小山城 Topへ
小山の集落の背後に築かれた城。
城郭体系には、室町期の城で、高井民部少輔が居城と記入されているが、員弁町史には、戦国に
築かれ、近くにある猪飼、柚井などと同じく集落の人のための避難城であろう。信長の伊勢侵攻に
より落城・廃棄された、と書かれている。ということは、長島の一向一揆にも使用されたのか。
丘陵先端を堀切で区切り、集落との境界は今は分らない。城跡最下部にはこの地方の有力者である
『水谷家』の墓が築かれている。その北側を望むと明らかな坂虎口になっており入り口までの高さは
15mを数える。 崩れた幅1.5m程度の坂を登り虎口を見ると北側土塁には石積みが残り、南側にも
崩れているが石が散乱していることから幅は2m程度だったのだろう。広さ30m×40m程の主曲輪に
入る。主曲輪の土塁は南を除く三方に築かれ、北西部が最も高くかつ厚い。北側の土塁切れ目からは
土塁の外側を廻る堀切道に通じ、下の曲輪に向かい更に堀切土塁の切れ目から更に下の曲輪を攻撃
できる防御構造になっている。城域を区切る堀切は西側では一本だけなので、更にこの外側にも別の
曲輪の存在が予想される。
下山後車内で一休みしていたら、当地に住まわれる水谷さんにお会いした。雑談の中であの墓は
水谷さんの本家の水谷さんのようで、『せめて案内図くらい建てる様に話してみよう』とのことであった。
このような方が増えると楽しみも増える。
アクセスは、城の近辺には駐車が出来ないので、小山集落の外側に邪魔にならないよう駐車すること。
☆所在地 三重県桑名市多度町小山




2006.1.24撮影
回想 2009/10/3
最初に訪れた時より既に3年が過ぎている。 この間、あちらこちらの城を見て廻り、様々な書物を読み漁った。
そして、城郭が少しは分かるようになってきた。 改めて振り返ると、 明らかな間違いを見つけることが出来る
ようになって来た。 改正の時間を持てるようになり、 以前から気がかりの部分を修正する気持ちが強くなった。
そこで、これからは、 以前に記載した城郭HPの間違い探しの旅に出ることにしよう。 静岡大学名誉教授の
小和田先生もおっしゃっているではないか、歴史とは新しい資料が発見されれば、それまで正史と思われて
いたものが、嘘史になるのだ。 修正をためらってはならない、と思う。 まして、小生は素人なのだから。
まず、この城の入口は、今度見つけたというより以前から気付いていたのだが、より北の方角で土塁に切れ目の
ある場所である。 その場所から土塁沿いに下ることが出来るし、その城道を城内から監視できるから間違いは
無い。 以前書いた場所にも、何らかの出入口はあっただろうが、今はどういう構造か分からない。石垣なんぞ
無い。 あれは後世の現代のものだ。
『坂虎口』、と以前書いてあるが、そのような呼び方があるのかどうか。 あるとして、永い間その坂を利用して
いないと、ふやけてしまうというのか、踏ん張れなくなるものだ。 北畠氏の詰城とか枳城で経験したのだが、
北畠の城には北畠型の防御パーツがある。 そのパーツに登るのに足を取られ前に進めないのだ。暑い夏の
季節なのに冷や汗をかいた事を思い出している。またこの防御パーツは、当時の最新技術のパーツだったかも
しれない。それまでの最高水準だった畝状竪堀では、横矢が効かないことに気付き、北部九州では、せっかく
作った畝状竪堀を綺麗に除去した城郭が現れてきているから。もう少し信長の石垣構築技術が遅れていたら、
北畠パーツが流行していたかな? 無理ですね。 鉄砲が入ってきているから。
☆所在地 三重県桑名市多度町小山字中ノ谷

2009.10.3 撮影