山口市営バス(山口市交通局、通称「赤バス」)は、昭和18年(1943年)に発足し、平成11年(1999年)に解散した公営企業です。
解散に伴い、人員、車両、路線は山口県内の大手バス会社である防長交通株式会社(本社:周南市)に引き継がれました。
(※旧交通局施設は現在も山口市所有)
ここでは、かつて山口市に存在した「山口市営バス」に関する概要を見ていきます。
●更新情報:2017/1/20 字句を一部修正
■嗚呼、交通局
平成2〜4年頃、幼い私が見ていた当時の交通局舎は、外観が激しく汚れ、雨どいや手すりなどが朽ちて脱落し、窓サッシは錆一面、
補修のトタン板は風に揺れ、地面からは激しく苔が蔓延る、といった壮絶な状態でした。
また、局舎だけでなく、車庫も外板が欠損し、錆が襲い、雨漏りは日常、台風の度に被害が大きくなっていく一方で、片隅には廃車が
長期に大量に寄せ集められ、その屍を晒すという、素人目に見ても、寂れた印象は拭い難いものがありました。
こうした状態は、今から思えば、平成7年に予定された宮野地区への移転の為に、故意に建物等は改修を放棄していたのかも知れません。
しかしこの「光景」とその「印象」は、末期の市営バスの経営状況を象徴していたような気もしてしまいます。
ところが、弊サイトを開設してからしばらく経って、こちらをご覧の方から1冊の本をご紹介いただきました。
それは山口市交通局自身が、解散に際して発行した回顧録的な文献(※1)で、そこには予想外の事実と写真が、多数掲載されていた
のです。
そこに写る、かつての交通局舎、車両、そして若々しい職員の方々の笑顔は、如何に美しく輝いていたことか!
交通局が、如何に使命感を持って業務に取り組み、そして山口市の発展に貢献したことか!
私が憐れむような気持ちで見つめていたあの末期の「交通局」とは、長期に亘って山口市の交通、経済、文化の発展を支え続けた、
栄光の拠点だったのです。
この余りにも大きなギャップに驚きつつ、こうした事実を次々と知るに及び、山口市営の実像に迫る資料や回想録は、まだまだ世の中に少ない
のではないか、という問題意識を持ちました。
そこで弊サイトでは、本ページを車両のページと併せて、交通局の歴史をバスファンの視点からまとめ、実像に迫る試みとしました。
なお、私個人は当事者ではありませんので、詳細や経緯については事実と異なる場合もあろうかと思いますが、何卒ご了承願います。
よりお詳しい方のご意見、ご指摘等をお待ち致しておりますので、何卒宜しくお願い致します。
■参考文献■
『山口市営バス56年のあゆみ』
山口市交通局,1999.3(※1)
『55年のあゆみ-赤バスと過ごした日々-』 山口交通労働組合,1999.3 ほか
(何れも山口県立図書館蔵)
先ずは、上記に述べた「末期」の状態である、平成4年頃の交通局の施設、「局舎」を見ていきます。
山口市交通局は、発足当初は八幡馬場にあり、火災によって翌年、中河原(現:「一ノ坂川 交通交流広場」付近)に
移転。
さらに昭和26年(1951年)から平成7年(1995年)まで、実に44年間に亘って湯田温泉葵の車庫を本拠地としてきました。
昭和31年(1956年)には本庁舎が全焼するという事件にも見舞われますが、昭和35年(1960年)には、西日本
最大規模を誇る整備工場も完成し、安全運行を支え続けました。
その後、宮野地区へ交通局が移転したのに伴い、全施設が閉鎖され、後に解体されます。
現在は県立自動車学校の敷地となりました。
■湯田車庫 施設配置図
私が記憶を基に作成、縮尺は適当です。
各写真はクリックで拡大します。
各写真をご覧になってもお分かりの通り、施設は相当老朽化が進んでいました。
車庫の改築・移転は、安全運行を維持する意味においても既に不可避の状況だったといえるでしょう。
最盛期には一度に100台近くのバスが集った栄光の跡地は、現在、多くの若手ドライバーを育てています。
