掛田城                Topへ

掛田城は、青山町伊勢路地区にある中世の城跡。阿保や老川とはホンの近く。

この城は、集落の裏側丘陵上に位置し、初瀬街道を扼する街道に面している。
東西30m南北40mほどの主曲輪内に、更に10m10mの土塁で囲んだ主曲輪の中の主曲輪とでも
いうのか穴蔵をもつ独特の曲輪構成をしている。その南西隅に今は稲荷神社を祀っている隅櫓跡が
残っていた。
虎口は平入りだが、土塁の高さは5mを超える。主曲輪への虎口は平入りだが石積が見られるようで、
その北方土塁上にもまた櫓跡が推察できる。その虎口を抜けると、土塁を持つ二の曲輪が構え更に
別の曲輪をいくつか望む事ができる。

車は、旧初瀬街道沿いにある天理教の前に断りを入れて駐車させてもらった。
帰りに天理教の方(欠田さん)からお茶やお菓子まで御馳走になり、このお城の話を聞かせてもらった。
それによると、この天理教のある辺りに城主屋敷があったようで、また後の世には初瀬街道の宿場と
して栄えていたようだ。

☆所在地 三重県名賀郡青山町下川原字六十苅


 

 

 

 

 

 2006.1.7 撮影



   追記

先に訪れたよりもう6年も経っていたのには、正直驚いた。つい先だっての気がしていたのである。その際には
天理教の欠田さんにお世話になりました。勿論挨拶には赴いては居たのですが、今回は仲間が多くいたので
遠慮させていただきました。今回は近くにある城氏城を訪問する道すがら立ち寄った次第です。

初瀬街道脇の民家と民家との間を入って行くと、階段がしつらえてあり、これが正式な城道の始まりでした。
最初からつづら折れの道の脇には、土塁や削平地が見られる。その痕跡ではないか、と思える。南北朝期の城の
構造と似ている。
やがて、平坦な地形に近づくと見おぼえのある土塁が現れる。二郭及び主郭の土塁である。虎口は広く堂々と
している。妙にこせこせしていないのが良い。これは伊賀の城の特徴でもあろうか。

主郭の土塁にはやはり石材が使われている。ここへ来る途中にも石材が散乱していた。この石材はこの山中で
採れるのだろうか、川原石ではなさそうだし、人頭大で巨大な物でも無いが、それでも苦労をして運んだのであろう。

  見所
この城の特徴である郭内小郭が先にある。どういう役割を持っていたのか解らないが、東の土塁上に祀られている
祭神と関係があるのだろうか。この土塁をよじ登って見ると、空堀があり城外への土橋がある。この土橋は前回利用
した土橋であるが、当時のものではなく恐らく近世以降のものであろうとのことである。

今回、此の山頂部に遺構があるようだ、ということで登ると郷社が造営されており、その裏に高さ1m余りの土塁と
空堀が見られた。今回はこの土塁などを城の範囲に含めることで一致した。頂上部分はなだらかに削平されており、
兵の駐屯部または村人の避難部であったろう。

 歴史的事項

第一次天正伊賀の乱には、千三百の織田軍に対し二百の小勢で勝利したが、天正9年(1581)の2次伊賀の乱には、
信雄の父信長に対する名誉挽回との意気込みと、一万余りの織田軍対二百に満たぬ籠城軍では衆寡敵せずと、籠城の
城主富増伊予以下、上津阿保の土豪達は種生の国見城、柏尾の本田城その他へ散っていった。
 

 

 

 

 2012.3.18 & 4.15 撮影