笠木館           Topへ

『・・・前略・・・近くの字名に町屋、市門、伊賀入、駒ノ口など・・・。

標高は40mながら二重、三重の土塁に囲まれ迷路のようになった曲輪が大小合わせて37、
井戸が24ほど点在・・・中略・・・平時にはここを居住とし、有事には1km離れた矢田城に(を)
立篭もりの砦としていた。』

『笠木(坂内)館跡  笠服(笠木)は、かつての神宮祭主領であったが、寛正年間(約1460)頃
より坂内氏の知行地となり坂内氏の居館跡として断定されている。 『神宮文庫』

永禄12年(1569)織田信長の軍勢と北畠勢が大河内城で攻防を展開したが決せず信長の二男
信雄を北畠家の養子として和議を結んだ。 そこで具教・具房父子はこの笠木坂内の御所に
退城したと『信長公記』に記されている。

天正4年(1576)11月 北畠具教は三瀬の館で謀殺され、当時の笠木城主坂内兵庫頭具義
(国司の婿)も田丸城で鏖殺(オウサツ―みなごろし)された。』

                            以上 双方とも 現地案内板より

記述されている如く平時は、この笠木館に住み、いざという場合矢田城にて応戦した。
北畠氏は伊勢国司とは言いながら、その実飯高郡・一志郡の2郡しか領地を持っておらず、
自然多気郡・度会郡を領している伊勢神宮を侵食した。
笠木館は、こうした土壌の上、織田氏との和議により当主具教その子具房がしばらく居住した
跡である。 具教は、天正2年(1574)3月三瀬谷に館を築造し移り、天正4年旧臣の裏切りに
会い謀殺された。

城館は、外郭を二重三重の堀を巡らし、更に内部を土塁と堀で区画された一辺約30m〜40mの
方形地を連続させる形式である。 画像の部分は中でも中心的な規模の曲輪で、主曲輪に相当
するものと思われる。

文献上は、領主の動向が記録されていない。

☆所在地 三重県多気郡多気町笠木字中村ノ内


 

 

 2008.4.26 撮影