■宮野車庫
上記湯田の敷地を売却した後、平成7年に移転・完成した新局舎です。
車両数が減ったためか、湯田に比べて施設規模がかなり縮小されています。
それでも合理的に配置された施設や、大きな検修工場、車両前後まで洗浄
する自動洗車機など、新しい造形が随所にみられます。
また、一列の車庫に、一斉に「赤バス」が並ぶ姿は、とても壮観ではありました。
その後は、経営再建の努力も虚しく、宮野時代は僅か4年でその使命を終え、
「防長交通 山口営業所」となります。
写真は建設中の平成6年と、市営解散直後の平成12年のものです。
建築当初から現在まで、施設に特に大きな変更箇所は見当たらないように
思われます。
■支所の車庫施設
90年代の山口市営では、他社のように何箇所かに車庫を分散させることはしておらず、
全てにおいて湯田車庫(後に宮野車庫)が機能の中心にありました。
しかし歴史的に見れば、実は秋穂と仁保、小郡にも小規模な施設を有していたようで、
壮大な路線、膨大な車両数を誇っていた時代の一端がうかがえます。
・仁保車庫図面 (何度か遷移したもののうちの一つと思われます)
図面をスキャンではなく写真撮影していますので、不鮮明はな点ご了承ください。
また、これらとは別に、終点付近では民家に宿泊する運用もあったようです。
左の写真は、秋穂車庫の跡を平成20年夏に撮影したものです。
次に、代表的な時期における市営バスの路線図を見ていきます。
草創期から最盛期、そして衰退期へと進む過程で、路線図は如実にその時代を反映していると言えるでしょう。
宮野に車庫が移転して以降の路線は防長交通に継承された現在でもあまり変化が無く、ほぼそのまま現存しているのが
興味深い点です。
※路線図は、すべて 『55年のあゆみ-赤バスと過ごした日々-』
山口交通労働組合,1999.3 より引用しています。
■発足当初:1943年(昭和18年)
当初から市内の基本的な路線は充実していました。
完成された「山口定期自動車」の営業基盤をそのまま引き継いだと考えられます。
平川、秋穂あたりが未だ開拓されていなかった(道が無かった?)こともわかります。
■最盛期:1961年3月(昭和36年)
バスによる交通の最盛期を迎え、市内外に遠大な路線を持つようになります。
国道の完成によって一部幹線はそちらに移行しましたが、未だ旧路線系統も多くが残っていました。
宇部駅や秋芳洞まで伸びる路線にも注目。
昭和33年(1958年)までは、厚狭方面にも路線を整備していたようです。
2003/3/21 2017/1/20
■衰退期:1973年3月(昭和48年)
上記に比べると、大幅に合理化されてきました。
宇部方面の路線や数駅しかない毛細路線が整理されています。
昭和58年(1983年)にバイパス線(現・国道9号線)と宇部空港線が開始、同時に吉敷中尾、一貫野、
熊坂、由良、錦鶏の滝(天花)、台の木線が一斉に廃止されます。
せっかく開業した宇部空港線も僅か3年で廃止に。
昭和61年(1986年)には朝倉線、大内の国道経由が廃止されており、この状態こそが、私が山口に住んで
いた頃でした。
■末期:1999年3月(平成11年)
市営バス最後の路線図となったもので、基本的に現在の防長交通の路線と変わりはありません。
平成7年(1995年)には最後の新設路線として平川から小郡に続く路線(八方原経由小郡駅行き)が
誕生し、これが割と好評だったそうです。
平成9年(1997年)には秋穂の「潮寿荘」にも乗り入れを果たし、サービス向上に尽力しました。
以上が私の持っている路線図情報の全てです。
当時の路線図や時刻表をお持ちの方がいらっしゃれば、是非とも拝見させていただければ助かります(2009年3月)。
次のページでは、歴史についてみていきます。
※昭和31年の事務所焼失前
(ご提供写真)
(文献引用写真)