老川集落古城跡についての私見
老村忠次氏執筆の『老村の里』の中では、若松城は平忠亮が平氏滅亡の際落拠し、源氏の追及を逃れる為「若松忠平」と名前を替えた。
また武田信玄の重臣島崎氏の孫、島地氏が築城したのが現在ある古城跡である、と書かれている。
本当に武田氏の重臣が隠れ住んだのであろうか?素朴な疑問が私を包む。
この老川の集落は、隠れ里名張の更に山奥に位置し、初瀬街道からも逸れており、かといって郡邑阿保からは7・8kmと国内の情勢をつかむのに適当な距離を保ち、真に隠れ住むには良い場所である。
いつごろから島崎氏がこの場所に移り住んだのかにより、その理由が変わってくる。一つは未だ信玄が健在で、武田の勢力が強い頃であれば、京都を支配するため旧守護北畠氏残党との連携を深める、或いは伊賀惣国との連携の為こちらに來所し、何らかの事情により永住したものであろう。
もう1つは、武田氏が勢力を失ったまたは滅亡した後であれば、文字通り織田信長や豊臣秀吉の追及の手を逃れるためここに住んだものと思われる。
話とすれば、前者のように武田が健在の時のほうが面白い。
(武田信玄は、京に旗を立てる事を念頭に置き、京を席巻している織田信長を牽制するため京都近郷の国々の情勢を探り、浅井朝倉、松永久秀、本願寺などと連絡をつけ、京に向け進軍を開始した。重臣島崎少輔は主君信玄の内意を受け、伊賀伊勢の情勢を報告した後、伊賀の惣国一揆や北畠旧臣を組織し信長の後方霍乱のため留まった。しかし、天に利あらず、信玄は野田の城で病が再発し、駒場で息を引き取った。島崎少輔は、信玄の死を知ると直ちに城を構えるよう指令する。急場のことだし築城に慣れていない土民たちを叱咤激励しつつ、地域内の山頂に削兵地を設け、堀切を切り城砦を築き上げた。)
このあと信雄や家康などを登場させれば、一遍の小説になるのではないだろうか。話しがだいぶん横道に逸れてしまった。
このあたりの城を訪ねてみて、伊賀甲賀によくある単郭方形の城館が基本で、それに多少の郭を付け加えたものである。堀切と土塁での防御で、土塁の折れはあるものの虎口は多くが平入りだし、山上への城域を区切る施設も無い。何箇所もある砦全体でこの里を守る意図が見られるものの戦国末期の大軍勢に組織された大大名には歯が立たない。ここはやはり室町中期の小競り合いを中心とする時代の遺物と考えたほうが妥当である。