熊出没注意! 山旅編
                       1998.Aug.01

 「車は滅多に通りませんから止めた方がいいですよ。」
 女満別空港観光案内所のおねーちゃんの言葉を笑顔でいなして、
俺は広域農道・美斜線(びしゃせん 美幌〜斜里)を歩き出した。 
  農道の両脇は畑が連なり、黄色に実った大麦の収穫に忙しくコン
バインやトラックがエンジンを唸らせていた。
 日射しはきついが、時おり吹く風が心地良い。2年ぶりの北海道
に足取りも軽い。しかし、5分に1台の割で通り過ぎる車は殆どが農
作業車で、空港から4kmも歩いてしまった。 
 全身汗まみれだ。
 一度通り過ぎた黒のツーリングワゴンが戻って来てクラクション
を鳴らした。
「何処まで行くの。」
 しめた。
 ザックを荷室に押し込むと後部座席に乗り込んだ。

 「岩尾別ユース」の車をヒッチして岩尾別へ。林道に入り木下小
屋へ向かう。
 行く手に知床連山を見上げながらブラブラと歩く。羅臼、三峰、
サシルイ、オッカバケ、硫黄、知床岳と昔覚えた名前を歌のように
唱えていると、道に濡れた足跡が点々とついている。近づいてよく
見ると肉球に爪。
 ヒグマだ。
 ルンルン気分も一気に吹き飛んでしまった。
 「森の熊さん」を大きな声で歌って歩くが、木陰の暗がりに入ると
テンションも下がってしまう。
 やっと通りがかった車をつかまえて木下小屋へ連れて行ってもら
った。
 6年ぶりの木下小屋は当時途中だった改装工事もすっかり終わり、
丸太作りの小屋はホールに暖炉もできていた。
  小屋には20人近い人達が泊まっていて、明日の羅臼登山ルートや
今まで登った山の話で盛り上がっていた。
 しかし俺と同じようにカムイワッカまで縦走する人が一人もいな
い。週末だから誰かしらいると思っていたのに。
 ヒグマが怖い。
 夜中にトイレに起きるとその事を思い出し、なかなか寝付けない
まま朝を迎えた。 

 今年の知床は異常にヒグマが多い。それは旅行者があたり構わず キャンプをし、食べ残しをきちんと処理しないことが原因のようだ。 餌まで投げてやる奴らもいるという。  キャンプは一晩中音を出しておこうと木之内から短波ラジオを借 りてきた。ヒグマ除けに蚊取り線香の煙が良いというので用意した。 好都合にも煙草も嫌いらしい。バカバカ吸ってやろうか。  怖くて眠れないかも知れないので、気を紛らわすためにウクレレ を弾こう。  最後は戦わなければならない。その時のためにピッケルとマキリ も持ってきた。  8月1日、午前5時40分。不安を胸に出発。  先週、今回の縦走の練習を兼ねて尾瀬に行ったときに腰を痛めてし まった。またそんなことの無いように、持ってきた2本のストックを 突いて慎重に歩く。  30分も登ると尾根に出た。オホーツクから吹き上げる風が気持ちよ い。空は高曇りで、知床の山々がシルエットで見える。  50分のコースを70分もかかって「弥三吉水」に着いた。冷たい湧き 水で喉を潤し、札幌の親子連れにパイナップルをもらって食べるとす っかり回復した。  ここからはその名の通り「極楽平」のなだらかな尾根が続く。  トドマツなどの高木は姿を消し、低く横に伸びたダケカンバの下を くぐるように進む。 銀冷水に着いた。 水を一口だけ飲んですぐに出発。空が暗くなってきた。  しばらく行くと視界が開け大沢の谷が目に飛び込んできた。7年前 はここでバテバテになってしまった。その時見たイワギキョウの冷た いほどの美しさは今も忘れられない。  休むな、歩け、足を出せ。自分に言い聞かせ一歩一歩登る。  振り返るとV字型に切り取られたオホーツク。この大沢はいつもな ら雪渓になっているところだが、今年は雪不足でしっかりと夏道が出 ていて歩きやすい。  道の両端には黄色や白い花、そして紫のイワギキョウも咲き乱れて いる。 
       割とあっけなく羅臼岳と三峰の鞍部「羅臼平」に着いた。  まだ10時前だ。キャンプ地の「二ツ池」までここから2時間、余裕 があるので羅臼岳のピークハントに行く。  荷物をデポしてしばらく行くと岩棚から水が滴り落ちていた。そこ で数人が水を汲んでいる。三峰の水場は枯れているという。ここが縦 走中最後の湧き水となる岩清水だ。  帰りに水を汲もう。  大きな岩がいくつも重なり合って盛り上がり山頂部を作り上げてい る。  前回登ったときはその岩を飛び移りながら行ったが、数年前に浩宮 が登ったせいか非常に道が整備されていて歩きやすい。(木の下小屋 のおやじは誰も整備はしていないと言う。)  山頂は濃いガスの中に包まれて何も見えない。  7年前はパンフレットのように晴れ上がり、摩周湖や斜里岳が手に取 るように見えた。岬側は遠く知床岳まで縦走路を巡る山々が見渡せた。 そして最高の気分で「知床旅情」をハーモニカで演奏したのに。  しばらくすると雨まで降ってきた。早々に退散する。
   羅臼平はガスが川のように流れ暗く寒い。これから先はハイマツに 覆われたトンネルを行くことになるので気が重い。なかなか最初の一 歩が出ない。  歩き出さなくては。  次の水場が枯れているというので水は5リットル持った。 さぁ行くか。  片手をザックに通したとき、後ろから声がかかった。 「パンを焼いたんですけどいかがですか。」  札幌のおばちゃん二人連れだった。  その声を無視して行こうとした。しかし躊躇した後、せっかくのそ の厚意を受けることにした。   なかなか飲み下せないガーリックトーストをクチャクチャしながら 明日の天気を訊くと、今日と同じだという。  はるばるやって来たのに天気が悪いのじゃ景色も楽しめず面白くな い。前回も猛烈な嵐で二ツ池で止めている。  今年こそと思っていたのに。  しばらく考えていると大粒の雨が打ちつけてきた。天気は悪くなる 一方だ。  これで気持ちの糸がぷつんと切れた。  今日はここでキャンプするという到着したばかりの家族連れに水を 分けてあげ、もう悩む事が出来ないように一気に登って来た道を下っ た。  カヌーが終わって時間があったらまたやればいいさ。せっかくの知 床縦走だ、天気が悪けりゃ意味がない。  慰めとも言い訳ともつかない言葉が頭の中をぐるぐる回っていた。
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