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4日目(エーゲ海クルーズA)
2007. 8.11
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5時半にセットとした目覚ましで起きた。船は、ほとんど揺れる事もなく、一夜が過ぎた。部屋の窓から外を見るとまだ薄暗い。ただ、今朝の寄港地であるトルコ・クシャダシ(Kusadasi/Turkey)だろう、陸地にかなり近づいているのが分る。朝食は6時から4階のレストランか2階のプールデッキで食べられる。昨晩同様、外の空気を吸って、景色が楽しめるプールデッキでの朝食としたい。洗面を済ませ、プールデッキに出てみると、クシャダシ港に着岸寸前というところまで来ていた。ここでは、大型船が着岸できる棧橋があり、上陸するのにテンダーボートに乗り換える必要はなさそうだ。バイキング形式の朝食は、特に変わったものはなく、ベーコン、ハム類に卵料理、サラダ、フルーツといったところ、それにクロワッサンを皿にのせ、クシャダシ港の見えるテーブル席で朝食をいただいた。
空を見上げると、雲一つない快晴。今日もこの後、暑くなりそうだ。このクシャダシは、昨日の乗船時に唯一、オプショナル・ツアーとして「エフェソス古代遺跡観光」を申し込んでおいた。集合時間の7時に4階のアドミラル・ラウンジで簡単な説明を受け、このツアーに参加する日本人は、添乗員のS氏の先導で、まとまって下船し、ターミナルの外の駐車場に止めてあるツアーバスに乗りこんだ。このクシャダシでの下船はトルコ入国という事になるが、ここでのパスポートの確認はなかった。 ■トルコ・クシャダシ
日本人向けのバスには、日本語が堪能なトルコ人のガイドさんが乗車しており、これから向かうエフェソスを案内してくれる。大学で日本語を学んだそうだが、日本には行った経験がないとの事。その割には、日本語が上手だ。文法的にはトルコ語と日本語は似ていると言う。このトルコは、ヨーロッパとアジアの中間に位置し、トルコの西側はヨーロッパ、東側はアジアの雰囲気を持つ変化に富んだ国との説明があった。クシャダシは、トルコ西側のエーゲ海に面したリゾート地で、大型の客船も寄港し、遺跡観光の玄関口としても栄えている。特にクシャダシからのエフェソス遺跡観光は、アクセスもよく人気がある。バスは、クシャダシ港からエフェソスまで、田園地帯を抜け、20分程で着いた。朝の8時前だというのに、日差しも徐々にきつくなり、暑くなってきた。
■エフェソス遺跡(The Ruins of Ephesus) ![]() エフェソス(エフェス Efesとも云う)は西トルコに残る、ヘレニズム時代からローマ時代にかけての遺跡。このあたりには、紀元前16〜11世紀頃に移住してきたギリシア人(イオニア人)がアルテミス神殿を中心に都市を建設し繁栄をもたらしていた。しかし紀元前7世紀ごろ、侵略者達によって、町も神殿も破壊されたため、その後、アレクサンダー大王の後継者の一人であるリシマコスは、現在遺跡が残る地に新たに大都市を建設した。最盛期には、人口25万人を超えるアナトリア(小アジア)で最も重要な都市として位置付けられていた。エーゲ海や地中海沿岸地域の遺跡の中では、規模が大きく保存状態が良いとされている。
エフェソスの遺跡保存エリアへのゲートは、北口と東口があり、一応、北口がメインの入口らしいが、ツアーバスは、東口の前に止められ、我々一行は東ゲートから入場した。ここから北ゲートに抜けるコースをとる(下り方向となるので楽なコースでもある)。東ゲートから入ると平坦な広場になっていて、山沿いに遺跡群が連なっているのが見える。目の前の広場は、「@国営アゴラ・公衆広場」(State Agora)で、紀元前1世紀のものだ。広さは160×73mある。今では、崩れた石材が散らばっているだけだが、当時はこの広場で様々な公衆行事が行われていた。政治活動としても利用されていたらしい。またそれ以前には墓地だった痕跡もある。かつてアゴラの中心部には10×6本の石柱で囲まれたイシス神殿があり、その他貯水設備なども備えられていた。
