長原城(ながわら) Topへ
今より420余年前、後奈良朝・室町将軍は義晴から義輝の頃、世は国取りの動乱止まず、この地も
南勢五郡に組する北畠氏、国司の配下にあり田丸(玉丸)城をはじめ、郷も人もたたかいの不安に
あけくれていた。
このころ郷士 大崎玄蕃はここ北山の浅間山上に守閣を構え、二十年余を居城し弘治二年(1556)
二月に没している。
玄蕃はこの長原(永原)をこよなく愛し、慈政の中にも賞罰は厳しく、旧弊をあらため、更に長原池
造成の大事業を成し遂げて治水の万全を図り生業発展と民生安定に大なる治績を収めた。この郷に
当時呼ばれていた場所名(殿蔵屋敷、本陣(本地)、垣戸、殿屋敷、籠建場、亘場等)この多くが今も
語り伝えられている。なお玄蕃は城の麓に慈光山長命寺を草創して、菩提寺となし自ら大旦那として
住民とのふれ合いを深めた。位牌「従前槙起大居士」と○○○書き に、弘治元年の詠と思われる
歌――わが領地 みわたす四方の山々は 高き低きも長原の里――とあり受領の思いが偲ばれる。
この城の石垣は天保六年の大洪水による池決壊の大修理に使われ現存しない。※ 後述 不明
昭和五四年 城址に顕彰碑をたてる 長原老人会
以上のように書かれた案内板が、城跡に登る神社脇に建っていた。建てた当初は墨跡黒々とした立派な
ものだったのでしょうが、永い間の風水にさらされ今は読み辛かった。
この城を訪れた目的は、三重県には珍しい畝状竪堀が残っているからです。現場を見ると確かに畝状
竪堀なのですが、長さが3mほどと非常に短い。場所は他所と同じく、腰曲輪の一部を畝状にすることで、
横移動を制限し、更に上部にある主曲輪からの横射を容易にすることであったと思われます。
また、この案内板に書かれている石垣なるものは全く不明で、普通なら残石の一つや二つがあるものですが、
それが無いということから、この技術がこの時期この場所にはなかったのではないか、と思われます。
川原石を積むなどの石積はあったでしょうが・・・・・。
☆所在地 三重県度会郡度会町長原



2008.6.26 撮影