青田城 Topへ
松阪市の郊外、蓮(ハチス)ダムの最奥部にこの城は位置する。
日本城郭大系によれば、「本能寺の変の後北畠具教の弟が還俗し、具親と名乗り北畠家の再興を
謀り川俣谷や小倭の豪族を糾合しここに立てこもる。」 しかし戦いに利あらず、天正5年信雄により
その道は絶たれた。
蓮ダムを青田川沿いに尚も遡上すると青田の集落に着く。 そこで一軒の家で城の所在地を尋ねると、
「更に車を走らせること約1kmで、道なりに左曲がりで2軒の家のある茶畑が見える所、その上方
約100mが目指す城だ」、と教えられる。
当初探しても判らず、諦めて道を遡上し再度のアタックのために情報を得るべく1軒の家で尋ねれば
「ああ、それならば案内してあげよう」と有難いお言葉。 こちらが恐縮するのも構わず、どんどん先に
進まれ城跡まで案内してもらった。
始めて見る城の興奮のあまりお名前すら聞き逃し、この場をお借りしお礼申し上げます。
城は松阪と大和を結ぶ街道の一つで急峻な山の中腹に在り、山で採れる石を積み石塁として防御
している。佐々木氏の観音寺城のような積み方で現存する石塁の高さは2mほどだが、信雄によって
破却される以前は更に1・2mはあったであろうから3〜4mの高さを持っていたのだろう。裏込め石も
見られるがその量は充分でなく、織田政権の城造りとはかなり技術的な格差を感じる。
肝心の虎口部は城の西側のようだが、完全に破壊されており判然としない。いま一つの虎口が山上に
向かっており、破壊されてはいるもののその形態から2折れ0空間と今は判断しておこう。 ただ城道が
城に入ってからも長く伸び、石積により規制されていることから、2折れ1空間と判断する方がいるかも
しれない。 ちなみに、画像にある「虎口か?」は嘘です。
☆所在地 三重県松阪市飯高町青田



2006.3.21 撮影
※再訪
この城を再度訪問してようやくこの城の状況が理解できた。
この城は、館城と呼ばれるもので、西側に東西50m南北40m程の石積みによる平坦地を造り、その
東側に東西30m南北20m程の曲輪を南北に二つ並べたものである。
石積みは各曲輪間の区域を設定する意味と通路として利用していたのではないか。この様式は近江の
観音寺城とよく似ている。
大手の虎口は中央に坂虎口として残っており、搦め手虎口は山側(北東側)にある。
防御は、それ程厳しいとは思われない。搦め手虎口の上部に小さな削平地を、本城より30mほど下部に
石積み遺構がある。それよりもこのような場所に造った事自体が防御になっている。


2006.4.4 撮影撮影