![]() 山沿いの遺跡群で、まず一番手前にあるのが、A「ヴァリウスの浴場」(Bath of Varius)だ。ローマ時代、西暦2世紀に建造されたアーチ型のデザインをした浴場で大量の大理石が使われていた。40mの敷地に温度の違う3つの浴室があったという。
![]() ヴァリウスの浴場の先には山の斜面を利用した「Bオデオン・小劇場」(Odeon)がある。P.ヴェディウス・アントニウスという裕福な市民の出資によって西暦2世紀に建てられたもの。すり鉢を2分にしたような半円状のホールで1450人が収容できる。ここでは音楽のコンサートの他に国政の議事も行われていた。
国営アゴラの北側に柱廊が連なっている。エフェソスの「Cバシリカ」(Basilica)だ。典型的なローマ形式の柱廊で長さは165mある。柱頭の装飾はイオニア式で中には雄牛をデザインしたものもある。紀元前1世紀に建てられ、ここでは、当時、商品取引をはじめ商業ビジネスの場として使われていた。
オデオン(小劇場)の西側は、市民にとって聖なる場所だった。すぐ西隣りには、エフェソスの象徴である女神ヘスティアを祭っていた聖殿(Heiligtum)があり、さらに「Dプリタネイオン」(Prytaneion)が並んでいる。紀元前3世紀に建造されたプリタネイオンは市民ホールに相当し、宗教的な式典や公式行事が行われていた。また、ここでは、エフェソスの安泰と信仰のため神聖な炎(聖火)が、神官、プリタンによって絶えすことなく灯され続けていた。
![]() プリタネイオンから先は、かなりの下り坂。石畳で舗装されている道なので雨でも降っていたら滑りそうな道だ。古代の人達もそう思ったのか、石畳には滑り止めのため切り込みが入っていた。石畳を下り切ると左側にひっそりとギリシア・ローマ神話に登場する守護神ヘルメース(Hermes)のレリーフが置かれてあった。羽根で飾られた帽子をかぶり、2匹のヘビが絡みついた形状の杖を持って羊を従えている。
このあたりは、また少し広くなっていて、右(北)側を見ると、2体の石像がそびえている。「Eメミウスの石碑」(Memmius Monument)と呼ばれている。西暦1世紀、アウグストゥスがローマ帝国を統治していた時代の独裁者スラ(Sulla)の孫、メミウスによって造られた。残っている石像は、彼の父・カイウス(Caius)と祖父・スラ(Sulla)である。当時はメミウス(Memmius)の石像もあったものと思われる。
南側は、西暦1世紀末、ローマ皇帝ドミティアヌスの時代に建てられた「Fドミティアヌス神殿」(Temple of Domitian)の遺跡が広がる。エフェソスでは、皇帝のための建造物としては最初のものだ。50×100mの敷地にアーチ状の石組みがいくつも造られ、二階建てのものも見受けられる。神殿は、13×8本の円柱に加えて正面に4本の円柱で構成されていた。後に、ドミティアヌス皇帝の暴虐化した采配に市民から反感と憎悪を買い、復讐として、神殿は破壊され、刻まれた彼の名前も消し去られたという。![]() また、ここからすぐの所に、ギリシア神話に出てくる勝利の女神「ニケ」(Nike)のレリーフが残されていた。もともとは、この後見学する「ヘラクレスの門」の装飾に使われていたらしい。有名スポーツメーカーのブランド名「ナイキ」の由来は、このニケ(Nike)である。横に立って写真が撮れるため、記念撮影の人気スポットにもなっている。
