新所城               Topへ

一般には、天正年間に関盛信が築いた(勢陽五鈴遺響など)とする。 
関盛信は関の宗家亀山城主であり、万鉄斎と号し、近江蒲生定秀の娘を室とする。

永禄11年(1568)、織田軍の再侵攻により、神戸家をはじめ関の諸氏は信長に降るが、
盛信は最後まで近江六角氏と連帯して反信長勢力となった。 しかし元亀4年(1573)、
盛信もついに屈し、蒲生賢秀のもとに幽閉された。 
天正10年、神戸信孝が四国攻略の総大将を命じられるや盛信も幽閉を解かれ亀山城に
戻った。

本能寺の変後の織田信孝と織田信雄との争いには信雄方(秀吉方)に属した。 が、快く
思わない家臣の岩間氏は、盛信・一政父子が年賀のため留守にしている間、謀反し城を
奪い信孝側の滝川一益に属した。 秀吉軍は、蒲生氏郷以下の諸将をもって奪回。 
盛信は蒲生氏に属し亀山城を預けられ、天正18年蒲生氏の会津転封にともない関一政は
白河城を託された。

新所城は、天正11年の滝川一益との戦いの後、秀吉の命を受けて浅野長政らによって
普請されている。

城址は、鈴鹿川が支流加太川と合流する所で、東海道と加太を経て伊賀へ通じる街道との
分岐点でもある。 標高150mほどの独立丘陵の西側斜面にあり、石垣や井戸跡が残る。

現在は企業の倉庫裏にありありあ遠景としては撮りづらい。 また頂上にも大きな石積みが
残ることから、なんらかの遺構ではないかと思われる。

☆所在地 三重県鈴鹿郡関町新所町字城山


 

 

 

 

 

 

                                        2004.01.24 撮影