひたぶるに うら悲し
鐘の音に 胸ふたぎ 色変へて
涙ぐむ 過ぎし日の 思ひ出や
げに我は うらぶれて ここかしこ
定めなく 飛び散らふ 落ち葉かな
これは、「落ち葉」という詩ですが、フランス国内のレジスタンスにD-DAYの日時を教えるものだったのです。
で、これが暗号通信だと言うことはドイツ国防軍諜報部のヴィルヘルム・カナリス提督が潜伏させたスパイによって判明していたのですが、どういうわけかそこから出た警報はノルマンディー防衛を担当する第7軍には届きませんでした。またルントシュテット元帥はそれを頭から無視し、その情報参謀は不在、ロンメル元帥はベルリンにいっており、そのベルリンにいるOKW作戦部長ヨードル大将は「ルントシュテット元帥が当然警報を出しているだろう」とスルーしてしまいました。
この絵に描いたような間抜けな展開で、ドイツ軍は貴重な24時間を空費してしまうのです。
D-DAY
0時15分、空挺部隊の尖兵がフランス上空で降下。
1時前後、英陸軍第6空挺師団がカーン市とジュノービーチ(後述)の間に降下し重要拠点を占拠。

空挺部隊
パラシュートやグライダーで降下する歩兵のことです。

パラシュート部隊
この頃はまだ生まれていません。

時を同じくしてアメリカ陸軍第82・第101両空挺師団がユタビーチ背後のアン・メール・エグリーズからヴィール、カランタンにかけて降下します。この101空挺師団が、「バンド・オブ・ブラザーズ」の主人公が所属する部隊です。
このアメリカの空挺部隊は降下する際にバラバラになり、教会の屋根に引っかかったりドイツ軍部隊のど真ん中に下りてしまう不幸な兵も出ましたが、結局はユタビーチにいたる隘路を確保することに成功し、翌未明の第4師団の上陸を保証しました。

1944年6月6日早朝
地図はちょっと適当です。

上陸第一陣は5個師団17万名。それが5000〜7000の上陸艇に乗って海岸に殺到します。沖合いからは戦艦や巡洋艦から艦砲射撃が行われます。この上陸支援と空挺部隊の援護からイギリス軍担当のゴールド・ジュノー・スウォードの各上陸海面と、アメリカ軍担当のユタビーチでは上陸はうまくいきました。
しかし、オマハビーチでは陣取ったドイツ第352歩兵師団が上陸する米第1師団・第29師団を射すくめ、立ち往生させます。幅6キロのビーチに殺到したアメリカ軍は次々と打ち倒され、オマハビーチは血に染まりました。夕刻までに2キロほどの橋頭堡を確保しますが、それまでにアメリカ軍は2500名の犠牲を払っていました。

上陸部隊

上陸戦闘


反撃とその頓挫
ヒトラーは連合軍のノルマンディー上陸の報に、「私の予想したところへ!」と下手な占い師のようなことを叫んだといいます。ちなみに彼は昼ごろまで寝ていました。
西方総司令部ではルントシュテット元帥が「有り得ない話だ」といったと伝えられます。が、なんといったところでもうすでに連合軍は上陸しているのであり、なんとしても撃退しないとなりません。
ロンメル元帥の主張どおりカーン近郊に配置された第21装甲師団はジュノー・スウォードビーチに最も近く、反撃には最適の位置にいました。タイミングを見計らって投入されていればイギリス軍部隊を海に追い落とすことすら出来たかもしれません(その代わり部隊はすりつぶされていたでしょうが)。
ですが、絶好の位置にいたこの部隊には「ノルマンディーは陽動、主攻はあくまでカーン」という総司令部の誤断から6日午後3時まで移動命令が出ず、その日の夕刻になって橋頭堡をしっかり確保したイギリス軍・カナダ軍にまともにぶつかることになるのです。
カーン南方ファレーズにあった第12SS装甲師団「ヒトラー・ユーゲント」は独断で行動を開始、7日ごろカーンに到達しますがそのころには師団はバラバラになっていました。そして何とか態勢を整え反撃態勢を取れた頃には8日になっていました。
6日夜、おっとり刀で駆けつけたロンメル元帥は21装甲、12SS装甲に加え新たにカーン地区に到達した装甲教導師団の3個装甲師団で反撃を試みますが、すでに決定的なチャンスは去っていました。
その後、ドイツ軍は7月25日まではカーンとサン・ローを結ぶ戦線を維持しますが、この日米軍が戦線を突破したことでついにノルマンディーの戦いは終了します。史上最大の作戦は成功したのです。


その後
カーンでは立て篭もった第12SS師団がその戦力の4割をすりつぶす激闘を繰り広げ、連合軍のフランス信仰のスケジュールを大いに遅らせました。ちなみにこの師団は「ヒトラー・ユーゲント」、つまりヒトラー少年団ですね、その名前をつけられていることから判るとおり、日本で言うと高校生くらいの少年たちで構成されていました。
サン・ローが陥落したのは7月中旬、本来のスケジュールならば6月10日に確保されているはずのものでした。連合軍の予測が甘かったのか、ドイツ軍が予想以上に頑張ったのか、おそらく両方でしょう。
7月25日、戦線を突破されたドイツ軍はお得意の機動防御作戦「リティヒ」作戦を行いますが、雲霞の如くやってくる米英軍の航空機によって貴重な装甲戦力をすりつぶすだけに終わります。
そうこうしているうちにノルマンディー全域は連合軍の手に落ち、ドイツ軍はファレーズで包囲下に陥ることになるのです。


「史上最大の作戦」の顛末はこのようなものです。
「プライヴェート・ライアン」の舞台となった、意外と知られていないノルマンディーの実相はいかがだったでしょうか。
もちろんザーッと触れただけなので書いていないことはたくさんありますが、本稿はひとまず、これでおしまいです。


参考文献
 歴史群像2001年8月号「特集 ノルマンディー防衛作戦」
 秦郁彦『鋼鉄の激突』
 高橋慶史『The Last of Kanpfgruppe』
 小林源文他『ノルマンディー上陸作戦』
 鹿内靖『見敵必戦!』