ここから先の道は、「クレテス通り」となるが、北側のメインゲートから来ると逆にクレテス通りの最後に位置し、その場所にギリシア神話の英雄、ヘラクレスをレリーフとした「Gヘラクレスの門」(Hercules Gate)が建てられている。彫刻は、もともと西暦2世紀のものであるが、西暦4世紀の地震の後に別の場所からクレテス通りの守護神として移設された。ヘラクレスの像は、クレテス通り側(北西)を向いている。現在では、左右の柱部分だけが残っているだけだ。
ヘラクレスの門を過ぎると、見晴らしのよい長い下り勾配の石畳に差しかかる。正面に見えている大きな建物は、「ケルスス図書館」で、この「ヘラクレスの門」との間が「Hクレテス通り」(Curetes Street)と呼ばれる。通りの名前はエフェソスの聖職者の名前が由来となっている。当時、両側には、
泉、記念碑、彫像が飾られ商店や公衆施設が立ち並ぶ、繁華街的な存在だった。しかし、エフェソスは多くの地震があり、その度に損傷した建造物の修復が図られてきた。特に西暦4世紀に起こった大地震では、他の建物から部材を転用して復興を行ったため、デザインの異なる円柱などが混在している。今でも、こうした円柱や彫像の一部、台座などが数多く残されており、当時の華やかな様子がしのばれる。
クレテス通りの中程に「Iトラヤヌスの泉」(Fountain of Trajan)がある。西暦104年にトラヤヌス皇帝のために建造された泉で、当時は、正面に水で満たされた泉があって、トラヤヌス皇帝像が中央に立っていた。潤いと洗練されたデザインは、訪れた人達を癒し、クレテス通りのランドマーク的な存在だったと思われる。
クレテス通りをさらに下って行くと右側にアーチ状の門構えをした立派な建物、「Jハドリアヌス神殿」(Temple of Hadrian)が見えてくる。西暦138年までにハドリアヌス皇帝のために建てられた神殿であるが保存状態が比較的良い。神殿の正面には、コリント式の4本の石柱でアーチを巧みに支えている。細かな装飾は見事だ。アーチ中央のブロックをよく見ると幸運の女神「テュケ」(Tyche)が彫られていた。また中に入って、正面入口上部には、アカンサス葉で装飾された女神「メドゥーサ」(Medusa)と思われる浮き彫りが収められている。こちらは魔除けかも知れない。
クレテス通りもほぼ終わりに近づいたころ、右側に路地があって、入って行くと壁ぎわに鍵穴の開いた石造りのベンチがあり、トルコ人のガイドがおもむろに座った。なるほど!そこは西暦1世紀の「K公衆トイレ」(Latrina)である。石でできた便座が並んでいてその下には溝がある。中央には四角い貯水池があって、その溝へ水が流れるようになっている。つまり水洗トイレというわけだ。良く考えられているが、それにしても実にオープンなトイレである。 トイレの後は、いよいよ圧倒的な存在感のある「Lケルスス図書館」(Celsus Library)に到着した。とにかくでかい。そして壮大なスケールに加えて、建築デザインもすばらしい。アジア行政区の責任者だったケルスス(Julius Celsus Polemaeanus)の死後、その息子、ジュリアス・アクィラ(Julius Aquila)によって西暦135年に建造された。図書館の入口の反対側、地下には父ケルススの墓室もある。当時は書物のほとんどは巻物で、壁ぎわに設けられた棚に大切に保管され、その数1万2千巻あったと言われている。しかし、3世紀にゴート族に襲撃され、
書物は焼失。建物も大きな被害にあった。正面は、2階建てでコリント式の円柱が立てられ、3か所の入口がある。中でも中央の入口が一番大きい。また入口の4体の女性像は、左から(ケルススの)知恵(Sophia)、美徳(Arete)、知性(Ennoia)、知識(Episteme)を象徴している。ここにあるものはコピーで、実物はウィーンにある。
