霊山山頂 Topへ
伝教大師(最澄)が嵯峨天皇の勅願により、弘仁年中(810〜823)国家鎮護の為山頂に大伽藍を
創建。山頂が平安から江戸初期にかけての一大寺院跡だったことが確認された。
「身構える中世」時代には、奥の院近くに曲輪を設け、湖東三山や上平寺の如く寺院といえども防御
されていたようだ。
山岳寺院の曲輪は、子院であろう。中央に幅一間ほどの通路を設けその両サイドが寺院跡である。
中央通路から横に路地を設けそこから寺院へ入る構造のようだ。 山頂から下った所に井戸跡を
発見したが、まだ他に何箇所もあったのだろう。山頂の奥の院から続く曲輪を巡る道は、いまは草に
埋もれ所により背丈ほどもあり、ウッカリ足を踏み外すと転んでしまう。
そんな曲輪の一つに水の手を見出し、その怪しげな雰囲気からもしかすると此処は庭園の可能性が
あるのでは、と思った。曲輪でも高い位置にある曲輪であり、高位の僧が暮らしていたのではないだ
ろうか。
この遺跡は平安時代から江戸時代初期まで続いていたらしい。いつも思うのだが、こんな高い山の上に
庵を結び、食料やその他の生活物資を運び、生活した人々の思いはどんなものだったのだろう。
宗教とはそれほど凄まじい理念を、情念を生じさせるものなのだろう。
霊山寺縁起によれば、伊賀は柘植の住人で平頼盛郎等であった平宗清は、平治の乱の後、捕らえた
源頼朝が亡くなった我が子と瓜二つのことから、京に護送の途中当山に助命を祈願。 更に源頼朝助命を
池禅尼に懇願した、という。 時は移り、寿永2年(1183)源頼朝は挙兵時、その恩返しに安堵を与えたが
平宗清は受諾せず、平家都落ちに同道した。
ここでも平氏の「滅びの美学」が残っている。
☆所在地 三重県伊賀市下柘植




2006.8.19 撮影



2006.9.24 撮影