田矢伊予守城 Topへ
阿山町河合地区の引接寺裏山がそれ。
三日平氏の乱の時参戦した平信兼の子孫が河合に土着し、田矢氏の祖になったという。
天正年間(1573〜92)には、伊賀評定衆十二家の一人として河合七郷を支配していた。
織田信長の伊賀平定に蒲生氏郷が玉滝口から攻め込んで来たとき、河合七郷の土豪達は
この城に集まり、城主田屋三郎左衛門を中心に土豪の妻子から下人にいたるまで竹槍を
持って防戦したが、大勢の寄せ手に草を薙ぐように切り倒された。
主郭には石垣が残り、西側土塁上には更に小土塁を持つ見張り台的な広さの郭を持って
いる。土塁の外側南北にはそれぞれ別の郭を持ち、伊賀の方形単郭の城とは少し違う。
引接寺の南側に大手道と思われる登り道があり、登るが、最初は竹林、主郭内は放置され
た植林、北側郭内は藪と、城らしい画像はなかなか撮れなかった。
☆所在地 三重県阿山郡阿山町河合字城






2004.2.7 撮影