ケルスス図書館から右(北)に曲がると、大理石通り(Marble Street)に入るが、この通りの左手あたりの一体は、「M商業アゴラ」(Commercial Agora )と言って、紀元前3世紀に造られた、エフェソスで最も重要な商業施設である。しかし今残っている遺跡は西暦211年〜217年のものとみられている。 施設は、110m四方、円柱に囲まれた正方形をしていて、中の店舗への出入口として3か所に門があった。また当時、アゴラの中央には、日時計と水時計が置かれていたらしい。
左手の商業アゴラを見ながら大理石通りを進むと、すぐ右側に巨大な「N大劇場」(Theatre)に着いた。エフェソス遺跡で、最もすばらしい建造物と言われている。最初に造られたのは、紀元前3世紀であるが、その後拡張工事が行われ、1世紀以降、今の大きさになった。客席は3段構成で、高さ38m、直径158mに25,000席の収容力を持つ。アナトリア地方では最も大きい規模で音響的にも優れていた。座席は3つにランク付けされていて、最もステージに近い、下の部分は、座席に大理石の素材が使われている、いわゆる貴賓席であった。その次に、役職者や招待者などの予約席があり、一般の観衆は、上段の席と別れていた。ステージでは、オーケストラによる演奏、演劇のほかに、宗教や哲学のための講演また、猛獣との闘いにも使われていた。
大劇場から西へまっすぐ道が伸びているのが見える。ここから港につづく「Nアルカディアン通り」(Arcadian Street / Harbor Street)である。幅11m、長さは、530mある。紀元前3世紀に造られ現在の姿に改修されたのは、西暦395年〜408年のアルカディウス皇帝のころである。通りの名前にもなっている。当時、通りの入口にはアーチ状の門があり、両側には、様々なお店が立ち並ぶ商店街通りで、大劇場とあわせてたいへん賑わっていた。港へ続く通りから、ハーバー通りとも呼ばれている。ちなみに現在では、エフェソス港は土砂で埋まり、海岸から5q以上も離れている。拡大地図を表示 ローマ帝国の初代皇帝、アウグストゥスは、このエフェソスをアナトリア地方の都とし、政治と商業の要所として、発展させた。またこの地には、聖ヨハネと聖母マリアも住んでいた事もありキリスト教確立の重要な場所でもあった。しかし、度々の河川の氾濫や地震などの災害により港の機能は徐々に失われ、ゴート族の襲撃(262年)もあって、4世紀以降は次第に都の機能は失われていった。それから千数百年が経ち、かつて栄華を極めた都市は、1869年から遺跡として発掘が始まり、再び人々が集まる場所となった。 ![]()
東口から見学を始め、ほぼ1時間半コースで、メインゲートの北口に到着。エフェソス遺跡を後にした。こちら側には、お土産物などの商店が並び、トルコ名産の装飾品、かばん、織物などが売られていた。商店の先の駐車場で待機していたバスに戻ると、まだ9時40分である。広いエフェソス遺跡を堪能したのでもっと時間が経っているかと思ったがまだ早い。バスが出発すると、ガイドから休憩を兼ねて、トルコ特産の皮製品店に立ち寄ると言う。品物は厳選された確かなもので、海外の有名ブランドへも降ろしているらしい。「皆さん、トルコの皮製品を見学するだけで買わなくてもいいです。」「でも品物はとても良い物で、値段を見て、もし気に入ったら、私に言って下さい。友達の店長に特別に値引きさせます。」・・・と少し怪しい雰囲気。
エフェソスから10分程で、バスは止まった。着いたらしい。皮製品店はキルシール(KIRCILAR)という名柄の製品直売店でレザーアート(LeatherArt)という店だ。この分野に興味がないため、名前を聞いても分らない。門から入ると中庭があって、敷地は広い。さっそく店長らしき人のお出迎えがあり、丁重に案内されるまま中に通された。そこは、売り場ではなく、ホールのようになっていて椅子に座ると、甘いお茶が振る舞われ、やがて音楽と共にファッション・ショーが始まった。次々に皮製品を着た男女が現れ、ジャンバーやコートなど披露してくれる。見ている分には面白い。ついには、観客も数人引っ張り出されて、コートを着せられモデルと共に皆の前で飛び入りショーとなった。演出はなかなかのもの。それなりに楽しませてくれる。 ひとしきりショーが終わると、隣のフロアが売り場になっていて、さあどうぞ。ぜひ試着して下さい。という訳だ。確かに、軽くて丈夫そうで、品物はよさそうだ。真剣に試着している人もいれば、それなりに見ているだけの人もいる。もちろん自分もこのタイプだ。
