音羽野城             Topへ

「文明年間(1470〜1486)頓宮四方介利盛が音羽野村を領した後、築城して、頓宮城より移り住んだ。
 それ以来、当城に住み、代々継いだが、元亀元年(1570)頓宮因幡守守孝の時、近江の守護佐々木六角氏
 没落し、織田信長に降りたが、天正十三年(1585)豊臣秀吉に没収された。
 音羽野城の位置は、現青瀬橋の東南の小高い丘上にあって、現況は松、杉などの混植林となっている。
 本丸跡と考えられる地点には、庭石なども残され、内堀・外堀も原形をとどめている。     
                                                      土山町教育委員会」

いつか訪れたいと願っていた「頓宮城」に行き、楽しんだ後、現地説明板に書かれていた『音羽野城』を訪れた。
驚きました!
比高差50mほどの丘陵上に位置するこの城は、一辺7・80mの単郭方形の城である。これだけならまだ驚きに
値しないが、南虎口前は近世であろうか、かなり改変されておりよくわからない。ただ、二重土塁で枡形を目指して
いるように見える。その虎口には南西隅の櫓台を突出させて、横矢を利かせている。もう一つの虎口は東に開く。 
こちらは平虎口であるが、この山に産する川原石(直径70cm程度のもの)を沢山集めている。更に城内の北側を
浅く掘り込み、庭園を目指すように大きな石を集積している。

城外には平坦地が続き、大兵力の駐屯地として利用もできる。 この辺りは、秀吉が天正年間に賤ヶ岳の戦いの
一部として、伊勢にいた滝川一益を攻めた時の進軍路として、また引き続く小牧・長久手の戦いに鈴鹿峠越えを
はじめ安楽峠越えや武平峠を利用したと思われる。 私は、この城を秀吉が丹羽長秀に命じて築かせた三か所の
繋ぎの城の内の一つではないか、と考えているがいかがであろうか。

☆所在地 三重県伊賀市土山町瀬ノ音


 

 

 

 

 

 
                                                  2012.1.12 撮影