三宅西条城 Topへ
三宅の集落の西側にこの城は残っている。 城跡のすぐ北側には中の川が流れている。 日本城郭体系が
刊行されたときは何も無かったのだろうが、 今は国道306号線が城跡のすぐ東を通っており、その建設により
削られたであろうことは容易に察しがつく。
鈴鹿市の西方の細い丘陵尾根を堀切で断ち切り、その間に土塁で囲った曲輪を持っている。 主曲輪は東の
端にあり、東方を除く三方に土塁が残り、特に主曲輪西側の土塁は高さが約2m、幅も2.5から3mと幅広であり、
櫓が乗っていたと考えても良いだろう。ちなみに北側は高さ1m、南側は高さ0.3mである。主曲輪北側には
腰曲輪があり、 そこに五輪塔の残欠が五基分ほど祀られていた。 この腰曲輪には土塁は無かった。主曲輪
西方の堀切は幅10mほどあり、その西方の曲輪には石碑が建っていたが、何を掘り込んでいたのか文字が
分からなかった。この曲輪を通り更に西を見ると、二本の堀切が見える。 その先は、城跡か今では分からない。
また、この最後の堀切の下段には明らかに別の曲輪があるようだが、 民家との接点に近く、何時頃の時代の
ものか分からなかった。 もちろん、 この城が形成されたのは、室町後期いわゆる戦国時代でしょう。
城郭体系には、「城主は『伊勢名勝志』では槇野秀盛が、肥後国山鹿庄からきて築城し、三宅駿河守と称した。
永禄12年(1569)四代藤重の時、織田信長により滅ぶとある。 また、『三国地誌』では三宅駿河守、その子
権左衛門継ぐ、」とある。 どちらにしろ、永禄12年の織田氏侵攻により、此の辺りの諸豪族は全て織田氏の
軍門に下ったのです。そして武士として生きるか百姓として生きるかの選択を強いられたのです。武士としての
生存を望んだものは、士農分離政策により、領地を離れ、近江・京を始め遠方の戦いに明け暮れたのでした。
本能寺の変の後、生き延びた豪族も、信雄と秀吉との「小牧長久手の戦い」の一連の戦闘場所である「加賀井の
戦い」でほぼ全員が犠牲となりました。
☆所在地 三重県鈴鹿市三宅町西条





2010.3.15 撮影