![]() クシャダシに戻ってきた。クルーズ船への乗船は、11時45分までとされている。まだ30分少々ある。せっかくトルコまで来たので、港の前の商店街に入ってみた。客がほとんどいないせいか客引きがすごい。すたすた歩かないと、すぐに捕まってしまう。一回りしてみたが、装飾品や雑貨店が多い。また立派なトルコ絨毯の店も目についた。絨毯は少し見学したかったが、買う気があるのかと思われると大変な事になりそうなので、早々に港のターミナルに向かった。ターミナル内で手荷物検査を受けて棧橋に出ると、我々のオーシャン・モナーク号のほかにもう1隻が停泊している。よく似た大きさの船なので、同じ様にエーゲ海を回るクルーズ船かも知れない。 ■クシャダシ出航
我々のクルーズ船、オーシャン・モナーク号は、正午ちょうどにトルコ・クシャダシ港の棧橋を静かに離れた。プールデッキでは、船が出発するときに毎回行われる「出航ダンス」が始まっている。レッスンもあって皆でご一緒にどうぞという事だが、あまり参加者はいなかった。隣に停泊していた「 エーゲ海2号」(Aegean Two)も同時刻の出発だったらしい。同じように港を離れて行った。
船内レストランでの食事は、今日から昼、夜ともバイキング・スタイルではなく、シーティング・スタイル、つまりメニューからのオーダーに応じてサービスされるようになった。まずは無難なところで、シェフのお薦めコースを注文。ランチにしては、しっかりとした料理が味わえ、何よりバイキングより落ち着いて食事ができ、味も良かった。昼食をとった後は、プールデッキでチェアーに横たわり、のんびり過ごす事にした。今日も快晴で気温もかなり上がっている。エーゲ海は、夏の日差しによって、まぶしいばかりの青さだ。今日の予定は、この後、午後4時にパトモス島に立ち寄る。
パトモス島でのオプショナル・ツアーは、「聖ヨハネ修道院と黙示録教会観光」が用意されていたが、こちらは申し込まずに、小さい島なので、港に渡ってから、タクシーでも拾って、プライベートで行こうかと思った。その方が自由で割安と考えた。午後4時から島内の説明があったが、やはり、見どころは修道院と黙示録教会のようだ。
パトモス島も昨日のミコノス島、同様、島に渡るためには、テンダーボートに乗り換える必要がある。一度に大勢乗れないテンダーボートは、オプショナル・ツアー申込者が優先で、自由行動の者は、少々待たされた。午後4時30分になってようやくボートに乗船、パトモス島へ向かった。ボートが島に近づくにつれて、山の上に、一見、城壁らしき大きな建物が見えるようになってきた。だぶん、説明のあった「聖ヨハネ修道院」に間違いないだろう。ここからでも建物の立派さがうかがえる。パトモス島(Patmos)は、トルコ・クシャダシから南西へ90q程の距離にあり、ギリシャ本土よりもトルコ寄りにある面積34Kuの小さな島である。このパトモス島へは、島内に飛行場が無いため、船が唯一の交通手段となっている。主要な港はスカラ港(Skala)で、テンダーボートもここに到着した。港はこじんまりとしていて島の玄関口とは思えないほど静かでのんびりとした雰囲気が漂っている。先行したオプショナル・ツアー参加者はすでにバスで出発したのだろう。それらしき集団が見当たらなかった。港の通りに出ると、やはりタクシー乗り場があった。期待どおりと思いきや、タクシーが一台もいない上に数名の人達が待っている。んーどうするか。少しあてが外れた。ここで、タクシーを待つか迷ったが、それも何時来るかも分らないので、とにかく、山の上の修道院の方向に歩き出した。徒歩でもなんとか行ける距離と聞いていた。
