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この城には新城と古城の二つがあり、古城は新城の一部になっていると共に住宅として開発され
見るかげもない。
平重盛の子資盛は鈴鹿郡久我の里に流され、実忠は資盛の孫として久我で生まれた。
元久元年(1204)、「三日平氏の乱」の功により関谷二十四郡の地頭職に補せられ、関に居館を
築き「関氏」を称し、城を若山に築いた。
鎌倉幕府の滅亡に伴い関盛政は亀山に移り、南北朝期北畠顕家を助け以後伊勢国司北畠氏と
行動を共にする。
貞治六年(1367)盛政は領地を五人の子に分け、長男盛澄は神戸沢城を築き神戸氏を、次男
盛門は国府城を築き国府氏を、三男盛繁は関本家を継いで亀山城に、四男盛宗は鹿伏兎城を
築いて鹿伏兎氏を、五男政実は川崎峰城を築いて峯氏を称した。
弘治三年(1557)佐々木六角氏の将小倉三河守が柿城を攻撃、神戸城もこの時奪われたが、
関本家から応援を出し奪還、六角氏は関氏の実力を見て味方にすることとし、婚姻関係を結んだ。
信長の伊勢侵攻の結果、三男信孝を神戸家の養子にし、六角氏を離れ信長と行動を共にすることを
決定した。 (後略) ――「城郭大系」より――
☆所在地 亀山市本丸町


2005.08.04 撮影
※説明会
4月1日亀山城に於いて、二の丸跡を発掘整備した説明会があった。
亀山城の説明は亀山さんだそうな。髭を貯えた解かり易い説明をされる方でした。
説明によると、この城には石垣を使っているところは、長屋櫓の今残っている場所だけで、残りは全て
土居だそうだ。確かに他のいろんな城、例えば姫路城を見ても城域を区切る場所は土居ではあるね。
また、亀山城の城主は二の丸に住み、本丸は将軍のための施設だそうな。
この城に天守は無く、三階櫓をその代用としていた。その位置は本丸隅だが、今の高さよりは11m程
土台を上げ、更に18mの高さの櫓が乗っている状態を想像すると、城下のどこからもこの櫓が望めた
ようです。
今回発掘調査された場所は、二の丸全体に建っている小学校の隅、グラウンドと濠との間であった。
ここは、本来二の丸と本丸の間には深い谷が入り込んでおり、攻城軍がその谷を攻め上るのを防御する
為に谷に向かって嘴上に曲輪を突出させている。防御でも重要な場所です。
画像からも判るとおり、二の丸の全ての門は埋門とし、腰曲輪を設けていた。しかし、よく見ると土塀には
狭間もなく、土居の下には溝が切ってある。しかも土塀は太鼓塀。これは江戸時代も後半の、戦の仕方を
忘れた時代の産物だ。


2006.4.8 撮影