沢城              Topへ

「沢城は亀山城主・関盛政の長子・関盛澄が、正平22年(1367)に築いた城跡で、亀山城
(若山城)を本家に沢城、国府城、鹿伏兎城、峰城を分家とし、『関一揆』を構成していた。 
城主は、盛澄、実重、為盛、具盛と続き、代々『神戸氏』を称していた。 神戸氏は鈴鹿郡と
川曲郡の内、二十四郷を支配しており、天分年間(1550年前後)、神戸城に移るまでの約200年間、
神戸氏の居城であった。

沢城の構造は明らかでないが、現在この地が本丸と考えられ、東西130m南北80mの楕円形で
周囲の水面より70cmほど高くなっている。 周囲には『城掛』『城西』『馬渡』などの字名が残り、
本丸を囲む曲輪が多数存在していたことを伺わせる。本丸の周囲は近年店舗などの構造物で
埋め尽くされているが、その際の試掘調査では、周囲が城の名の如く沼地であったことが確かめ
られており、本丸南端の水路工事に際しては『むめ、かく』の墨書土器が出土している。
                         鈴鹿教育委員会」
    現場に残る説明版より

2月2日民間の倉庫建設に伴う発掘調査報告が現地で行われた。残念ながら小生は失念いたし、
後に説明会資料を入手、現地を見学した。

それによれば、

@ 低地の湿潤な場所でも比較的高所に築かれ、固い黒色の土と砂交じりの黄色い土を交互に
  積み重ねて盛り土を行っている。
A 柱穴跡が確認された上にもう一層整地された部分が発見され、多くの土師器皿が出土している。
  15世紀ごろ大規模な建て替えが行われた。
B 直径9〜12cmの土師器皿が多数出土。陶器には瀬戸窯や常滑窯で焼かれた甕や鉢、碗など。

が報告されたようだ。

これによれば、大規模な建て替えは、北畠家との和睦により具盛が養子となったときではないか。
その時以来会所で主従の誓いのための土師器が多用されたのではないか、と思われる。 しかし
会所があれば、土師器が大量にみつかったのであれば、もしかしたら「作庭」があったかもしれない。
神戸氏ほどの身上で、北畠からの養子が入ってきたのなら、尚更そう思われる。

☆所在地 三重県鈴鹿市飯野寺家字城掛

 

 2008.2.2 撮影