西暦95年、ローマ時代、イエスの使徒、ヨハネは、晩年を迎えていたがドミティアヌス皇帝によるキリスト教徒の迫害を受け、当時、罪人の流刑地だったパトモス島へ送られる事となった。ヨハネは、この島で、イエス・キリストからの啓示によって新約聖書で唯一の預言書とされる「ヨハネの黙示録」(Apocalypse of John)を書き記した。島内には、そのヨハネが啓示を受け、黙示録を執筆したとされる洞窟(黙示録教会)が残されており、またその丘の頂上には、1088年にヨハネを称える「聖ヨハネ修道院」が建てられた。修道院のある丘の上の町は旧市街「ホラ」(Chora)で、このあたり一体の歴史地区がユネスコの世界遺産に登録されている。また、パトモス島は、キリスト教の聖地の一つとされ、キリスト教徒の重要な巡礼地でもある。
なる。まだ山頂までの半分くらいか。ここまで来ると意地の様なところがある。右カーブを曲がり切って、再び歩き出すと、車道は、この先真っ直ぐで、また修道院と離れていく方向に伸びている。しかし少し歩いたところで、車道の脇から左、修道院方向に入り込んでいる簡易舗装の道を見つけた(E→)。標識が出ているがギリシャ語なので分らない。ともあれ方向的にも修道院への近道と確信し、徐々にきつくなる上り坂をどんどん上がっていった。道はやがて地道となり尾根づたいを進むと、やがて修道院が間近に迫り、舗装された車道と合流した(F)。うまく車道をショートカットできたようだ。後はひたすら修道院の建物を目指し最後の坂を登りきろうと
思うが、これが結構な道のりである。ふうふう言いながら足を運ぶと、ようやく入口に到着した。もう汗だくである。歩き始めて、35分なので、思ったよりも早かった。ここまで、よく頑張った。たぶん登り道3qくらいは十分歩いた感じだ。(小休止)■聖ヨハネ修道院(Monastery of Saint John)
パトモス島の象徴とも言える「聖ヨハネ修道院」は、島の旧市街地「ホラ」のある丘の頂上に建てられており、どこからでも見られる壮大な建造物は、ビザンチン様式の城壁に似たところもある。1088年にアレクシオス一世コムネノス(Alexios I Comnenus)の援助を受け、クリストドゥーロス(Christodoulos)修道僧によって建造されたものだ。修道院は、このパトモスで黙示録を書き上げた聖ヨハネの名が付けられた。建物は5階建てで、取り囲む外壁は、70m×53m、高さは15m以上あり、海賊や侵入者から守るため堅牢に造られている。当時、修道士はパトモスの人々に危険が迫った場合は、修道院の内側に避難するよう警告の鐘を鳴らしたとされている。
■黙示録の洞窟(Cave of the Apocalypse) 午後5時35分、聖ヨハネ修道院を後に、来た道を引き返す。もちろん車道からショートカットできる地道を進む。今度は一路、下り坂だ。登りよりはずいぶん楽だが、下りの山道は歩きにくい。それでも修道院から10分ほどで「黙示録の洞窟教会」まで戻って来た。修道院のあるホラの町とスカラ港との中間くらいに位置する。
夕方ともなり日は傾き始めているが、ゲートはまだ開いていた。中に入って行くと洞窟を想像させる岩肌の上に洞窟教会の入口があり、入口の上には、洞窟でヨハネがイエス・キリストから啓示を受け、黙示録を記している様子が描かれている。入口を入ると下へ降りる43段の階段があって、下り切ったところが、まさに洞窟そして教会(聖アンナ教会)となっていた。
