釆女城      新しい画像へ(2006.1.9 撮影)        Topへ

別名 後藤城、上山城とも言う。
隣にある山路弾正の高岡城(鈴鹿市)と共に神戸信雄により落城とのこと。

茹だる様な夏の日差しの午後、「この暑い最中、わざわざ外に出て行くなんて、馬鹿は死な
なきゃなおらないっていうのは本当だな」等と言う家族その他の冷たい視線を感じながら
城に向かう。

この城は十数年前、新聞紙上で発表されたのを探し求めたが結局わからず、その後昨年
ようやく探し当てたものの、当時主郭はまだ草深く詳細な様子がわからなかったもの。
いわば長年探し求めていた恋人にようやく巡り会えたようなものだ。

川の畔の邪魔にならない場所に車を停め、初めは気づかなかった石碑横の通路から登る。
登ったところが既に平地になっており、城地であることを認識する。
しばらく歩くと一目で堀切とわかる場所に『城跡まで50m』の標示。右手は前回の探検により、
二の丸か三の丸跡とわかっている。

左手を登ること数メートルで本郭に着く。かなり広い、想像以上だ。よく見ると二カ所の虎口、
枡形までは発展していないが、食い違い虎口とわかる。その先は土橋になっており、切岸と
堀切で他の郭を分けている。主郭は土塁に囲まれ、東側や南側土塁は幅3m程で広くなって
おり建物の存在を想像させる。クモの巣があちこちに張り巡らされ。口の中と言わず目と言わ
ず入り込んでくる。

今回は主郭部がよく整備されており、前回の訪問とを併せよく理解できた。土橋で攻撃軍の
矛先を狭くさせる構造や、食い違い虎口の片側にある平坦部にあったであろう建物からの
攻撃など、当時の城に関する考えが脳裏に想像される。

***再訪の記事は写真の後ろに記載***

☆所在地  四日市市釆女町字北山

  

 

 

 

 

 

  2003.08.03 撮影

*** 2004.11.20 ***

藤原氏を祖先とする後藤家の後藤兵衛実基は保元・平治の乱(1159)に武功を顕し、
後藤左衛門尉基清が検非違使として京都守護に活躍、元久元年(1204)平賀朝雅の
討伐に奮闘する。後、後藤伊勢守基秀は文応元年(1260)先陣武功があって三重郡
采女郷の地頭職となり一族郎党を引連れ采女の地に移住、采女山(北山)に城郭を
築いた。
以来三百有余年連綿と治政し続いたが、後藤采女正藤勝のとき織田信長の侵略に遭い、
永禄11年(1568)落城した。


この城の大手はどこだろう、どこから入っていたのだろう?
元より明らかに「ここが大手だよ」等とは解らない様に細工されていたのだろうが。


いま現状を見、考えるに主郭南の現在の登城口は、市場という地名からもそのまま郭内の
市場であり、この部分ではない。現在の登城口は恐らく搦め手か。南・西側は川に面している
ことからこの部分ではないだろう。残る北側なら尾根を切った堀切の外側の北出丸から土橋、
北三の郭を通り、堀切の土橋、北郭、土橋、主郭だろうか。それとも、東側から北山の郭の
切岸を登り土橋へと登るのだろうか。いずれにしろ西郭を再度見学し、その構えを考えてから
決めても遅くはあるまい。


今回の訪問での最大の収穫は、西方から攻撃する攻城軍に対して巧みに配置されたデッド・
スポットを発見したことだ。確かに北郭、北三の郭、主郭に囲まれた場所へ誘い込まれては
とても無事な姿で帰還は望めまい。