吉原氏城、吉野城 Topへ
『この城は、この地一帯を支配していた土豪の吉原氏本城です。吉原氏は伊勢国司の北畠氏の有力な
家臣でした。織田信長の「信長公記」には、天正九年(1581)の伊賀の乱において、城に立て籠もって
織田軍と戦った城主 吉原次郎を討ち取ったことが記されています。この戦いでは、周辺の土豪をだけで
なく、信長に抵抗する勢力の多くが決起しましたが、生き残ったものは少なく、織田軍独特の表現である
「なで斬り」により、老若男女の殆どが殺戮されました。』
伊勢の山間部を走っていたらこのような看板が目に入り、駐車し探すうち作業中の方に声を掛けたところ
その方の持ち山が城址で、作業途中に拘わらず案内していただきました。 また、この集落内にはあと
2箇所に城跡があり、これも案内していただきました。
これら3箇所の城は築城時期に多少の前後がありそうだが、しかしこの集落を守り、街道を守るために
たとえ毀れていても手をいれ整備して使ったことでしょう。
本来の吉原氏城は、集落へ続く街道を扼す位置にあり、明らかに街道を意識して築かれている。尾根の
先端を削平し土塁を設け、城道は幾つかの曲輪の縁を回って主曲輪に入るようだ。従って虎口は二折れと
なるから、破城の時期と矛盾しない。
別の吉原氏城は、吉野城の傍らを通り、上ることになる。城の右側から登ることになり、弓矢や鉄砲は
使い辛い。しかも登ったその先がいわゆるデッドスポットになっていて、前方と左側の両方から攻撃を
受ける。もしかすると右側からも攻撃される恐れがある。
吉野城は、今は家と畑になっており、形状からするとその昔は館城で北畠式のプリン状の曲輪のようだった。
この奥の杉林の中に、罪人を処分したと伝えられる場所があり、「首切り場」と呼ばれている。
「首切り場」という処はあちらこちらの城や街はずれに残っているが、その付近を通るときはあまり気持ちの
よいものでは無い。どこかしら陰気なものだから。故に私は決して薄暮から夜には通らないようにしている。
☆所在地 三重県名張市神屋字吉原
吉原氏城


2008.9.21 撮影
吉野城
2008.9.21 撮影