滝之川城 Topへ
2月の最終日曜日、伊勢中世史研究所の例会に参加させてもらい、竹田憲治さんによる講演を
聞くことができた。講演の後、三重県内の畝状竪掘群のある城の代表として教えてもらったのが
この滝之川城である。 同席した仲間がこの話を聞き、数年前私達が駆け出しの頃にこの城の
名前を聞いたことを思い出し(たぶん湖北の田谷城を訪れたときに石田先生の話で、素晴らしく
遺構の残っている城で是非訪問すべきだとの話を思い出し)、このたび漸く訪問することができた。
「森本城の西、中村川右岸の標高110m、麓との比高70mの山頂に位置する。城の中心は最高所
にある曲輪で、南端には小規模な土塁がある。主曲輪から一段下がった部分には小規模な曲輪が
段状にある。ここからスロープ状の道があり、これが主曲輪への導入路と考えられている。更に
北には数段の小規模な曲輪が密集する。主曲輪の西側には比較的広大な曲輪が数箇所ある。
主曲輪南側には竪堀が多数造られている。主郭北の小曲輪群の東には堀切をはさみ半ば独立した
曲輪がある。その東にも竪堀が造られている。 後略 」
旧嬉野町史 中世編
山本浩之氏は、2003年中世城郭研究第17号の「防御パーツの組合せによる城郭遺構の分類
南伊勢の諸城を中心として」の中で、山麓の南部寺院跡が2条の堀切を持つことからただの寺院跡
ではなく、「城の大手にあたるかも知れ」ず、「そうだとすれば、寺院の空間内に城の導線が通って
いることになり、山城部の運営主体が寺院と密接に関わっていたことの追証となるだろう」と、記され
ている。 このことから、山麓の説明文では妙光院殿が山城の運営主体と記されているのだろう。
そしてまた山本氏は、この報告書の中で「中村川中流域において、北畠氏が通時的に技術を投入し、
重視していたらしい」と結論付けておられる。中村川を遡ると伊勢平野から北畑氏の本拠の多気・
美杉方面に最も短距離で、それ程の地勢的要害も無く行く事が出来ることから、滝之川城と対岸の
森本城、そして八田城を擁するこの地域で外敵を葬ろうと身構えていたようである。
(余談)山本氏は上記の報告書の中で、滝之原城には虎口が無い、と書かれている。もちろんあるの
だが、北畠氏の代表的防御パーツはお菓子のプリン状なのでわからない、という事なのでしょう。
ところが、この城の主曲輪東下、別曲輪南側の土塁に囲繞された曲輪に入るには、東側に虎口が
あるのではないでしょうか。 山麓の寺院跡からの大手道は、畝状竪堀群の切れ目より取り付き、
低い土塁の隙間を入り、目の前の壁を右に迂回し次の土塁を越え中に入る。 更に、城道を東に
向かえばスロープを辿り直ぐに別曲輪、西上方に向かえばいくつもの曲輪内を通り漸く主曲輪に
到達する。 各曲輪内を通行する間、常に上部曲輪より左方から弓矢による攻撃を受け、土塁を
越えれば竪堀が、竪堀を越えれば次の曲輪が、と息も付かせない防御構造をもっている。
しかし、この地域の防御勢力たる森本飛騨守は北畠氏500人の大将(嬉野史考古編)の程度なので、
織田信長の大勢力には一堪りも無かったことだろう。
☆所在地 三重県松阪市嬉野滝之川町字小甚吾・嬉野宮野町字浦山











08.3.2 & 3.22 撮影