増地氏城 Topへ
「増地氏城は、JR関西線島ヶ原駅から正月堂に向かう中間地点の左手丘陵上に位置している。
治承四年(1180)、平氏追討の兵を挙げた源頼政の臣渡辺競が宇治川で敗れ、その子渡辺集が平氏の目を
逃れて山城国加茂に土着、更に島ヶ原に移り、島ヶ原十八家として栄えた。城主増地氏はその一家として勢力を
伸ばし、島ヶ原の地頭となったのである。
天正九年(1581)九月、織田信長の伊賀平定の際に、多羅尾口から堀久太郎秀政を大将に、信楽郷小川の
城主多羅尾光弘をはじめ2300人の兵が進行してきた。島ヶ原の地頭増地小源太は戦うことの無駄を悟り、秀政の
陣にまかり出て降参の旨を伝えたので、島ヶ原は戦火や狼藉から免れたと『伊乱記』は伝えている。
また『伊乱記』に「笠置口の押さえとして増地の要害をはじめとして七郷の構を用意して各楯籠砦を築きて・・・」と
あるように、増地氏城を中心に北に恒矢氏城・高瀬城、東に菊岡氏城、南に田槇氏城、川南に奥氏城などが出城の
配置となっている。
上の城は三方切り込み土塁で、南は掻揚土塁とし、北西部に一段高く土塁で囲んだ見張台を設け、周囲に空堀を
巡らし、西の尾根とは堀切をもって切断している。この西丘陵にはかすかに土塁・空堀がみられるので、出丸か
増地氏初期の城館跡で、東側に新城を築いたことも考えられる。下の城は北背後に深さ6mの空堀を設け、三方
切込土塁として、この曲輪に館が建てられていたと推察される。」
「日本城郭体系」より
☆所在地 三重県伊賀市島ヶ原村中村字立岩





2011.10.1 撮影