ほろ苦いトレース
淡路島 '03.09.14〜15


 フェリーターミナルで黙礼をして通り過ぎる男がいた。その時は何
のことかも判らずに俺も黙礼を返したが、そのヨコヤマさんも淡路島
を自転車で巡るために船を待っているところだった。
 淡路島は一周およそ160kmあり、それを彼は一泊二日で走破すると
言う。
 俺もそうなのかと問いかけられたが、いやいやそんな装備はしてい
ないし、走りきれる自信もない。
 のんびり走って、テキトーなとこで止めますよ。

 淡路島へは二度目だ。初めての旅はNと一緒だった。昨夜は彼女の
リサイタルがあり、それで関西に飛んで来たのだった。
 その時もこの船に乗ったはずだ。
 空港連絡橋をくぐり、関空を脇をすり抜けるように船は進んで往く。
 冬だった前回は冷たい海風を頬に受けながら、コートのポケットの中
で小さな手を力いっぱい握っていた。

 リサイタルはS市駅前のホールで行われた。この駅前も以前は薄汚な
く暗い雰囲気に包まれていたのに今はすっかりニュータウンに生まれ変
わった。
 会場はほぼ満員で、すでに600人ほどが席に着いていた。
 スゴイな。
 個人でこれだけ集められるのは今までの着実な実績の証だ。でも俺
だって200人なら集められるぞ。
 完全には屈服できないライバル心が覗いた。
 
 徹夜でやって来たので眠い。
 目をつぶって開演前の喧噪を子守歌にしていると声が掛かった。
「ここ、イーですか。」
 返事をする間も与えられず、三人のおばちゃんが順繰りに俺と前席の
間にむりやり身体をねじ込んで通り抜けようとする。
 その度にでかいケツが俺の膝にのし掛かる。
 なんだよ。ちょっと待ってくれたら立ち上がって通してあげるのに。
 
 Nが下手から登場してきた。
 ビデオでしか知らないが、前回のようなおどおどと緊張した様子など
はまったくなく、堂々とステージ中央に向かって歩いている。
 そう言えば、良い声を出すために太りたいといつも言っていた。

 一曲歌い終わると隣りに座ったおばちゃんがその向こうの仲間に言っ
た。
「いつもは恐いけど、今日はきれいやな。」
 うるさいな、黙って聞け。
 以前背中のファスナーが開けたままだったことがあるので、ちゃん
と閉まっているか気になった。
 隣のおばちゃんがまた念を押すように、キレイやなと言った。
 
 船のデッキでいつの間にか眠っていた。目が覚めると、関空もりん
くうタウンの高層ビルも視界の外だった。
 俺も島一周をしてみようかという気になっていた。
 それは昨夜の一生懸命な歌声に刺激されたからだろう。いや一生懸
命なんて好きなことに夢中になれば当然のことで、そのひたむきな姿
に感動したのだ。
 俺も何か他のことを忘れるくらい夢中になることをしてみたくなっ
た。
 しかし一周するには装備が充分ではない。
 キャリアーは着けておらず、ザックひとつに全て詰め込んである。
 これを背負って走っていたらすぐに腰が痛くなり、160kmなんてと
ても保ちそうにない。

