枳城(からたちじょう)          Topへ

「阿坂城にあった二つの出城の内の一つと考えられる。

城跡は東西に長い60m×30m、高さ6mの台状地を中心に、東と西に堀切を具え、北と南には
幅5〜10mの帯状の平坦地がめぐっているだけのものである。なお、城の東側の地には現在も
「城の下」という小字名が残っている。  
                  平成二年に松阪市教育委員会が城跡に建てた説明文 」


白米城(阿坂城)の出城として、高城と共に残るこの枳城は、同じ出城とはいえ高城とは役割が
違っていたようだ。見張の城・繋ぎの城のような役割を持っていたのではないか。この縄張りを
見ると、山頂を細長く削り残し、その土砂で腰曲輪を造り、堀切で城域を区切る。土塁は一切
設けない。この様子はまるで坂内城や脇谷城、一志の波瀬城にそっくりだ。
近代的な織田軍に攻められては、ひとたまりもあるまい。

この城は、高城や阿坂城に登った時からの懸案の城だった。前日も高城に登った帰り、『高城に
あった図面ではこの辺り・・・』と見当をつけ1時間かけて登ったが見事に空振り。降りてから地元の
方に『枳池の傍』と聞き、池を探し尋ね漸く池は見つけたものの、『その傍の山?どうも違う腑に
落ちない?』と再度の挑戦を決心して家に帰り調べ上げた。そして見つけた資料の中から決定した
山は・・・。なんと昨日駐車して登った山とは反対の山! 即ち南の山!

翌日、道なき道を登る。ひたすら頂上を目指し、尾根の上に何か城にまつわる痕跡が無いか確認
しながら、ひたすら登る。登り始めて40分経ちやがて一つの頂に近付いた頃、山頂に向かう2本の
竪堀らしきものが・・・・? 「おや?これは竪堀じゃないか?山頂は、削平されていないか?」
しかしあくまで?が付く。腑に落ちない。 「削平されてはいないが、この先に何かありそうだ!」
さらに20分の登り。


「・・・!! 見つけた」 とうとう見つけた。これは間違いない! これは腰曲輪だ!堀切だ!
この上が主曲輪だ!
登ってみると、枳城の看板が、これで間違いない。やった!やったね!

永年の懸念が解決され、胃の中に何かがストンと落ちたようだ。しかし新たな謎が・・・。
北畠氏はどんな防衛思想を持っていたのだろうか? 城は南北朝時代の物で充分だと思って
いたのだろうか?


☆所在地 松阪市大阿坂町枳

 

 

 

 
                                       2007.1.4 撮影

   追記      2012年1月3日訪問

久し振りに松阪市の枳城を訪れた。

見覚えのあるミカン畑を登りながら、位置を確認しながら登る事約30分、案に違わず城跡に着いた。

この城跡に登るにはどこから登るか分からない。少し城道を考えてみよう。

北畠氏特有のプリン型パーツの周囲を回れば、前回にも気付いた北側の腰曲輪と東西の堀切、西北にある縦堀。

この城は、攻撃正面を南西からの尾根続きと考えていたようだ。 先ず西側の削平の甘い尾根で防御した後、
堀切で防ぎ、北側に廻る敵に対しては縦堀と右側からの攻撃により防御。 狭い南側に廻らせ攻撃勢を細く長く
させ、頭上からの攻撃などで弱らせる。 それでもかろうじて東に届いた敵は、東方ピークに陣を敷いていた味方
兵力に散々攻撃され、更に勢力を弱められ、東北にある土橋及び虎口へ到着できなかった。 巨大な軍事力に
より、廻りこみを阻止できないほど巨大な軍の場合だけ、この城を征圧出来る。


如何でしょうか、これが、小生が考えた城道です。

 

 

 
                                           2012.1.3 撮影