西暦95年、ドミティアヌス皇帝によってエフェソスを追放されたヨハネはこの洞窟を神聖な場所とし住いとしていた。高齢となっていたヨハネは、ある聖日(日曜)、この場所で神の声をイエス・キリストを通して聞いた。それは今後、起るであろう出来事の啓示であった。そして、それらをすべて書き記すように。というものである。また、その時、ヨハネは、7つの金の燭台の中に主の姿を見、巨大な堅い岩で囲われた洞窟の天井が3つに裂けたという。この裂け目は、三位一体(神、キリスト、聖霊は、すべて一体)を象徴している。こうしてヨハネが洞窟内で神の啓示を記したのが「ヨハネの黙示録」である。洞窟内に入ると「聖アンナ教会」(Chapel of St. Anne)があり、その奥右側がヨハネがいた洞窟となっている。その手前には、ひときわ大きな岩が上部を覆おっており、たしかに3つに大きく亀裂が入っている。また洞窟奥にはヨハネが休息のため頭をもたれさせていたとされる所が見られる。
駆け足で、丘の上の修道院と黙示録の洞窟を回り、時間は午後6時となっていた。どちらもクルーズ船からのツアー一行と会わなかったので、ツアー行程のあと、あとを追っかけていたのかも知れない。スカラ港からクルーズ船へのテンダーボートは、午後6時15分から7時30分の間の運航で、クルーズ船自体は、夜8時30分出航と聞かされていた。ゆっくり下って行っても十分間に合う時間だ。帰りは、港を見下ろし、幹線車道を通らずにショートカットできる道を見つけて進んで行った。行きは様子が分らなかったので、車道づたいに大回りしたが、人が歩ける道がちゃんとあった。ただ
し標識もほとんどなく、正確な地図もないので、知る人ぞ知るといったところ。もっとも徒歩で行く人はほとんどいないのだろう。帰りに一組の外国人と会っただけだ。ちなみに港にあった地図はこんな感じなので、ほとんど実用にならない。→スカラ港は相変わらず、静かでのんびりとした雰囲気に包まれていた。午後6時は、まわっていたが、日も高いせいか、レストランは、まだ空席が目立っていた。港から続く商店もひっそりとしている。ゆっくりと時間が過ぎてゆく落ち着いた町並みを散策するのもいいものだ。
時間を見計らって港に向かうとテンダーボートが着いていた。時刻は6時半だったので、第2便かも知れない。クルーズ船に戻ると午後6時40分になっていた。 ■ギリシャの夕べ 今晩の夕食は、昼同様、シーティング・スタイルでサービスされるが、添乗員のS氏から、7時半に4階レストラン集合と聞かされていた。また、「GREEK NIGHT」(ギリシャの夕べ)という事で、ギリシャの国旗にちなんで、船内の飾りやクルーの服装は、青や白に合わせられる。したがって、乗船の皆さんの服装も出来れば青や白のものをおつけ下さい。との事である。また夕食後は、「ギリシャ・ナイトショー」が予定されている。船室のシャワーで、パトモス島でかいた汗を流し、時間どおりレストランへ向かった。たしかに船内はギリシャの国旗で飾られ、乗客も言われたとおり、何かしら青いものを着用している。それなりにイベントの雰囲気はある。夕食のメニューは、前菜からデザートまでいくつかの選択肢があるが、メインは白身魚とするコースを注文した。どれもギリシャ料理らしいが、味はとても良かった。ただ最後のデザート(バクラバ)は、かなり甘かった。
夕食が済むと、ちょうど「ギリシャ・ナイトショー」が始まったところだ。アドミラル・ラウンジに向かうとステージでは華やかなダンスが披露されていた。プログラムを見ると @「カラマティアノス」(KALAMATIANOS)−ギリシャの国民的ダンスとある。またギリシャダンスの中でも、D「ハッサピコ」(HASSAPIKO =肉屋のダンス)はシンプルなダンスだがメロディーとうまくマッチしていて結構気にいった。またギリシャでとてもポピュラーな楽器「ブズキ」の演奏も楽しめる。ギリシャの夕べの締めくくりは、ギリシャではとても有名とされているF「ゾルバ」(ZORBA)で軽快なダンスを十分楽しんだ。ちなみに最後は、客も加わり皆で一緒に踊る事となった。
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