 港に着くとコインロッカーを探した。不必要なものは全て預け、身 軽になって走りきるつもりだ。天気も良いので、テントも必要ないだ ろう。  だが、コインロッカーはなかった。  しかたない。そのうちに何か良い考えが浮かぶだろう。  すでに豆粒のようになったヨコヤマさんを追いかけた。    暑い。九月も中旬というのに真夏の暑さだ。どうして俺だけいつも こういう目に遭うんだ。冷夏の夏も、俺は酷暑の沖縄で苦しんでいた。  すぐに汗が噴き出してきて、島一周の自信は早くも壊滅状態だ。  洲本温泉に差し掛かる頃には喉がカラカラになった。  今日はまだメシも食っていない。これから先しばらくは店があると は思えない。目についたスーパーに飛び込んだ。  ペットボトルのお茶2本を一気に飲み干し、にぎりめしを食うとやっ と落ち着いた。 「沼島(ぬしま)に行き。」  スーパーのおねーさんがそう言って渡船の時刻を調べてくれた。  この20km先、土生(はぶ)港の沖数kmのところにある小島で、気に はなっていた島だ。 「沼島はいーとこやで。のんびりできるし、なんとのうおにーさんの 雰囲気に合ってるわ。一周なんてやめとき。」  気持ちは沼島行に大きく傾いていた。  それなら楽勝だろうとすっかりその気になっていたら、スーパーを 出るとすぐに道幅が狭まり、急な登り坂になった。 すぐに後悔した。  ザックで頭を押さえられ、流れた汗が自転車のフレームにしたたり 落ちるの眺めながらひたすらペダルを漕いだ。  道はぐんぐんと高度を稼いでいく。こんな狭い道なのに車は俺の肩 をかすめて走り過ぎる。  だから関西は嫌いなんだ。もっと優しく走れないのか。  干からびた子ザルの死体が転がっていた。  だめだ、もう漕げない。道端にへたり込んでスーパーでもらった水 を飲むと治まりかけた汗が噴き出し、セミの声が頭の心まで響いた。  下り坂になった。山襞を縫って高度が落ち、自転車はみるみる速度 を増していった。海岸線が見えてくると、これから進む道が断崖の足 元にへばりついている。  海に沿うように走るとこれで楽になると思った。しかし平坦な道は 漕がなければならず、ザックの重みがぐっとのし掛かり、眩しく光る 波がさらに暑さを呼ぶ。  モンキーセンターで一休み。きっと俺のケツはサルよりも赤く腫れ ているだろう。  黒崎水仙郷、ここもNと来た。俺は別段花には興味はなく、白い星 形の花弁の中心が黄色い水仙の名前はその時初めて覚えた。  プレハブに毛が生えたようだった休憩所は今は立派なビルになって いた。  土生港に着いたのは3時過ぎ、沼島往きの船が出たばかりだった。次 の船まで1時間半もある。  同じ船を待つ10人ほどのグループがいた。話を聞いているとやはり キャンプをするらしく、いくつもの台車に乗った大量の荷物と一緒だっ た。  騒々しいキャンプは御免だ。一晩中悩まされそうで、こいつらとは キャンプはしたくないと思った。  空港へのバスの中にウクレレを忘れてきたのも痛い。キャンプの友 がいないと寂しい。  しかし無い物ねだりしてもショウーガナイ。今夜は雨も降りそうに ないし、やはり一周しよう。間に合いそうになかったら夜通し走れば 良い。  スーパーのおねーさんには済まないと思いながらも、残り130kmを走 ることにした。  土生港から走り出すとそれが約束だったように登り坂が続いた。  リサイタルの1部は外国曲で、これまで聞いた事の無いほどの高音が 聞こえてきた。ソプラノなんだから高音は当たり前なんだが、これまで の音域は初めて聞いたと思う。  その声は俺のいらぬ心配は余所にピンと張ってホールの天上に響い た。  これはヨシコちゃんにも聞かせなくては。きっと参考になるだろう。  でも俺はもう少し低い音域の方が透きとおっていて好きだ。高音に なるとホールのせいか少し割れ気味に聞こえる。そこにピアノの音が 重なると、なんだかピアノと声とが張り合っているようだった。  このピアノの弾き方が俺の感性に合わない。  ミュートの仕方など音の締まりが雑に感じる。きっと俺の耳よりも ピアニストの方が正しいと思うのだが、やっぱり気に入らない。  ピアニストが男だから単なるヤキモチかも知れない。
坂を登り上がると、田園風景の中に集落が続いた。農家に大型の東 屋があり、その中では吊されたタマネギが押し合い圧し合いしていた。  タマネギは島一番の農産物らしくどこでも見かけ、路上にもちょく ちょく転がっている。うっかりよそ見して踏みつけてしまうとたいへ んだ。  ため池では蓮を栽培しており、稲は取り入れ間近に色づいていた。  水をもらいに体育館に行くと、管理人が退屈そうに寝ころんでテレ ビを見ていた。阪神が負けているらしい。  道はさらに登った。  やっと最高地点にたどり着き、下り始めると深い湾の奥に福良港が 小さく見えてきた。  福良に着いた頃には夕日が山肌に消えようとしていた。  防波堤に背を預けてビールを飲みながらこれからを考える。  一周するならさらに走らなければならない。  夜道を走るのは初めてではない。ライトもないが、まだ満月が過ぎ たばかりだ。やっぱり進もう。それに自分の野生を試すのも面白いだ ろう。  スーパーで半額弁当やお茶、行動食に飴やピーナッツも買った。  Nは飴のことをアメちゃんと呼んでいた。
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