細野城 (長野氏城) Topへ
細野氏は、鎌倉御家人工藤左衛門尉祐経の小薩摩守祐長が長野の地頭職となって安濃・
奄芸を給され、その子祐政が長野氏を称し、その子祐藤が二代目、その子祐宗が分家し
細野氏を興した。 常に長野氏と行動を共にし、家が絶えようとする時長野氏より養子を
迎えたり、と緊密な関係を保っている。
長野氏16代藤定の小藤光が養子として細野家に入った時、安濃郡に出、安濃城を築き
本拠とした。その後細野氏は、長野氏与力として活躍している。信長の侵攻後も当時の
城主藤敦は一身田専修寺に逃れ、のち蒲生氏郷に仕えた。(城郭大系)
長野氏は、細野氏が退去した細野城を本拠とし、詰めの城とした。
居住は山麓の「しろやしき」と呼ばれるところらしく、今は長野小学校の第2駐車場辺りでは
ないかと思われる。
城跡は、伊賀街道に沿い長野川が流れる丘陵上に築かれている。一山三郭の珍しい形を
している。
西の城は、20m四方程の西と北に低い土塁を持つ主郭を頂点として、幾つかの郭を階段状に
築いている。 主郭の虎口は西側に開かれ、平虎口ではあるが、2折れである。
中の城は、北に2mほどの土塁と二条の堀切を持つ主郭を中心に、東側に沢山の削平地を
持っている。 下って見ると、破城された石塁の石が散乱しており、恐らく全てではないが
幾つかは郭として機能していたものと思われる。
東の城は、径40m、高さ2m程の円形状の物を主郭として、その周囲を広い削平地が取り
巻いている。この城は最も古いタイプのものと思われる。
☆所在地 三重県安芸郡美里村長野字細野








2005.03.21 撮影